17,45-46,65-66,101-105,140-141,168-169
1(17) Blind
ジャングルポケットは良く覚えている。
叩きつけた挑戦状が、“皐月賞ウマ娘”にあっさりと受け入れられた瞬間を。ギラギラと輝く、狂気を掲げた瞳を、
──“アグネスタキオン”の似姿を。
アグネスタキオンはレースを辞めて以来、マンハッタンカフェにばかり構っている。ダービーにも、当然菊花賞にも出なかったくせに。彼女にはふざけた雑談を仕掛けるが、ジャングルポケットの宣戦布告はいつも片手であしらわれていた。
テイエムオペラオーは嬉しかった。
“ダービーウマ娘”の、苛烈なまでの挑戦が。あり得ないものになった、真っ向から与えられた、
──“アドマイヤベガ”の幻想が。
最初から、アドマイヤベガの最大のライバルはナリタトップロードだった。優しく照らす光が、そこにあったので。皐月賞も、ダービーも、菊花賞も共に走ったけれど。並走を申し込んでも、アドマイヤベガの眼はいつもどこか薄ら冷たく凪いでいた。
だからこうなることは必然であったのかもしれない。追い縋った相手は満月を、黄昏を見つめていた。
そして紫水晶と黄玉の瞳がかちあうのもまた、必然だったのだろう。
「──少し、一緒に走らないかい」
ジャングルポケットにとっては深く瞬きをしている、爛然と煌めく紫の瞳は得体の知れぬ赤い眼と同じ様に見えた。だから、明るすぎる栗毛の頭の後ろに手を回した。太陽の黄色が宵待ちの薄紅に塗り変わっていくので、テイエムオペラオーは同じくらいの丈の背に手を添えた。
(45-46) Jaywalkers: Starry-eyed
微かに震えていた声から耳を塞いで、重なった温もりに目を瞑って、そうして始まった関係は暗黙の了解に満ちていた。唇はただ重ねるだけ。指先は重ねて添えるだけ。約束はしない。見えざる一線には、互いに相手を代替品にしている後ろめたさがあった。あれは気の迷いのようなものだと済ませたかったのだ。そう思えば呼び出すことも向かうことも出来なかったが、それは吊り橋の上でロープが切れるのを二人とも待っていたのと同じだった。
「アヤベさんとデートなんです!」
その言葉を聞いて冷やかしつつ見送ったのと同じように、ノックされたドアの向こうで黙りこくっていたテイエムオペラオーを部屋に上げた。先を越された、と密かに思った。部屋に上がった彼女はいつも通り何か言おうとして、珍しく惑う目が反対側の机を捉えて口を閉じる。その沈黙の理由が、ジャングルポケットにはよく解っていた。
愛おしげに飾られたツーショットの満更でもないアドマイヤベガの表情と、それにまつわる惚気話を何度も聞いていたのだから、舌打ちをしそうになった。ジャングルポケットのルームメイトがナリタトップロードだと知っていたハズで、テイエムオペラオーはアドマイヤベガの残り香の存在に気づかなければならなかった。
それもわからなくなるぐらい動揺していたのだと後から理解して、呑み込んだ。いつもの逢引と同じように、ベッドの縁に腰掛けてキスをする。結局のところ閉じた瞳にジャングルポケットは赤色を探していて、テイエムオペラオーも触れた手の体温に夢を見ていた。ある意味規則的になったただそれだけの行為が、昨日旧理科準備室に入れずにいたジャングルポケットには寂しいと思える。それは確かに、あの日の繰り返しのような、憐憫だった。
重ねただけの影はあの日よりも深く境界を融かし、求める手に答えて王冠が掛け布団の上に弾んだ。キスの名残が、星を探してぼやけた紫の──青が混ざる瞳に残っている。寝言のように口が開く。
「──アヤベさん」
夢見心地に、覆い被さる影を見ていた。望んだ光景は許されるはずだと、
「ァ、がッ」
目測を見誤って、溺れていた。
衝動任せに、喉を潰すほど指が絡まる。
ジャングルポケットは密会の不文律を破った。星を透かし見ることを許していたはずで、紫の色味に赤を探すことを望んでいることも未だ変わらない。だから、アドマイヤベガの役を被せることを否定する資格は最初から、どこにもない。
だが、東京2400メートルの勝者に注がれるだけの、ジャングルポケット自身を透過していく呼び名が今の一瞬あまりにも耐え難かった。
和解を求めた華奢な手が重なる。その先にあるのが訣別だと直感したから、膝を腕に押し込んだ。
「“タキオン”、なあ、タキオン、」
──”オペラオー。”
「俺を見ろよ!タキオン!」
──“私を見なさい“
だからまた、紫の中に赤い狂気を探す。星を見る青から目を逸らす。
「アヤベさ、アヤベ、さん、もっ、と」
──“ポッケくん、もう少しだけ、”
溺れる様な呼吸の中で、中山2000メートルの勝者は星を求めて笑った。
(65-66) Jaywalkers: Redlight
無人の脱衣所にて、テイエムオペラオーは今日の痕跡に触れた。休日でもなければ誰かに見咎められていただろう呼吸を奪う激情の名残を、鏡越しに睥睨した。ジャングルポケットが誰に向けてその爪痕を残そうとしたのかがわかっていた。故に、軽蔑を向けていながら熱を孕んだ息を吐く。
──『“アヤベさん”』
それを求めたのは確かに自分自身だ。呼吸を許さない口付けに溺れ、引き倒されたまま水底に沈むよう。岸辺の写真など見えなくなるほど深く、目を瞑って愚にもつかない妄想に逃げる。最初からお互いの望みはそうだった。その上で、元はといえばそんな醜態の演目に己を引き摺り込んだのはジャングルポケットだったのに。
(……いや、止めなかったボクもか)
最初は喜劇のように走って笑って幕にするつもりで、鏡写しのような表情をした彼女に声をかけた。直後に触れた唇への拒否感と奇妙な心地良さ、思わず見開いた目に映る他の誰かの形を探す眼差しが、矜持に泥を投げつけた──このテイエムオペラオーを──代役に、した。
よぎる激憤、されど抗い難い融け合うような、我が身と同じ温もりのせいで悟った。人知れぬ涙では済まされないと。どうやったって何をしたってソレが付き纏う。目を閉じて手を伸ばせば一等星の幻があって、苦い口づけを最終的には拒絶できなかった。したくなかった。“テイエムオペラオー”を求めないという点でアドマイヤベガによく似た目を暗幕の向こうに追いやれば、残るのは尚も触れる熱。そこに重ねた空想がジャングルポケットの探索の対価になっていたのだから、もはやテイエムオペラオーに咎め立てされる謂れはない。元より、横恋慕の舐め合い以外の何でもない。ならば、赫怒にたぎる目が不貞を咎めるさまがなんになるというのか。テイエムオペラオーはどこか遠くから見ているような気でいた。ジャングルポケットを、そして、エドガルドの如き首ったけの激情の矛先がもし、己だけに突きつけられていたならルチーアになりたかった自分自身も。それでも彼女が何故ここにいるかを知っている、だからこそ。
目を開けば、また“アドマイヤベガ”が遠くに手を伸ばしている──その演目を変えられると思えない。ルチーアを演じたいとは、今は思えない。
故に、ただの妄執の名残をなぞる。
ボクがアグネスタキオンの代替だというのなら、君はアドマイヤベガの虚像でいるがいい。生涯そうして、この首を締めていればいい。
鏡写しの彼女に同じ首枷があることを、呪うように願っていた。
(101-105) Lapse
何重にも混ざり合うお喋りの隙間に食器の音が混ざるカフェテリア。
「…相席、いいかしら」
ジャングルポケットは了承して顔を上げると、丸く目を開いた。
「ありがとう。使わせてもらうわ」
静かにトレイを置き、正面に座ったのがアドマイヤベガだったからだ。ジャングルポケットの箸と茶碗が音を立てた。
手を合わせて黙々とアドマイヤベガは食事を始めた。所作は丁寧でありながら、それに反して気まずい様子ではあったものの正面の相手をちらちらと伺っていた。
「………何見てんだよ」
対するジャングルポケットはといえば、胸中に不穏当な熾火が燻り始めているのを感じていた──アドマイヤベガ。自身の二つ上の“ダービーウマ娘”でテイエムオペラオーの同期。ダブルティアラウマ娘を母に持ち、クラシック期までは誰よりも嘱望を浴びていた。そして菊花賞以来、レースには出走していない。
確かに彼女は自身にとってのアグネスタキオンと同じなのだろう、とジャングルポケットは辛うじての良識で顔は歪めずに思う。だからこそ、二人揃ってあんなことを続けている。その責任をアドマイヤベガとアグネスタキオンは当然として当人二人以外に問うことはできないが、ジャングルポケットにとって態々アドマイヤベガが聞きにくるだろうことはそれ以外に思いつかず、そして彼女に二人の逢瀬に立ち入られると想像した瞬間、紫の瞳を覆いたくて堪らなくなった。
「…………その」
素行不良の噂通りに睨まれても動じた様子はなく、変わらずアドマイヤベガは話しづらそうにしていたがそれは単に言いづらいだけに収まらず、面倒臭いという含みがあるように見えていた。
「変な噂はさっさと否定した方がいいわ。あなたとオペラオー、付き合ってることになってるから」
心底面倒臭い、そんな様子で言い終えたアドマイヤベガは空になった食器を乗せたトレイを持って立ち去ろうとした。その手を掴む。
「…待てよ」
逃すな、と直感が言っていた。的外れでありながら事実の一端を掴んだ噂話を、逃してはならない。思考に先だった勘に引きずられて、レース中の駆け引きのように神経が張り詰める。
がしゃんと食器が鳴った。
「…だから言いたくなかったのに」
予想していたことではあったのだろう。アドマイヤベガは再び座って、話し始めた。
「だから、そういう…あなたとオペラオーが恋人だって噂が立ってるから。学園の外に漏れたりしたらどうするつもり?」
彼女にとってそれが面倒な説明であることに変わりなく若干険のある物言いになっていた。だが、それがジャングルポケットにもたらしたのは奇妙な興奮だった。まるで、レース展開を読み切った瞬間のような。
「あいつに言えよ」
口調は震えていた。呆れや、怒りだとアドマイヤベガは受け取ったかもしれない。だが、スパートに入っているかのように体が熱い。
「もう言ったわ。まるで聞いてなかったからあなたにも言っているの」
面倒臭い、以外の色は一切伺えない挙措に音は無い。にも関わらず、府中を満たした大歓声がそこにある。
そのあとは何か、生返事をした気がするがジャングルポケットは覚えていない。ただその後にテイエムオペラオーからの呼び出しがあったことだけが重要だった。
夜半、栗東寮裏手。外出届を求める者は寮の外、それ以外は夢の中。その空隙に二人はいた。
「やあ、“ポッケさん”。夜にすまないね」
澄んだ冷たい空気が茂みの中でだけ沈んでいる。温もりがわかるほど側に寄ったジャングルポケットに、テイエムオペラオーはそう告げて向き直った。
「──敢えて単刀直入に言おう。もうこうして会うのはやめだ」
紫の瞳が揺れている。
「噂は聞いただろう?ああいうのは今後に障る」
普段通りの口調に、わずかな震えが隠れていた。昼間の面倒そうな、どこまでもそれ以上のもののない態度とは、全く違っていた。
「嫉妬して欲しかったんだろ」
「違う!──元々駆け引きでさえもない!だが、こんなのは、ただ──」
語気が荒れ、耳が絞られる。言葉を躊躇って浅い呼吸が溢れた。
「ただ──見苦しい、じゃないか」
悲鳴のように絞り出された言葉はそのまま涙を引き摺り出そうとしていた。それでも堪えて、向き合わなくてはならないのだから睨むように前を向く。あの忠告を聞いた瞬間、その声音の中に嫉妬を探した自分自身に、その浅ましさにも気がついた。一度感じてしまえば、更にはその逆の妄想をジャングルポケットに押し付けて、自分を見ろと喚いていることが悍ましく見えた。
「もうたくさんだ、もう疲れた、こんなッ──こんな、醜い真似がこれ以上できるわけないだろう!?」
ジャングルポケットを見つめる。歪まないよう耐える視界の中、鏡像のように彼女は映る。
「言いたいのはそれだけか?」
「あぁ、悪くなかったとお互い言えるうちに止めるのが身のためだ」
上擦りかかった声で続けるテイエムオペラオーを、ジャングルポケットは笑った。直情な節のある彼女らしくないとテイエムオペラオーが訝しんだ時には、勝敗は決していた。
勝ち誇るような、慈悲とも憎悪ともつかない笑い顔で指差された方を向く──瞬間、演技も追いつかず蒼ざめる。
「──違ッ、」
追い縋って袖を引くように、尻尾がのびていた。動揺のまま、伸ばされた手によって体が落ちる。正面に広がった暗黒の夜に、ジャングルポケットの寂しげな目がまるで星のように光っていた。
「なぁ──タキオンは心配もしなかった」
間違いようのない悲痛さが宿った声音を聞いて、かっと心臓が燃え立つ。憐憫よりも困惑よりも、憎悪が勝った。ジャングルポケットが憎らしい。彼女にアドマイヤベガを求めていながら、アグネスタキオンばかり求められるのが憎らしい──
それの──なんと、陋劣な。浅ましい、卑しい。
「離せ!」
睨めあげ、体勢を覆そうともがく姿はとんでもない絶景だった。あのマッチレースの叩き合いとは違う愉悦がやっと、ジャングルポケットの何かを満たした。
「っはは、やっとこっち見たよなぁ!?」
獰猛な黄金色の目は星影の清浄さとは程遠く、持ち込まれた駆け引きに負けたことをテイエムオペラオーは悟る。だがその敗戦に歓喜している自分自身に身震いした。ジャングルポケットが笑っている。他ならぬテイエムオペラオーの首級を掲げて悦んでいる、そうして顔を掴まれ交わす口付けが爛熟した果実のように甘い。
今はこれでいいと投げ出しそうになる思考を繋ぎ止めたくて、目を閉じた。
(140-141) バームクーヘン塩味
色とりどりのフラワーシャワーの下を、純白の二人が潜り抜ける。
テイエムオペラオーは笑いながら花を投げていた。
ただその隙のない朗らかな表情が、きっとジャングルポケットにだけはいつか見た泣きそうな顔に映っていた。だから彼女を一人だけ連れ出して、家の座卓に出せるだけ酒を並べた。或いは何か、同情ならざるものを載せていたのだろうか。それは彼女にも判らないまま、直感だけが呼んでいた。
缶を開けていくほど、仮面の堅牢さを保つためか口数が減っていくことが普段以上に喉を渇かす。ジャングルポケットの知らない歳月が一線を引かせていた。それでも彼女が席を立たないでいることが、嬉しかった。二人の間にあの秘密を介さない話題は少なくて、対岸の祝宴とは比べるべくもない静寂が広がっているのだろう。
自分から話を切り出すつもりはなかった。酔って散乱する脳ははっきりした理由を述べないが、とにかく彼女自身に曝け出して欲しかった。もしかしたら、過去に交わした逢瀬のように。
呑んで、片付けて、つまみになりそうなものを出す。繰り返す。座卓の向こう側で真っ赤な顔がゆらゆら揺れる。飲ませすぎたと判断した時、ぐらりと横倒しになった。
「大丈夫か!?」
咄嗟に出た大声が堪えたらしく彼女は目を瞑って耳を掴んでいた。沈黙を選んだ姿を見て、ごくりと喉が鳴った。
「……ぁ、」
それが獲物に飢えた獣の息だと気づく。
「悪、い、飲ませ、すぎた」
謝りながら、勝手に落胆している自分に呆然とする。いつか慰めあったようにと都合のいいところを思い出しながら、結局は卒業の日に出て行った彼女の腕を掴んで、傷を抉りあった日々に帰ろうとしていた。
テイエムオペラオーは悟っていたのかもしれない。きっとそれで何も話そうとはしなかったのだろう。
こころよい酩酊はすでに吹き飛んで、頭痛の気配がするが、彼女の方が酷そうだ。こんなことをするべきではなかったと罪悪感に従って水を取って来ようと立ち上がった足が、掴まれた。
「──……」
全く呂律が回っておらず、聞き取れない。手を払って水を取って来た方がいいのだと理解していた。
「お前の話を聞かせてくれよ」
今聞かなくては、また自分たちは引き返せない場所に行くのだろうと、そんな気がして彼女をそっと抱き起こした。重たげな体が縋るように、凭れ掛かって、抱き返した。そうして、後から思えば、むずかるように。
「…ぅ、ぐす、ぅぇ、ああ──────!!」
テイエムオペラオーが泣いていた。胸元に縋りついて、子供の癇癪のように泣いていた。固まったジャングルポケットを抱きしめて、叩いて、ひたすらに泣いている。
「ばか、ばか、アヤベさんろばかぁ、こんらにうつくひいボクをほっろいて」
「えっ、は?」
「そーおもふらろぽっけしゃん」
頭のどこかが奇妙な冷静さを持って、ばかばかと理不尽な文句を聞いていた。思えばいつも二人きりでいた時、彼女の口は重かった──かつて過ごした、ひどく苦い時間が蘇る。
思えば最初は歪で、それでも同情し合っていたはずだった。
いつからだろうか、“アヤベさん“と呼ばれることを許せないまま“タキオン”と呼び続けていて。
『ボクはターフを去るのだから、君のリヴァルの役も終わるのは当然だろう?』
──妄執の牙で喰いあった日々は、彼女に逃げ切られたと歯噛みして終わった。
聞いていない、置いていくな。怒鳴ろうと襟首を掴もうと覇王は普段の不遜な表情を崩さず、何の未練も見せなかった。彼女の中でこの関係はもう価値がないと、まるでアグネスタキオンの幻影のようにすり抜けた。
それからもジャングルポケットは独りで走り続けたが、飢餓はもう一つ影を負い増して、ターフの上を去ってなおも満たされなかった。
それでも今度こそ、正解を選んだとわかった。決別の瞬間、仮面の下に隠し切られた傷が確かにあったのだと伝わったから。
「タキオンのバカやろ──!!!!勝手にどっかいきやがって!カフェと幸せになぁ!!」
二人でありったけ泣いて叫んで、朝まで眠れば今度こそ、いつの間にか愛しくなっていた片割れと見つめ合えるのだろう。
脱ぎ捨てられて重なった黄色のパーティードレスは、二人で揃いの色だった。
(168-169) ”■■■■■“
数週間前、招待状の文字をなぞっていた。
「…………」
知らずのうちに牙を剥いていたジャングルポケットは口を閉じた。一度は取り下げた妄執が、今度こそと唸っているのだと気がついた。
「オペラオー、お前も来るだろ」
元同室の慶事に似つかわしくない地を這うような声に首を振る。彼女達を祝うつもりでありながら、どうしようもない。
あの日逃した──二人きりの奈落から逃がそうとしてくれたはずの彼女との再会を、どうしようもなく望んでいた。
祝宴を離れた時はもう少し軽い見積もりだったはず、と思った。テーブルいっぱいに並べた酒の大半が空き缶になっている。後悔するには遅かった。飲ませ過ぎたし飲み過ぎた。安定を失った視界の中、床の上に彼女が突っ伏している。地獄の釜に落ちたように赤い顔が髪の隙間から覗いて、瞼をぴたりと閉じていた。
ぐる、と喉の奥が唸ったことにジャングルポケット自身も気づくことができないまま、ふらふらと彼女の方へ寄っていく。目的は知らない。テーブルを挟んで僅か2400分の1を抜ける間に考える。水を持ってこよう。そもそも、なぜ二人で酒盛りをしていたのだったか、…………そう。いつか終わってしまった関係にもあったはずの慰めを、向けずにはいられなかった。そのはずだ。
「ぅん……アヤベ、さん……」
胡乱な理性の働きは、呼ばれ慣れてしまった名前に叩き落とされた。
ひたりと何かが、先を駆ける影ににじり寄る。
「──お前も──なぁ、まだ、そうだったんだよな?」
うるさく警告する心臓を押しのけて、がくがくと口角が上がる。笑った。不思議なほど穏やかな気分だった。よく知った夢のせいで滲んだ、まだ温かい涙を拭う。やはり未練はそこに抱え込まれている。そうであって欲しかった。ずっと呪っていた。別れ際まで“ポッケさん”とは呼ばなかったくせに二人の過去を感傷で済ませてくれるなと、ジャングルポケットがもう満たされないようにテイエムオペラオーも傷ついていろと、心のどこかでずっと呪っていた。その呪いは成就していたのだ。祝福のように回るアルコールが身を焼いて、何かが少しずつ酩酊の中に溶けていく。
(──ダメだ、こいつは俺が踏み外さないように、)
ジャングルポケットはあの日を思い出す──引退セレモニーだ。観衆達は一時代を築いた王者を喝采で送り出す。伝説の幕引きに興奮と寂寥を添えて。だが誰も知らないだろう、知られているものか。ジャングルポケットと絡めた手でメイショウドトウを隣に立たせた、我が無二の騎士よと呼ばわるその口は倒錯したキスを重ねていた、演目を終えて満足げな瞳は遠い星を見ようと揺れていた。その密事はただ二人だけのものだ。アドマイヤベガでもメイショウドトウでもない──俺だけが、あの甘い温もりを勝ち取った。それを払い落とした手を観衆に振っている姿をただ見ているしかできずに、飢餓の奈落に、独りのターフに、また置いていかれた──!
「なぁ、もう置いてくなよ」
──その下手人が今、同じ奈落で泣いていた。“君自身わかっているはずだろう”と思い返せば悲鳴のように告げていなくなった彼女が。だから息を切らすほど笑って、優しくしてやりたくなった。
飲み残しを干し、彼女を抱えて立つ。ぼやけて揺れる部屋は足元もろくに見えない上に、泥酔した体を急に動かしたら吐くかもしれない。だが、もう汚れてもいいか。茹った頭にはそんな性急さだけが残っていて、アルコールのもたらす頭痛が煩わしい。だって、飢えて仕方ないのだから、どうしようもない。一度は得た温もりを失ったせいでより酷く堪えるのだ。そのまま、ふらふらと歩いてベッドに片割れを横たえた。酔夢の中でも泣き続けたのか涙滴が彼女の頬を落ちていく。ごくんと唾を飲み込んだ。舐めたらきっと、また温かく喉を潤してくれる。肌理細かい頬にかぶりつけば甘い果汁が滴ろう。整った鼻筋は歯応えよく砕けるだろう。
「………ん、」
なにより、遥かな夜空の星を透かし見る瞳はぷちりと弾けて喉を潤してくれるはずだ。
「──”■■■■”」
唇を重ねた。それが深くなるほど火照りも悪寒も混濁して、ついさっき誰を呼んだのかも判らないまま、背中に回った腕の温もりで満たされていた。