1話しかないやつ
私は運の良い女だ。
「4コーナーを抜けて先頭はパッセンジャー!」
ターフの前で、缶ビール片手に私は唐揚げを摘んでいた。今日の昼飯だ。まだ酔っていないはず。自分は酒に強い方だ。
漆黒の馬体が跳ね、僅かに傾き、前に出る。後ろの馬を突き放す。差はどんどん開いていって――
「粘る!粘る!まだ粘る!あと一ハロン、パッセンジャー先頭でゴール!」
それに酒よりもずっと強く酔えるものがある。
競馬だ。
と言っても、馬券に数万も賭ける蛮勇は私に無い、精々500円かそこら。そもそも今日の目的もギャンブルでは無いのだ。
東京11R、つまり先程のレースの勝ち馬が口取り式の為に戻って来た。黒いたてがみや尾は整えられていて、愛されているのだと思うと幸せになれる。
何せ彼は私の愛馬だ。単なるファンなのではない。彼は私の出資馬なのだ。今日の口取り式の権利は手に入らなかったけど。
運が良いというのもそのことだ。65%は1勝も出来ず、JRAでのデビューですら35%は出来ない競走馬の中で、重賞に出れる、ひいては重賞に勝てるお馬さんなんてほんの一握り。彼のような重賞馬は3%程。ミラクルスーパーエリートだ。
機嫌が良いから更に酒を呑む。競走馬パッセンジャー号は赤い肩掛けを身に付けて威風堂々歩いている。頭から鼻まで長く真っ白な流星が可愛らしい。
また一口。青鹿毛の美しい馬体は輝きを増して光っていて……あ、本当に光っているように見える。これはヤバい、酔っている。もう12Rも終わり、彼は写真を撮り終えて帰ろうとしている。私も寝てしまう前に帰らなければ。
帰宅早々ベッドに倒れ込む。次にスマホを出してSafariを起動。「ユーゴホースクラブ」と書かれたロゴが眼前に飛び込んでくる。
お知らせ「パッセンジャー号が東京スポーツ杯2歳Sに出走」……無い?それはおかしい。今朝見返したし、クラブ馬なのだからお知らせが無い訳が無い。お問い合わせを送ろうとして、その前にパッセンジャー号の近況を確認しようとブックマークを押す。――404NotFound。
次は競走馬検索のサイトを探す。中央競馬でデビューした馬は全て記録されているはずだ。「パッセンジャー」とEnterキーを押し、1秒もしないうちに結果が出る。……20AA年、1頭。彼の生年は20XV年だ。つまり、彼はこの世界に居ない。昼までは居たいうのに。
何故?
マグカップに手が触れる。行き場のない手の居場所を探ろうとした結果の偶然に過ぎなかったが、その温もりは私を落ち着かせた。コーヒーを口に含む。
母――エアラインの検索結果、1件。主な産駒欄に彼は居ないこと以外、私の知っている彼女だ。
コーヒーを飲み込んで、一旦ドーナツを取りに行く。酔い覚ましに水を買いに行った時についでに買ったものだが、やはり甘いものはあって困らない。しょっぱいものと同じくらいに。
そしてコーヒーをもう一口。
今度は父――パスファインダー、3件。20XM年生まれはちゃんと存在したが……13戦、5勝。未勝利を抜けれずに船橋に行き、4歳の10月を終えて行方不明。つまり種牡馬になっていないようだ。
当然パッセンジャーも生まれるはずはない。それどころか彼の産駒である何頭もの名馬まで居ない訳だ。牝馬三冠馬オデッセイ、春秋マイル馬ユーゴカナベラル……私はここ数年間幻覚を見ていたのだろうか?
戦績以外は私の知っている彼である。しかし戦績は大きく違う。
3歳未勝利、勝ち馬ルノホート、2着。
3歳未勝利、勝ち馬ヴェンチャラー、3着。
たっぷり注がれたマグカップが傾いて、私の口にコーヒーを流していく。
ルノホートという名に聞き覚えは無かったが、ヴェンチャラーは知っている。
パスファインダーの同期、同路線。彼に勝ったこともあれば、負けたこともある。G1も勝っているが――種牡馬になる前に病死した、薄幸なスプリンターだ。その名前をなぞる。
21戦9勝。
果たして私の知っている彼は15戦も出来ていただろうか?
パスファインダーはスプリンターズステークスを目指す途中、4歳の秋に亡くなったのだ。
骨盤を骨折して予後不良のため安楽死処分。
詳しいことは知らない。確かなのは、ライバルを失ったパスファインダーは無敵であったということだ。
スマホの電源を落とす。記憶が不確かな以上、原因を探りようがない。シャワーを浴びて眠ろうとベッドから立ち上がったところで頭痛に気付く。視界も何となくきらきらとしていて、片頭痛だろうか?眩しくなるのは予兆であり、頭痛と同時進行ではないはずなのだが。
先に頭痛薬を飲もうと薬箱に手を伸ばした時、突然身体の力が抜けた。膝を強く打ち付けた。痛い。立ち上がれない。這いつくばる姿勢からおもむろに横になる。
痛みが引くまで安静にしようと、目を閉じた。