24.ふとした気付き より一部抜き出し

24.ふとした気付き より一部抜き出し



 

 兄が差出人となっている小さな小包が、ウチの寮宛てに届いたのは、彼がキャンプの痕跡をそのままに、学園郊外の森林地帯に残して姿を消してから1週間程経った日のことだった。消印は高専に程近いポストオフィス。中身は兄所有の生徒手帳の入った通信端末と、綺麗に折り畳まれた制服、いつも着ていた青白の機能性インナーだけだった。これを見た時、僕は大いに狼狽え、蒼褪めた。

ああ、兄は本気だ__。

気まぐれじゃない。子供の可愛らしい家出とかじゃない。本気で出ていくつもりなんだ。

もう連絡を受けるつもりは無い、居所を知らせるつもりもない。学園に戻るつもりもない。今までの彼の半生とその全てを、この端末や制服と共に、置き捨て脱ぎ捨て生きていく。そう言う決意の宣言だと、僕はそのように受け取った。

僕から報告を受けた父さんも、その意味を察したのだろう。同じように慌ててた。


 退寮を余儀なくされた兄さんが、学園内ではあるものの、寮や学舎の建物からは少し離れた森林地帯で、キャンプ生活を送っているとの報告を寮生達から聞いた時、僕はその性格を知っているから、絶対に構いに行くな、様子も一切見に行くなと、寮生達に強く念を押して回った。

ああいう時、下手に構うと拗れて余計に面倒になる。プライドの高い兄さんだから__。小さい頃から何度もそんな経験をしてきた僕は、その時の判断を、後になってそれは死ぬほど後悔した。

あの時僕は、兄さんの両足の腱を、得意の斧で背後から断ち切ってでも、その足を止めさせるべきだったんだ。消息不明で生死も分からぬ、こんな事態になるくらいなら__。


 どうにも諦められなかった僕は、今度ばかりは父の言う事を聞かなかった。提出するようにと預かった退学届けは、未だに寮の自室の引き出しにしまい込んだまま眠っている。

そして兄からの最後の音信となってしまったこの通信端末も、学校側には返却せずに電源を切ったまま、隣の兄さんの部屋の机の引き出しにしまい込んだ。

いつか帰ってくる日を夢にまで見て。願掛けのように期待して__。


 久しぶりに足を踏み入れる兄の自室。入ってすぐのハンガー掛けには、届けられた制服が皺一つない状態で主の帰りを待っている。奥の壁際には、今となっては、その前に座れば少しばかり窮屈であろう学習机。その天板には、あちこち小さな傷が付いている。これは子供の頃にたまにやってた模型作りの過程で、何度か手元が狂って付いた傷だ。

真正面には今は亡き父さんが、キャンプファイヤー前でギターを爪弾く渋い写真が飾られたまま__。兄さんが格別お気に入りだった一枚だ。子どもの小遣いにしては高額な額縁を、数月分貯めてまでしつらえたもの。


 模型作りも得意だった幼少時代の兄さんは、数度のノックの後にドアを開けると、この机に向かってこちらに背を向けながら作業をしている時もあって。小さい頃に二人でこの机に向かって肩を並べて、兄の懇切丁寧な指導のもと一緒に作り上げた事もあった。たしか初めて一緒に作ったのは、当時新規試作機として力を入れていたディランザのミニチュア模型の組み立てキットだった。販促用の景品として配られていたそれは、父さんが会社から2つ持ち帰ったもので、苦労して何とか完成させたってのに、兄さんたら『お前、案外不器用なんだな…』なんて言うもんだから、僕は膨れっ面になった。『冗談だよ、冗談! 初めて作ったんだろ? それにしちゃ上出来だぞこれ、百点満点だ!』って背中をバシバシ叩かれた後、頭をくしゃくしゃ撫でられて__。僕は笑顔を取り戻した。『もう、兄さんの意地悪っ!』って言いながら、兄の腕に飛び付いて__。それで、それから__。


 小傷が入った机上に指を滑らせながら、その傷をなぞった後で、震える指で一番上の引き出しに手を掛ける。震えのせいか、僕の心がそれを怖がっているのか。ガタつくトレイは中々開かない。やっと半分ばかり引き出された暗がりに手を滑り込ませると、端末を掴んでそっと取り出す。脈打つ自分の鼓動を聞きながら、久方ぶりに電源を入れてみる。兄がいつ帰って来ても良いように充電してから仕舞っていたので、数月経ってはいるがそこら辺は大丈夫のはず。起動にやけに時間が掛かるように感じられ、心がじりじり焦らされる。


 確か、朧気ながら入学時に設定を済ませておくよう指導を受けた覚えがある。普段は使う機会もないからすっかり忘れていたが、予備の手段として指紋の登録もするようにとの話だった。

兄さんはそういうところ、わりとアバウトだから__果たしてどうだろう。


自分の顔で顔認証を数回外すと当然ロックが掛かり、指紋認証に切り替わる。誰に向けるわけでもないのに、足音を忍ばせるようにして、そっと自室に戻った。


静かな寝息を立て続けているボブ。息を殺したまま、その人差し指を取る。震える指で押し付けた。

ピロン、と微かな音が鳴る。端末から伝わってきた僅かな振動。

__通ってしまった…。開いてしまった__。


間違いない。

もう、どうしたって、言い訳出来ない。

これは、兄さんだ。彼は兄さんだ。

ボブは、兄さんなんだ__。


考えてみれば分かりそうなもの、いくら雰囲気が似ている他人でも、黒子の位置まで同じ者など、この世にそう何人もいるものか。

その方が、都合がいいから。きっと僕はわざと見ない振りをしてきただけだ。

兄さんが、兄さんじゃ無くて、もしも他人だったら、友達だったら。親友だったら__。

神様ではないのだから、横に並べる、その手を取れる。握れる、傍に寄って抱き締められる、って__。


癖のある長髪に、制服を肩掛け姿で背筋を伸ばして、数歩先を行く兄の後ろ姿。目に焼き付いてるいつもの光景。僕のヒーローであり、僕の神様、マリア様。

だけど本当は数歩後ろじゃなくて、もっと近くにいたかった。もっと傍に、すぐ隣に__。

僕は兄さんの横に並んで立ちたかったんだ。

だから、僕はボブという存在を、きっと心の底で無意識に、拍手喝采で歓迎したのだ。


ああ、僕は__。

僕の大事な神様を、自らの手で穢した、

この手でこの身体で、神様みたいな彼を穢してしまった__。


 澄み渡る綺麗な心は、透き通る湧水湖のようだった。いつも眩しいくらいに光を反射させて、キラキラと輝いていて__。その光はいつも暖かで、僕の心はいつもその光景に安らぎ、癒されてきた。だから。いつだって、いつまでだって兄さんのこと、眺めていたくなってしまう。

青い瞳も同じだ。光に透かしたガラス玉のように、いつも光を映して煌々と輝いてる。美しくて、尊くて__。いつまででも覗き込んでいたくなる。


 彼は一見、何事にも動じない。火事台風もなんのその。そんな風に見えるのだけれど。湖面に石を投じれば、やはり波紋は広がるし、ガラス玉だって、真っ逆さまに落とせばヒビも入るし、割れもする。外から見ても分からない、そんな繊細なところはたぶん、僕だけが知っている。

そんな気高くて美しい、それでいてちょっぴり繊細なところもある兄さんのこと__。何かの間違いで、誰かが壊してしまわないように。

心理的にも、物理的にも、斧を振るって、懸命に遠ざけてきた。

斬って、斬って、斬り払って、祓い清めて、露払いに努めて来たのに__。


信者として失格だ。

いや、そんな甘いもんじゃないだろ。最低だ、最悪だ、人間として失格だ。

兄さんを敬わない者、兄さんを大事にしない者、兄さんを傷付ける者、兄さんを腐す者、そんな一切合切を、見下し、唾棄し、憎悪の念を向けてきた。それなのに__。


一番不純で、不潔で、不敬で、不信心なのは__他の誰でもなくて__。

僕だった。


兄さんの一番の守護者だと自負してきたのに。あろうことか、その足を掴んで無理やり堕落へ引き摺り込む、悪魔のしもべに成り下がってた。

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