20240415

20240415


「本当なのか?ペトラが地球に引っ越すって?」

「お前、聞いてなかったのか?」

カミルから聞いた話を、ラウダは信じられなかった。まさかペトラがそんな決断をしていたなんて。しかも、それがスレッタ・マーキュリーから来た話だなんて。ラウダは唖然とするばかりだった。

「聞いてない……」

動揺するラウダを見て、カミルは慌てたように続ける。

「まだ行くことを決定したって訳ではないらしいぞ」

「そうか、すぐ決められる話でもないよな……」

カミルの前で取り繕おうとしたものの、ラウダの頭は混乱していた。


ペトラがこんな大事なことを自分に黙っていたなんて。確かに最近は忙しくて、ペトラとゆっくり話す機会がなかった。けれど、彼女はラウダのことを頼りにならないと思ったのだろうか。しかも地球に行きたいだなんて……。ペトラが地球に移住だなんて、信じられない。生まれ育ったフロントの環境にすっかり馴染んでいたペトラが、なぜ……?田舎の地球を選ぶなんて。

カミルは「まだ決まったわけじゃない」と言っていたが、ペトラは地球に行く可能性を考えているのは事実のようなのだ。ラウダはそのこと自体を素直に受け止められずにいた。


***


病室の前で、ラウダは深呼吸をした。ノックをすると「どうぞ」とペトラの声が返ってくる。

「ペトラ、具合はどう?」

「もう大丈夫です。リハビリも順調で、そろそろ退院できそうなんです」

ペトラは以前よりも明るい表情を見せた。穏やかな日差しが差し込む病室で、ペトラの笑顔は柔らかく輝いていた。外科手術とリハビリの痛み、失われた可能性に苦しんでいた頃の彼女を思えば、良かったと言える。しかしそれと同時に、ペトラの中で何かが変わってしまったのだろうか。彼女が何も言わなかったのは、そういうことなのかもしれない。ラウダの胸の奥がざわつく。

「……地球に行くって本当なのか?」

あからさまな動揺が声に表れてしまう。けれど、もう取り繕うのは限界だった。

ペトラはラウダの問いかけに、一瞬戸惑った表情を浮かべた。そして、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい……話そうと思っていたんです。でもラウダ先輩は忙しそうだったし、こんな話を急にされても困らせるだけだと思って……」

「カミルは知ってたみたいだけど……」

そう告げると、ペトラは気まずそうに目を伏せた。

「あ……フェルシーから聞いたのかもしれないですね」

フェルシーには、話していたのか。

「……ペトラ。地球に行くことをいつから考えていたの?正直言って、ペトラがそんなことを考えてるなんて、思いもしなかった」

ペトラはしばし言葉を探るように、視線をさまよわせる。やがて、静かに語り始めた。

「あのテロの時……そばで救助してくれたのがスレッタだったって聞いて。それから、病院が一緒だったスレッタと話すうちに、GUND医療の開発拠点をミオリネが地球に作ってるっていう話も聞いて。私の中で地球のイメージが変わったんです。スレッタの話す地球は、そんなに悪いところじゃなさそうだったから」

ペトラが地球に魅力を感じるようになったのは、スレッタの影響が大きいのか。いつの間にこんなに親しくなっていたのだろう。

「それに、スレッタと一緒にリハビリを頑張ろうって約束したんです。そうすれば、私もメカニックとして働けるようになるかもしれない」

ペトラの話を聞いて、ラウダの中でいろんな感情がぐちゃぐちゃに絡まっていく。また、スレッタ・マーキュリーなのか。フェルシーには言ったのに僕には。ペトラの変化への戸惑い。彼女をまた失いたくない。焦燥が募る。

「ラウダ先輩。私の新しい目標を応援してくれますか?」

そう真っ直ぐに問いかけられて、ラウダは言葉に詰まった。応援してほしいと頼む彼女を前に、「もちろん」と言うことができない。けれど、夢の実現を阻むようなことを言うのも、彼女のことを思えばできない相談だった。

「……わかった。君が何を選んでも、僕は応援するよ」

応援するなんて言ったものの、彼女を手放す覚悟なんてできていない。

「約束します。私、絶対に立派なメカニックになって、ラウダ先輩に報告できるようになります」

「ああ……待ってるよ」

離れ離れになるなんて考えたくもない。けれど、ペトラの瞳に再度宿った光を奪う権利なんてなかった。


***


ペトラの地球行きが決まってから数日が経った。ラウダが実家のダイニングで一人、ぼんやりと過ごしていると、珍しくグエルが顔を覗かせた。

「どうした?元気ないな」グエルが声をかける。

「兄さん……ペトラが、地球に行くって知ってた?」

「ああ。ペトラのためを思うなら、笑顔で送り出してやらないとな」

「そうだけど……」

ラウダの言葉は途切れた。

グエルはコーヒーを淹れにキッチンに立った。

「お前、寂しいんだろ」

コーヒー豆の缶を取り出しながら、グエルは柔らかな口調で話しかける。

ラウダは自分の気持ちをうまく言葉にできず、言葉を詰まらせた。

「ラウダはどうしたいんだ?」

「ペトラが夢をかなえて幸せになるなら嬉しいけど……」

グエルはラウダの言葉を聞きながら、コーヒーメーカーに豆をセットする。その後ろ姿に向かってラウダは続ける。

「兄さんだって、ペトラが地球に行っちゃったら寂しいだろ?」

「まあな……けど、これは俺がどうこうできる話じゃない」

ちょうどケトルも湯が沸いたことを知らせる音を鳴らす。慣れた手つきでコーヒーを淹れながら、グエルはふと過去のことを思い出していた。

かつてスレッタがエランの言葉を受けて涙を流すのを見たとき、グエルは怒りに震えながらエランとの決闘を決意した。しかしそれは、スレッタの望むことではなかった。そして、本当にスレッタの力になれそうだったあの時、グエルは家族という枷に阻まれ、望みどおりにスレッタを助けてあげることができなかった。

グエルは呟くように言った。

「人生は一度しかないんだ。どんな選択をするか、自分で決めるしかないな」

そして淹れたてのコーヒーをラウダの前に置き、優しく微笑んだ。

「お前なら大丈夫だ」


***


ペトラは松葉杖の使い方に随分と慣れてきていた。器用に使いこなしながら、病院の中庭にあるベンチへと歩み寄る。そこにはラウダが待っていた。穏やかな風が吹き、木々が優しくさざめいている。

ペトラがベンチに腰掛けると、不思議そうに尋ねた。

「どうしたんですか?そんな真剣な顔して」

ラウダは一呼吸置いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「僕も、地球に行くことにした」

「え……?」

ペトラの瞳が驚きに見開かれる。信じられないという表情だ。

そして、クスクスと笑い始めた。

「ふふ、冗談きついですよ。ラウダ先輩、田舎は嫌いだって言ってたじゃないですか」

ラウダは苦笑いを浮かべながら答える。

「今でも別に、好きではないけど。あと、ペトラだって同じだっただろ」

ペトラは一瞬黙り込んだが、すぐに口を開いた。

「地球の天気の悪さは有名ですよ。『天気が悪い』ってどういうことなのか、私たちフロントの人間には実感がないかもしれないけど、本当にひどいらしいですからね。ラウダ先輩、大丈夫なんですか?」

「天気の悪さは僕も聞いたことがある。でも、まあ、なんとかなるよ」

ペトラは流れるように続けた。

「スペーシアンに対して敵対的な人だっているかもしれない。普通に生活していても、ここはアウェーなんだなって思うことも多いかも」

「うん、そんなの地球じゃ当たり前だろうな」

ラウダも同意する。

「インフラだって、こっちと比べたら全然整ってないし」

「まあ、それは覚悟してるよ」

「それに、お仕事はどうするんですか?」

ペトラの問いかけに、ラウダは言い切った。

「どうにかする。大丈夫だ」

ラウダの言葉は揺るぎない。ペトラは声を詰まらせた。

「……よくわかんない害虫だって、出るかもしれないんですよ」

「それも、まあ……どうにかするよ」

ラウダはペトラの手を取り、まっすぐに瞳を見つめた。

「ペトラ、僕は君のそばにいたいんだ。だから、地球に行くことにした」

「そこまでしなくても……私……」

ペトラはぽろぽろと涙をこぼす。

「ペトラ……僕は君が思っている以上に君のことを大事に思ってる。君の力になりたいんだ」

その瞬間、ペトラの心に堰を切ったように感情が溢れ出した。

「ラウダ先輩……!」

ペトラは声を上げて泣き始めた。涙が止まらない。

身体機能を取り戻すために地球への移住を決意したものの、仕事のためにフロントに残らざるを得ない両親と遠く離れることも、それほど付き合いが長いわけでもない地球寮の面々しか知り合いがいない未知の場所に行くことも、不安で仕方なかった。今まで必死に堪えてきた寂しさ、不安、そしてラウダへの気持ちが入り混じって、どうにも抑えられなかった。

ラウダは子供のように泣きじゃくるペトラをそっと抱きしめ、背中をさすり続けた。ペトラの体温を感じながら、優しく語りかける。

「僕がそばにいてもいいかな?」

次々と溢れてくる涙を手のひらで拭いながら、ペトラは小さく頷いた。

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