25.くちづけ
気が付けば、僕の眼は冷たい雫をとめどなく落としていた。
寝台の上で少しだけ丸まって、あどけない表情で眠る兄の真横で立ち尽くす僕は、はらはらと音も無く涙を零した。その雫は冷えきった金属の塊のように強張りきった心のせいで、酷く冷たく思えた。氷の粒のように、凍えるくらいに冷たく感じた。
その雫が、ひと粒、ふた粒、と兄の頬に落ちて、落ちて、流れて、落ちて__。
兄はむにゃむにゃと曖昧に口をまごつかせながら、手の甲でそれを無邪気に拭っては『…すき……』とか小さく呟いてる。
兄さんの胸や背中は穏やかな起伏を繰り返す。鍛え上げられた肩回り、程良い肉付きで思わず撫で回したくなる長い手足も、呼吸に沿って緩やかに動くその厚い胸や広い背中も、僕が散々に愛して付けてきた、痕跡だらけの痣だらけだ。
それなのに__、どうしてなの?
そんなに穏やかな顔をして__。
こんな僕に、まだ『好き』だって、言ってくれるの?
今僕は、とんでもない自責の念に駆られて、こうやって独り、絶望しているんだよ?
神様に手を出した、この手を掛けて穢してしまったと言う、余りの罪の大きさ、重さと、その天罰に、慄き怯えながら、こうやって独りで震えているのに。
どうしてだよ、そんなに幸せそうな顔をして__。
……僕は、こんなにも……苦しいってのに……
お願いだから、やめてよ兄さん……そんな顔するの……
……泣いてる僕が……まるで……まるで馬鹿みたいじゃないか……
子供みたいな顔して眠る可愛い兄さん、
全てを忘れて捨ててしまうほど、辛い思いをしていた可哀想な兄さん、
他の全てを取りこぼし、純粋な心が一つだけ、ポツンと残ってしまった孤独な兄さん、
透き通るばかりの綺麗な心を捨てきれなかった、孤高の兄さん、
色んな想いが込み上げる。
溢れる涙は一向に枯れる気配がない。
僕は泣きながら、その頭に腕を伸ばし、ピンクの前髪にそっと触れてみた。
兄さんの心みたいに、柔らかで温かな感触だった。それを指先に確かに感じて、また泣いた。
無意識にその前髪を撫で梳いていた僕の指が、ふと、止まる。
今、分かってしまった。
この__ボブと言う人格は、兄さんの原石なんだ。
地球へ降りた事は確からしい。そのどこかで記憶を無くすほどの何かに遭って__。
記憶を零してしまった兄さんは、『ジェターク社の跡取り息子』『グエル・ジェターク』『兄さん』など、社会的な立場や肩書、役割なんかの全てを失念している。
あるいはそれらの重責に耐えられず、心底嫌になったからこそ、『僕』の事も『父さん』の事も、会社や寮の事はおろか、自分の事すらも、全てを忘れてしまったのかも知れない。
それでも__。
自分の生きて来た、軌跡の全てを削り取っても、そぎ落としても、彼は光を失わない。
いや、失えなかったんだろう。
記憶を落としても、自分を見失ってしまっても、それでもなお__。
宝石や綺羅星のようなその光を、自分でも、嫌でも振り払う事が出来ないのだ。
決して失われることない、この眩いばかりの強い光こそが、僕の求めて止まないもの、好きで好きで、愛おしくてたまらない、求めて止まないものなのだ。
この心を惹きつけてやまない。あなたはいつも罪な人だ__。
ジェタークの肩書が無くても。兄さんの肩書が無くても。何処にいても、何をしてても。
あなたは僕を見つけて愛してくれる。こんなに優しくしてくれる。好きだって、愛してるって言ってくれる。慈愛に満ちた女神のように、その青い瞳で見凝めてくれる。
ああ__、やっぱりこの人が好きだ、大好きだ。
もう兄さんでも、ボブでも構わない。
運命が僕らのことを離そうとして、何度も何度も引き裂いたとして__。
僕も同じだ、何度だってあなたを必ず見つけ出すから。気の遠くなる回数引き裂かれても、絶対に諦めないから。
生まれ変わらせる意味もないと神が根負けするくらいに、その手を掴んで離さないから__。
止まっていた指先が、再びゆっくり動き出す。無邪気な寝顔を見せつけてくる緩みきった頬に触れ、その温度に触れて、あたたかな熱が伝わるのを感じて、安堵すると同時に、詰めてた息を静かに解いた。
彼の柔らかな桃色の前髪を、前から後ろに撫で梳いて、今度は少しコシのあるモフモフした濃茶の癖っ毛を、手のひらで大きく包む。寝てる彼を起こさぬように気遣いながら、極々優しい力で何度も撫でた。
この頬を伝って落ちる雫はまだ止まらない。だが、それに今度は仄かな温もりを感じる。
僕の温度、彼の温度。どちらも仄かに温かい。生きている、二人とも。
生きていたんだ、兄さんが__。
もう、それだけで充分じゃないか。兄さんが自分の事を忘れていても、僕の事を忘れていても。
それでも、僕は充分に幸せだ。
大好きだよ、兄さん__。あなたの事が、昔から。
そう。うんと昔からだ……出会った時から、あの日から。ずっと、ずっとだ__。
温かな涙の雨は、兄の枕元に歪な斑点模様を落として描く。僕は世界の何者からか逃れるように、足音を忍ばせながら、そっと彼の傍らで片膝立ちに跪く。片手は彼の頭に添えたまま、もう片手は彼の手をとり、指先から優しく絡めて恭しく引き寄せた。
ボブは起きない。深い眠りに落ちたまま__。
ボブの__、兄さんの表情は、変わらず呆れるくらいに穏やかな顔そのもので。
ベッドサイドで小さく灯るナイトライトの光のみが、ぼんやりと辺りを照らし出している。そのシンと静まり返った薄暗がりの中、僕はただ一人厳かに、粛々と、決意表明の儀式を執り行う。
寝ている間は少しばかり幼く見える兄の顔は、言葉に詰まってしまう程愛おしい。
だから__言葉じゃ全然足りないから。
言葉に出来ないものなのだから、
言葉じゃなくて__。
その頬に、唇に、ゆっくりと近付き瞳を閉じる。
少しだけ震えながら、そっと触れるように、今まで彼にしてきた中で一番の、強い想いと気持ちを込めて、深くて長いくちづけをした。
その瞬間、兄さんに会ったあの日から、ずっと沈めて押し殺してきた気持ちが噴き出した。今静かに、しかし確かに、流れ出して止まらない。止めどなく流れ出る激情は、もう蓋をしようが栓をしようが、止められない。一度湧き出してしまったこの大きすぎる感情は、もう押さえる事が出来ないのだと、そう覚った。
僕は目の前で眠りこけるばかりの彼に、この先も決して変わらぬ愛を誓った。
触れ合った唇を離した刹那、ふっ、と脳裏に一つの灯がともった。頭の中に描かれたのは、明かり一つない、新月の夜のような、静かな闇に包まれた世界だった。その暗がりの中で、夏の終わりに一匹だけ取り残された蛍のように、微かに瞬き灯ったのは赤紫色の小さな炎だった。シュバルゼッテの額に灯ったあの色だ。片翼に輝くマゼンタ色と紫炎の色のグラデーション。シェルユニットを輝かせる、悍ましいあの色だ。ゾッとするほど息を呑むほど、美しかったあの色だ。
『助けて__』って兄さんの声が聞こえた気がしたあの日、その声に導かれるように、僕はボブに出会って__。シュバルゼッテを奪われ、心も一緒に奪われた。
水星女が現れてから全てがおかしくなって、極めつけは兄さんの失踪だった。
その時からだ。僕の心にぽっかり空いてしまった虚ろな穴。それを侵食するように巣食い続けてきたのは、心の中で蟠る、どす昏く縺れ合う醜い塊。闇のような深い黒と、流れ出る汚血のような深い赤。
それがぐるぐると糸を引き、互いに絡んで縺れ合って、醜い腫瘍のように次第に肥大して、固いしこりへと育っていった。ここ半年ほどで、絡みに絡んで、もう自力で解(ほど)くことすら出来なくなって、それはどんどん膨れていって、心の隙間を埋め尽くした。
悪気はないのだろうが、学生達の兄さんに関する期待や噂話を耳にする度、こんな時に『グエル』がいれば…そんな匿名メッセージを端末越しに目にするたびに、この胸は、痛んで疼いて仕方なかった。只でさえ棘のある顔などと評される僕の人相は、益々険悪な雰囲気になっていたことだろう。
ああ、駄目だ__僕じゃやっぱり駄目なんだ。何一つ、上手くはいかない…
やっぱり兄さんの代わりなんて出来ないんだ。あの人は違うんだ、兄さんは特別な存在なんだ__。
どす昏い胸の内で膨れ上がった深い闇に堕ちかけた僕を、両手で抱え、掬い出してくれたのはボブだった。彼は僕に言った。
『あなたのお陰で助かった、宇宙の藻屑にならずに済んだ、感謝している』と。
シュバルゼッテに救われた__?
僕によって救われた__?
勘違いも甚だしい。
君こそ、この昏い闇の奥底に堕ち込む間際の僕を、その腕でしっかり掴み、掻き抱いて、引っ張り上げてくれたんだ。心の中で今も密かに脈を打つ、赤くて黒い、どす昏い塊。それに呑み込まれることなく、こうやって、何とか今日の今まで、やり過ごせているのは__。
ギリギリ正気の範囲に僕が留まり続けて居られるのは__。
君の、ボブのおかげなんだよ。僕を掬い上げ、心を救って愛してくれるのは、やはりあなただ。
いつも最後は、あなたなんだよ、兄さん__。
小さな赤紫色の炎は、赤くて黒い塊にそろりそろりと忍び寄る。子猫がじゃれて遊んだ後の毛糸玉のような、縺れて絡んでどうしようもないほど錯綜し合った、僕の心に巣食う奇怪な塊。そして、妖しく煌めく蝋燭の炎。または人魂__。赤紫色の焔の舌をチラつかせるその鬼火と、醜悪なしこりは次第に距離を詰め、その二つは音もなく静かに接近して__。
互いが触れ合うかと思われた刹那。縺れた赤と黒の糸がバラリと解けて落ちた。あたかも見えない鋭い刃物によって鋭く断ち切られたようだった。バラバラと解けた糸紐は落下しながら燃え盛る。赤黒の纏いを失い一回り小さくなったどす昏い塊は、一層暗い闇色の核を顕した。
それを、あの息を呑むほど美しい、妖しい赤紫の炎が包み込む。
篝火を移されたように、ぼうっ、と静かな音を立てながら、醜い闇の塊は勢いよく燃え出した。
赤紫色の火柱が大きく上がる。それは高く火柱を上げながら激しい焔を吐き散らし、轟々と音を立てながら、キラキラ光る火の粉を黒い世界に撒き散らす。
僕はその光景を、息をするのも忘れて呆然と眺めてる。
辺りにはキラキラと煌めく火の粉が、鱗粉のように舞い踊る。漆黒の虚ろな空に舞い上がっては、舞い狂う。その様が得も言えず美しく、美し過ぎて息を呑む。死の情景かと思わせる妖美なその光景は、この世のものとは思えなかった。
その光景の中心で、燃やし尽くされていくどす黒い塊は、次第に灰煙と化し紫炎の火柱と一緒になって螺旋を描きながら上空高くへと舞い上り、虚空に混じり、最後にはふつりと消えた。
後には消し炭一つ残らなかった。
闇に満ちた世界に静寂が戻る。辺り一帯を覆い尽くす、キラキラと光り輝く火の粉の舞に目を奪われながら、僕は恍惚としてその渦巻く旋風の中心で、冷めやらぬ興奮と共に闇空を見上げている。
その向こう、遥か向こうに何かが見えた。何だろうと目を細めて見凝めてみる。あれはさっきの赤紫色の小さな炎だ。縺れ合った塊に火を点けた後、舞い上がる灰と一緒に虚空に昇り、溶けて消えたあの色だ。それが遠くで小さな星のように瞬いている。
希望のように瞬くそれを、目を凝らしてしばらく見つめて、漸く判った。あれは__。
歪な片翼は、妖しく美しい光を照り返す。
細身の太刀を片手に、悠然と、厳粛に、虚空の闇に佇む魔女__。シュバルゼッテ。
もう片方の手はゆるりと開かれたまま。こちらを誘うようにそっと掌が差し出されている。
そうか__。その色は、大好きな兄さんの髪色と同じ色だ。悍ましいとか言ってごめん。
君はとても尊く、息を呑むほど美しい。そう、兄さんと同じように。
その昏く瞬く赤紫の小さな星を、シュバルゼッテのその指先を、この目には僅かな希望と映るその光を、僕は指先で掴み取ろうと、手を伸ばして__。
現実世界に引き戻された。
理由は、兄が伸びをしながら大きく寝返りを打ったことが一つ。
もう一つは、たった今、重大な事実に気付いてしまったからだ。
ジェタークも、兄さんという肩書も、全てをとっぱらった原石が、純粋無垢なボブという人物で、兄さん本来の人格ならば__。
ヒーローや神様を、兄としての役割を、ジェターク家の跡取り息子としてのグエルという人物を、理想の偶像として型に嵌めて、押し込めて、苦しめていたのは__。
今まで兄さんのこと、散々苦しめて来たのは、この僕だったんじゃ__?
彼は、グエルは、神様じゃない。
神様じゃなかったんだ、兄さんは__。
とんでもない勘違いをしていたのは、他でもない、この僕だ。
とんだ大馬鹿者だ。
もう、手を伸ばしてもいい。
いや、違う。
伸ばさなきゃ、しっかり掴んでおかなきゃ__。
きっとまた、この彼はとんでもなく遠い所まで行ってしまう。
手の届かない、遠くの彼方へ消えてしまう。
ボブが、兄さんが、目の前から消えてしまう。宇宙の黒に溶けて、跡形もなく消えてしまう。
もう二度とあなたを失わないと決めたのに。
今しがた、生涯あなたを愛し守っていくと、宇宙に、自分に、誓ったばかりなのに。
急に酷く怖くなった。
どくん、どくん、と脈打つ心音が耳に煩い。そして疼くように痛かった。
締め付けられる胸。それをギュッと掴んだ。
させるもんか__、もう何処へも行かせるものか。彼を、ボブを、グエルを、引き留めなきゃ__。
兄さんに僕の声は届かない。
それは水星女が現れてから、全てがおかしくなったここ半年ほどで、嫌というほど思い知った。
ならば、どうする__?
僕が、ボブを、グエルを、彼の手を、握って引き寄せ、その身も心もしっかり抱き締め、君は神でも英雄でもない、何もかもを一人で抱え込むのはもう止めろと、孤高のヒーローぶるのはもう終わりだと、抑え込んで、引き留める方法は__。
自分の足元すら確かめることもせず、ただ闇雲に茨の道へに突き進もうとする愚かな彼を、もう何処へも行くなと引き寄せて、この手に収める手段とは__?
僕は、ごくりと唾を呑み込んだ。