地獄からの脱出RTAー9月X日
眠り続ける母の手に、少年は携帯ゲーム機を触れさせる。パチッパチッと小気味良い音がして、画面の中でオセロがひっくり返っていく。
「プレゼントありがとう…用意してくれてたコレ、ちゃんと使ってる。英語のソフトはもうほとんど内容憶えちまった」
午後の明るい病室では、ピッ…ピッ…と規則正しく鳴り続ける医療機器の電子音がかえって静寂を強く印象付けていた。
「そうだ、今日は良いものがあるんだ。母さんいつもこの時期にやってただろ、菊に帽子かぶせるやつ。みんなのげんきおねがいする日だ…って」
紙袋から小さな菊のブーケを取り出した少年は、その香りを嗅がせるように母の鼻先で優しく揺らした。
「父さんも母さんも早く元気になってさ、俺のことなんていいからもう…早くこの地獄から逃がしてやって欲しいんだ、」
兄ちゃんを―――
声にならない声で、祈るように呟いた黒髪の少年…糸師凛は「花、活けてくる」と言葉少なに告げて病室を後にした。
(ああ、持ってきちまったか)
凛は手に持ったままだったゲーム機をポケットにしまった。
両親が事故に遭ったあの日、誕生日プレゼントとして凛に渡される筈だった…大事なものだった。
一つまた一つと奪われ喪われてばかりの日々の中、幸せだった幼い頃の記憶は自分が勝手に作り出した幻ではなく、間違いなく存在したのだと握りめさせてくれるこのゲーム機は、凛にとって大切な宝物の一つだった。よく兄のお下がりで借りている英語の学習用ソフトなどはもっとだ、あの頃の両親が兄の未来に見ていたキラキラしたものが詰まっているのだから。
ブーケを持ち直しながら、凛は病棟内を歩んでいく。
着せ綿など気休めに過ぎないことは自分でもよくわかっている…それでも在りし日の母の言葉に縋りたくなってしまうのは、来たる九月九日が怖くて忌々しくてたまらないからだった。己の誕生日である九月九日が。
両親が事故に遭ったあの日、あれから全てが一変した。そして―――
「おや、凛。来ていたのか」
「……。はい、先生」
『優しいお医者さま』の分厚い着ぐるみを着こなす醜悪なペド野郎こと、現在の自分たちの『保護者』に凜は形ばかりの返事を返す。
(クソが)
―――――この目の前のクズの、人当たりの良い人徳者の仮面の下のどろどろとしたおぞましいモノに兄は蹂躙され、魂をこなごなに砕かれていった。
また両親が成長を祝おうとしてくれていた小さな凛はあの日を境に、大好きな兄をそんなクズの元から逃がさぬ為の、枷と成り果てていた。
ティン、と軽やかな音がして間近にあったエレベーターの扉が開く。
クズの隣の空気を一瞬でも長く吸っていたくなかった凛はエレベーターの脇のボタンに足早に歩み寄って、親切ごかして扉が閉まらないように操作した。
エレベーターから降りて来ようとしていたのは車イスの老婦人とその付き添いで、どうやら余計なお世話とはならずに済んだ様子だった。
と、
通り雨でもあったのか少し濡れたフードをかぶったままだった付き添い人が、億劫そうに傘を持ち換えて車イスのブレーキに手を伸ばし…
(え……)
ファサっとフードが脱げて露わになったのは、髪も肌も真っ白な、凛たちと同じ年ごろの少年の容姿だった。
ギクリと己の身体が強張るのを凜は感じた。早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、恐る恐る『先生』の方を盗み見て、すぐに視線をボタンに戻す。
医師として如才なく患者を気遣う様子に違和感はない、けれど…
ブレーキを解除された車イスがゆっくり自分の脇を通り過ぎるまで、凛は息を殺したままだった。
(ビビった…)
ひと気のない給湯室の壁に背を預け、凛は肺の中の空気を全て出し切るように吐き出した。
(別人、だよな。ほんとにいんのかよあんな真っ白綿あめ…ああでも色、だけならノエル・ノアもそうか、そうだよな)
鼓動はまだもとに戻ってくれない、幽霊よりももっとタチの悪いものを見た気分だった。
少年の容姿は、かつて映像の中で見た姿をどうしても凛に思い出させた。
テレビや映画などではないもっとグロテスクなものだ。天使のイコンの前で酷い無体を働かれている白い少年、その映像を見せつけられながら模倣させられていた赤髪の少年は…兄の冴だった。
そうしてあの日、悲鳴をこらえながらその映像を目の当たりにさせられている凛自身の姿を、満足げに撮影していたあの男…
(……大丈夫、だよな?)
シャー…と水道から水を出して花瓶を軽くすすぎ、花を生けながら凜はふと不穏なものを感じた。
保身を優先しておそらく諦めることは諦めるだろうが、欲しがるか欲しがらないかで言えばあのクズは欲しがるだろう、そんな確信めいた予感がした。
(つってもどうしようも…)
何をしてやる余裕も義理も無いといえば無い、けれど…
ピンポン玉のような菊の花に手早く綿の帽子をかぶせ終え、何も結論の出せないまま、凛は給湯室を後にした。
そうして
「え、なんで急に」
「誠ちゃんにはお見舞いの代わりに、やってもらいたい宿題があるの。ね、だからここへはもう出来るだけ―――」
「ばーちゃん?待って、――」
(っ――――――!)
ラウンジ室から漏れ聞こえてきた戸惑うような少年の声と、その祖母の優しくも頑とした口調、そのやり取りに凜は通り過ぎる足をグンと速めた。
(クソが……)
『あれはまともな大人の手でちゃんと守られている』、自分や兄とは隔絶した存在なのだと目の前でシャッターを下ろされたような感覚。その惨めさ。
何より、少年が毒牙にかからずに済んで良かったと喜べずに勝手に傷ついた己自身が、ただただ…醜く汚らしい化け物のように思えて仕方がなかった。己が化け物ならそれを守って兄の負ってきた傷は、と思考が空転していく(にいちゃん)
足早に立ち去った凛は気付かなかった。
どうしても必要な手術当日の付き添いを除いて祖母から見舞いを断られた少年が、凛のその姿をじっと見つめていたことに
そして電源をつけたまま持ち歩いていたゲーム機が、ピコン、と音を立てて他の機体のすれちがい通信を受け付けていたことに。
九月九日が来る前の、このほんの束の間の交錯が運命を分つことになるとは…この時誰も気付かないままだった。
地獄からの脱出RTA 前日譚・了