t棘の浜 幼年編新2話

t棘の浜 幼年編新2話


 茂の足取りには質量があった。現在の時刻は14時28分、明日の授業が始まるまでの約18時間、乗り切れば新しい一歩が踏み出せる。架空の一歩のために茂は帰宅への恐怖心を一歩一歩入念に踏みつぶした。

 『教室』から2㎞離れた茂の家は意識して歩いてみると中々に遠い。おおよそ25分後、茂は自宅、「静川家」の門を潜り抜けた。

 玄関前に保冷用のスチロール箱とその上に大量のシリアルが入った段ボールが見える。


「……よいしょっと」


 二つの箱を持ち上げ、その角でシャッター式のドアを開けた。ドアが開くと同時に、茂の肩や耳をむせかえるような熱気と汗のにおいが通り過ぎた。茂の目に光が宿った。一度状態を静止させ、よく耳を澄ませると、両親の寝息が聞こえた。茂のこれまでのノウハウからして、今日はツイてる。

 布団の上で愛し合っていたであろう両親はその熱だけを残し、今は眠っている。そして、おそらくは目が覚めても互いを好き合い、ムードが壊されない限り自分など眼中に入れないだろう。交流もなく、ただ穏やかに一日を終えることができる。

 シリアルを納戸に、スチロール箱内の食品を冷蔵庫内に仕舞い、音を立てないよう気を付けて自室へと戻った。12歳の茂にはあまりにも小さい敷布団、折り畳み式のコンパクトなちゃぶ台、ごみ箱一杯のシリアルの空き袋、積み上がった服の山、形だけの点かない照明。茂の部屋にこれ以上のものは何一つとして存在しない。棚も机もカーテンも何一つとしてなかった。

 虚無で埋め尽くされたこの部屋で、何をするでもなく茂は眠りについた。シリアルも無限に届くわけじゃない。頭を使ってお腹がすいて、間食として口にすれば、命にさえ関わる。だからただ、何も考えず……


「茂ァ!」


 聞こえないとタカをくくっていた怒声が茂の全身に響いた。声が聞こえると同時に反射で「はい」と答え、先ほどまで寝ていたとは思えない速度で怒声の出どころへと向かった。


 ゆったりとした寝間着の上からでも分かる引き締まった肉体、寝起き特有の目の隈が男の威圧感を助長している。


「な、何? 父さん。」

「何じゃねえよ。分かんだろ、野菜だよ野菜。何冷凍庫に入れてんの?」


 茂の額に一筋の汗が伝った。スチロール箱から取り出した数々の食品類、数か月前のおぼろげな記憶を頼りに、全てを収納した。だが、それが裏目に出た。


「ごめんなさい、勝手にしまってごめんなさい、しまう場所まちがえてごめんなさい」


 謝罪のみをただただ繰り返した。暴力を逃れるための動作だったが、無意識のうちに頭を手で覆い、拳骨の衝撃を受け止めようとしていた。


「なんでだって……聞いてんだよ!」


 茂の脳天に振り下ろされた拳は金槌のように鋭く、厚手の鍋のように重かった。目の前でモノクロの火花が散った。平衡感覚の崩壊と脳天を駆け巡る血流が手に取るように分かる。


「あ・あ,・・あああ!。あ、ああ!」

「うるせえ。」


 働かない頭で必死に悲鳴を抑え、小さな「あ」の連続でのみ発散させていた痛みを父は「うるさい」と一蹴した。発達しかけの喉仏を鷲掴み、締め落とし、気絶させんとした。

 

(なぜいつも、こうなってしまうんだろう)


 茂は自分の愚かさを呪った。自分の無意識を恨んだ。自分に与えられたどうしようもない力に憎しみを抱いた。


「っ!」


 茂の父親が首から手を離した。面の皮と同じくらい厚い手の皮に何ヵ所か血が滲んでいる。赤くなった茂の首に、小さな純白の棘が生えていた。負傷の原因は明らかだった。


「へぇ……」


  茂はもうとっくに意識を失っていた。弁明もない、謝罪もない、だがそれでは自分の手に傷をつけた罪は償えない。罪の証明となる棘は崩れ落ち、茂の鎖骨辺りに砂となって散らばっていた。


「茂もついに反抗期かぁ……もう12だもんなあ……偉くなったなあ……居候の害獣がぁ!」


 砂と共に血飛沫が舞った。サンドバックでももう少し丁重に扱うはずだ。肌を撃つ高い音と骨を撃つ鈍い音が交互に聞こえる。いつまでこれが続くのか、そう思っていたが、


「あなた、お風呂空きましたよ♪」


 男はスイッチ一つでセリフの変わるおもちゃみたいに機嫌を一変させ、風呂上りの妻の方へと向かった。物言わぬ残骸はと言うと、最初にいた台所から随分と離れた使うことのない客室で寝転んでいる。


 少しして、妻が怒声を聞いた客室の方へと向かった。夫に向けた顔と茂に向ける顔は期待するまでもなく違った。慈愛どころか不快そうな顔を見せて、無言でふすまを締めて去っていった。


 時計が0時を回った。暗がりの応接間で茂は体を跳ねさせて起き上がった。今日の流れは運の悪い日の定番だったので、流れそのものを体が覚えていたらしい。

 両親に気づかれぬよう客室を掃除し、シャワーを浴び、自室に戻り眠りにつく。『たったこれだけの作業』、いつからかそう思うようになっていた。


 夜が明け、いつものように目が覚める。昨日の痛みも傷も何一つ残っていない。すっきりとした目覚めが逆に気持ち悪い。起きてすぐ昨日食べ損ねた分、多めにシリアルを掬い、頬張った。パサパサとした食感も何一つ気にならず、5分もしないうちに完食した。

 洗面所に向かい、シリアルを掬ったスプーンを洗い、歯を磨いた。道具をそろえ、いつものように家を出る。

 やっと、『今日』が始まる。一日たった6時間の茂の人生がついに始まった。目には光が灯り、体から重量が消え、茂は走り出した。

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