t棘の浜 新8話
「いつまで寝てんのよ! 早く起きなさい!」
誰かが布団越しに茂を蹴った。昨晩は遅くまで眠れなくて、今は視界がぼやけて見える。聞き覚えのある声が茂を呼んだ。でも両親じゃない。だったら一体……
「ほら、集会所行くわよ。」
茂を起こしたのは加奈だった。
「え? 今何時?」
「9時24分。起きて飯食ってさっさと支度しなさい。」
瞼を擦り、時間を尋ねると、左手に外靴を持った加奈が即答した。
「お前、どこから入ってきたの?」
「窓だけど?」
悪びれる様子もなく、加奈はそう答えた。確かに、男の指示どうりに動けば、そうなるのは必然だ。茂は文句を言おうとした自身の口を塞いだ。
「アンタさぁ……大分変なところで暮らしてるのね。」
「そうか?」
茂は味気ないシリアルを頬張りながら答えた。普通の基準なんて、誰もが同じわけじゃない。だが、二人がそれを知るには教えてくれる存在が少なすぎた。
「絶対変ね。普通寝るときはパジャマくらい着るものよ?」
「そうか? 寝る前に次の日の服着ればいいだけだろ。」
茂はよれたポロシャツの襟を整えて答える。完食し、スプーンを洗い、歯を磨き、身支度を終えた。
「はいこれ。あんたも着なさい。」
加奈は後ろ手に持っていた手提げ袋から大人物のレインコートを取り出し、茂に手渡した。
「雨降ってないじゃん。」
「違うわよ。これがなきゃ隠れられないの。」
「昨日は
「昨日のは塀がこれの役割になってた。私が力を使うにはこういう布とか壁とかが必要なのよ。」
加奈がそういうと、茂も納得した。こうして、二人は猛暑の中レインコートという場違いの格好で集会所へと向かう。
「つ、着いた……。」
「疲れたな……。」
二人の目の前に見える施設、ここが集会所だ。中へ入ると、靴は一つだけ。男のものだ。二人はレインコートを脱ぎ、広間へと向かった。
「おお、よく来たな二人とも。加奈、昨日みたいに集会所全体を隠してくれ。」
「分かったわ。」
加奈は、窓の外の塀を確認すると、男に向かって頷いた。
「あ!」
「どうした茂?」
「そういえば昨日さ、父さんと母さんの様子がおかしかったんだ。心当たりない?」
「どうおかしかった? また殴られたのか?」
「いや、逆だよ。全く乱暴されなかったんだ。」
茂は目をこすりながら答えた。男は胸をなでおろし、小さくため息をついた。
「ああ、少し注意させてもらった。」
「やっぱり。」
「茂、」
「何?」
「すまなかった。これまで、お前と両親の関係を知っていたのに、それを俺は放置し続けた。今ここで、それを謝らせてほしい。」
男は深く頭を下げ、小声ですまないと口にした。
「いいよいいよ、そんな……。」
「聞いてる感じ、先生にも事情がありそうだけど、ここに呼んだことと関係してるのかしら?」
「勿論。いいか、二人とも。明日、ここでは一斉町民会議が開かれる。お前たちには、そのための予備知識を身に着けてもらいたい。」
「? オレたちは参加しないんでしょ? チョーミンカイギって大人だけの集まりだよね?」
「今回、お前らには遠くで聞いていてもらいたい。これを使ってな。」
男は、小型の無線機を取り出した。
「何これ。これを使えば遠くの声が聞こえるの?」
「その通り。俺の声がそちらに繋がる。一方通行だからそっちの声が俺に届くこともない。というわけで、明日の演説はこれで聞いてもらう。」
「「分かった。」」
「今日やることは昨日とさほど変わらん。今朝届いた新しい本だ。これをもとに、知らないことを俺に聞いてくれ。」
男は壇上に置いていた『新・子供の解体新書』なる本を二人に見せた。
「しかし、こうもニーズにそったものを出されると、逆に薄気味悪いな。」
「先生?」
「いや、なんでもない。ほらほら、どんどん聞いてくれ。」
「じゃあここ、病気って何?」
「それはだな———
———なるほど。」
「……押さえてほしい点だけでかなりかかったな……。二人とも、そろそろ四時になる。悪いな、昼食も用意してやれないで……。」
「いいわよそのくらい。でも、まだやらなきゃいけないこと、あったんでしょう?」
「ああ。……よし、ではこうしよう。明日の朝、予定を少し早めて7時45分までに加奈は茂の家に向かうこと。8時から今日やる予定だった内容を若干変更して進める。二人で無線の内容を聞いてくれ。」
「「はーい。」」
「……二人には重い話になるが、今後にかかわる重要な話だ。明日は、心して聞いてくれ。」
男は最後にそれだけ言い残し、二人を見送った。
「先生さ、なんか元気なかったよな。なんつーか、緊張してる感じというか。」
「それだけ、明日に回したくなかったんでしょう。今日の内容が前振りだとしたら、明日はかなり不穏な話を聞かされそうね。」
———じゃあね、茂。明日は7時30分には起きなさいよ!」
「大丈夫だよ。今日はゆっくり眠れそうだから。」
茂はあくびをしながらそう答えた。窓から加奈に手を振った。今日の授業はこれで終わり。だが、家という地獄にいる恐怖はもう無い。茂は風呂と食事を済ませ、昨日借りたネガファンをもう何周か、生まれてこの方訪れることのなかったプライベートの時間を、ささやかながら楽しみつくしていた。