地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー②

地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー②


「そういえばあなた。お隣の、先生のところのお子さんたちいるでしょう?」

「ああ、よく土手や公園でサッカーをやってる子たちか」

「ええ。先ほど挨拶いただいて。お母さまの意識戻ったんですって」

「おお…それは喜んだだろう」

「それはもう。それでね、そのうち鎌倉の…元のおうちに引っ越すことになるかもしれないし、お世話になったからってお礼がてら真っ先に報告したかったんだーってほんとうに嬉しそうでね」

 そんなことをにこにこ楽しそうに話す妻を、夫は目を細めて眺めていた。

 五十を過ぎた頃から体調を崩しがちになった妻がこうして元気でいられるのは、臨家の医師のおかげでもあった。

「ただ、少し気になることを言ってたのよ。目を覚まされたお母さまが、事故の前に何か…見ていたのか、ひどく不安そうにしてらしたんですって」

「…それは、心配だな」

「ええ。今夜は先生が病棟に詰めていらっしゃるからきっと大丈夫だって、空元気で言ってましたけど。だいぶ心細いみたいだったわ」

頂き物の梨のおすそ分けでも今度、なんてそんな話を晩酌の席でしていたからだろう。


 真夜中近く。

 ガシャアン!!という派手な破壊音と「母さんに何したんだ!?」と悲鳴混じりに詰る声が聞こえてきた時、老夫婦は跳ね起きて隣家の様子を窺った。

 連続して聞こえる破壊音、それに混じった怒声。スピーカーか何かを通した音声ではあるが、鎌倉の家に、という内容からテレビなどの音声とは考えにくかった。


「あなた。け、警察を」

「そうだな、間違いでもいい、何かあって後悔するよりマシだ」

 隣家の医師への好意が、老夫婦の背中を押した。


<はい、110番です。事件ですか?事故ですか?>

「事件…だと思います。すぐに来てください!!」

 これ以降の会話、そして<このまま電話を切らないで下さい>という指示のもと通話中の電話が拾い続けた隣家からの音の全ては、警察に記録として残されることとなる――――『先生のところのお子さん』こと糸師凛の思惑の通りに。


 最初に駆け付けたのは、ちょうど近くをパトロール中だった二名の警察官だった。

 二人はまずインターホンのボタンを押したが反応は無い。線が故意に切断された形跡があり、また扉に耳を当てて聞いてみると屋敷の内部から破壊音が微かに…スピーカーから聞こえてくるものと同じタイミングで聞こえることから、事件性ありと判断、署に応援を要請した。

 強行犯係の数人が現場へ急行する中、医師本人はまだ病院にいる筈だという老夫婦の情報を受け、一人の刑事が病院に電話したのはもう十二時近かった。

<先生でしたら、先ほどお帰りになりました。ただ…>

<何か、ありましたか>

<いえ、その…患者さんで、先生の御親戚でもある糸師さんの病室で少々トラブルがありまして、それで少し>

<!!ひょっとして、事故で意識不明だったという…その、先生のところのお子さんたちの>

<はい、お母さまです>

<すぐに事情を伺いに向かいます!>

 医師を含め糸師家の関係者が狙われている、或いは、と一同に緊張が走る中で


「りーん、おまえも聞き分けような?大丈夫、邪魔なモノはちゃーんとおじさんが片付けてやるからな」

 スピーカーからの声に、その発言の内容に時間が止まる。

「と…さんと…か…さんは……」

「そうだね今度こそ、できるだけ早くアチラへ送ってしまうことにしようか。わたしたちがほんとうの家族になる為にね」

 ひう、と誰かが息を飲む声が響いた。サイレンは鳴らさないものの赤色灯が、今も次々と屋敷へ向かって集まってくる――それを促したはずの医師の人望に、「まさか」と戸惑いのヒビが入る


「先生に…先生の携帯に電話してみます。まさかそんな」

「あっちょっと!」

 警察官が制止する前に、老夫婦の夫のほうが妻のシニア携帯から電話をかけてしまった。すると。


 ジリリリリリン、ジリリリリリン、レトロな電話機を模した着信音が響き始めたのだった…スピーカーから。

 ジリリリリリン、言い争う声、ジリリリリリン、

「屋敷の…奥からも聞こえています」強張った声で告げたのは、ドアに耳を付けて中の音を窺っていた若い警官だった。




「……ここまで、か」

 自白に近い言葉を男から何とか引き出すことに成功した凛は、涙の滲むような呟きを小さく小さくこぼした。

 今の自白だけでも、糸師家に関わる後見人や主治医の立場からは追いやれる…及第点は超えることができた。


 カーテンの縁から微かに覗くのはパトカーの赤色灯の反射だろう、『先生』を慕う善意にあふれた隣人は思い通りの働きをしてくれたらしい。おそらく外はそれなりの騒ぎになっているにも関わらず、屋敷の中にいる男は気付けない…内側の悲鳴を漏らさぬ防音性の高さ故だった。

 インターホンも、ドアベルが鳴るだけの簡易なものを鳴らなくするだけなら線を切るだけで良かった。

 常に屋内を見張る目があるならと、わかりやすく引き出しに放り込んだガラクタは、なかなかの小道具になって相手の油断を誘ってくれた…もともとあの引き出しに入っていたスピーカーをバルコニーへ移すことこそが真の狙いだったにも関わらず、だ。

 そうして本来『趣味』の音声を音楽で誤魔化すために男が用意してあったスピーカーに、凛は両親から兄へのプレゼントだった方のゲーム機を接続し、凛の持つ機体とのボイスチャットを起動。結果、男の残虐性を近所中に響き渡らせることになったのである。

 自分たち兄弟を閉じ込める為に男が培ってきたもの用意し揃えてきたものを逆に利用し尽くし、凜はこの盤面を構築しおおせたのだ。

 …ただ及第点というだけでは、終わらせない為に。


(それも、これも…っ!)

 凜は、背を向けてシアタールームのほうへ歩き出そうとしていた男に後ろから組み付いた。

「!何をする」

「こっちのセリフだ。何するつもりだったんだよ、その部屋で!!」

 できるだけの封鎖はしてあったが、あの部屋に…兄を一生縛りかねないデータの詰まった場所に、この男を近付けるつもりはなかった。

(クズ野郎が)


 協力者のようになった白い少年に、凜は言わなかったことがある。正確には、向こうが勘違いしている様子なのをあえて訂正しなかったことが。

<結局のところさ、後見人だ何だって言っても所詮親の代役だから、親本人が無事ならあのセンセイはあんたらと無関係の他人…あー親戚ではあんのか、でもまあそんだけに戻る羽目になる>

 ボイスチャット越しにそう言われた時、腹が立つというより凜は驚いた。

 戻る、などありえないのだ自分たちは。

<すぐ退院すんのは無理でも、他の人に頼むって手続きさえ終われば一緒。親が不同意ならあんたら家に留めようとしたら誘拐だかんね?>

 なるほど殴られて痣を作られて、金を掠め取られて…そういったものだけなら、母が回復さえすればとりあえず『被害』を受ける状況は終わる。終われる、のだ。

 だが一方で兄の受けてきた『被害』は、ここで根を残せば、形を変えて終わることなく続きかねない類のものだった。ネットへの流出も、流出の可能性をチラつかせての脅迫も、自由の身にしておけばこの男は絶対にやるだろう。


「くそっ!放せ!!」

 男の抵抗を、凜は封じる。

(絶対終わらせてやる、ここで)


 ジリリリリリン、ジリリリリリン

 ピクリと男が着信音に気を取られたのを見て取って、凜はその胸ポケットから携帯電話を奪い取る。画面に表示されているのは隣家の苗字だった。

「何をするつもりだ!」ジリリリリリン、鳴り続ける音を背景に揉み合いながら、凜は通話ボタンを押す。


「助けて!!」

 叫んだ声は電話越しに、そしてスピーカー越しにも、おそらく届いたのだろう。一拍置いて、ドンドンドン!!と玄関の戸を強く叩く音が聞こえた。


「兄ちゃん玄関の鍵あけて!」

「絶対に誰もいれるな冴!」

 凜が願ったのと男が命じたのとは同時だった。


「兄ちゃんおねがい!外の人連れてきて」「冴!」

 どちらにも応えないまま無表情の冴が立ち去った、二人だけになった部屋。

 先ほどまでのようには凛をあしらうことができず、男の顔に苛立ちが浮かぶのを酷く醒めた思いで凛は観察していた。

(やっぱマリーシアにも気付いてねえんだな)

 わざと己を弱く見せ、突き飛ばされれば派手に吹っ飛び、被害を大きく見せるのもまた駆け引きの初歩だというのに。


「…二億五千万人」

「何を言ってる!?」


「サッカーの競技人口だ、二億五千万」

 凛は男を睨みつけるように、低い声で続けた。

「そんだけの人数が世界中でしのぎ削りながら今も…『ゴールの位置と試合時間の明確なフィールドで』有効な駆け引きや、戦略戦術を刻一刻編み出して、更新してってる。

それがサッカーで、おれや兄ちゃんの居場所なんだよ」


「母さんの意識が戻った時点で、あんたには絶対狙わなきゃいけないターゲットと、タイムリミットが生まれちまった」

 男の腕に力が入るのを感じながら、凛は薄く笑みすら浮かべ、わざと一音ずつゆっくり嘲りを口にする。

「その時点で勝ち目なんてねえんだよ。ヒトを子供って記号でくくって安心しちまう、幼稚な城に閉じこもったクソぬりぃペド野郎が」


「こっのクソガキがー!!」

 激昂した男が、凛の拘束を振り払ってゴルフクラブを振り上げる。


 視界の端で警察官の姿を捉えながら、凜は…わざと拘束を緩めて振り払わせた凛は、男の動きを読みきってなお逃げ出さずに踏み止まっていた。

(腕の一本くれーならくれてやる)


 そう、凛が一番最初から狙っていたのは、この展開だった。

 警察官の目の前で凛自身を、できれば武器を使って攻撃させる一発レッドカード。それが一番確実に、死を与える以外で男を完全に無力化し、データへのアクセスを防ぎ、兄と共に地獄を抜け出す方法だった。

 その代償として、『世界で二番目のストライカー』への道は閉ざされるかもしれなかった。それでも


 と

「やめろー!!」警官だろうか、知らない大人の怒鳴り声を背に。風のような速さで駆け寄ってくる影は…小豆色の髪!


(兄ちゃん!?)


 スローモーションのようだった。

 兄に庇うように覆いかぶされ、咄嗟に凜はゴルフクラブを蹴り飛ばす為のシュート姿勢へ移行する。

 二人分の身体をひねる、けど届かない、もう少しで凶器は(兄ちゃんの…)

(やめ、)

 ガアン!!

「確保!!!」

 耳元で大音声で響いたのは大人の声だった。

 間一髪。ゴルフクラブを受け止め凛たちを守ったのは、警察官の警棒だった。


「放せ!いったい誰の腕を掴んでると思って…っ」

「こ…公務執行妨害の現行犯で逮捕する!!」

 ガシャン!手錠が掛けられる。


 ハーッ…ハーッ…と肩で息をしながら凜は、互いに庇い合った兄ごと起き上がる。心臓がまだ爆発しそうだった。

「兄ちゃん大丈夫!??」怪我は無い!?と尋ねる凛の声と重ねるように


「怪我してないか?凛。まったく無茶しすぎなんだよおまえは」


「兄ちゃ…」

 呆れたような口ぶりで言ってわしわしと頭を撫でてくれた兄は、すぐにまた人形のように目の光を無くしてしまったけれど。その束の間だけはまぎれようもなく、凛の知る『兄ちゃん』そのもので。

(…にい、ちゃん)

 海の底深く沈められたものが大波の下にひと時姿を現してまた沈んだかのように、表に出ないだけで確かに『在る』のだと確かに凛に教えたのだった。


 そうして、互いに大きな怪我も無いようだという心の底からの安堵を邪魔したのは、無粋な声だった。

「冴、こいつらみんな追い出せ!」

「せんせい…」

 手錠をかけた警察官が、グッと眉を下げる。


「何をやってる冴!!??」命令が通るのが当然の傲慢そのものの声

 そのある種の滑稽さに、凛の胸の奥底から沸き上がったのは、灼熱のような怒りだった。


「ほんと…わかってねえんだな。上っ面しか見えねえ濁った眼ん玉ならくり抜いててめーでしゃぶっとけよクソ野郎」

微かに声が震えた。

「あんたが薄ぎたねえモンぶつけて好き勝手してきたのは、お人形でもロボットでもねえんだよ」

 それはずっと、ずっと糸師凛がこの醜悪な化け物に叩き付けてやりたかった言葉だった。


「兄ちゃんは…兄ちゃんはいつか世界二億五千万のてっぺんに立つストライカーで、世界一強くて優しい、俺の!大事な兄ちゃんだ!!」


 大事だった。

 兄自身すら大事にしてくれなくても、糸師凛にとって糸師冴は、世界一カッコよくて世界一大事な…とても大切な、自慢の兄だった。


 ボーン…ボーン…ボーン…


 凛の血を吐くような声の反響が消え去ると同時に、柱時計が鳴って九月九日の終わりを告げる。

 次々に入ってきた刑事たちに、凜は虐待の映像データがシアタールームにあると教えたが、接着剤やガムテープで鍵穴から何からガチガチに塞いであったため本格的な作業は翌朝以降ということになった――――なお、台所では包丁がやはりガムテープでぐるぐる巻きになって冷蔵庫の上に押し込まれていて。

 兄弟で同じ発想をするんだななんて思ったのが、なんだか少しだけおかしくて、


(終わった…やっと地獄が終わったんだよ兄ちゃん…)


 涙を流す代わりに、凜はただギュッと、兄のことをきつくきつく抱きしめたのだった。





 『何か』あって、あの執刀医の担当する手術の予定が全部白紙に戻ったらしい、と。

 凪誠士郎が母から聞いたのは、二日後の夜のことだった。


 病院側は『先生のほうの事情で』と言い張り、復帰の可能性も『当院の倫理規定に違反した可能性がありまして…』と言葉を濁す。

 おさまらないのは手術予定だった患者やその家族で、すんでのところで手術の間に合った祖母に絡む手合いもいたらしく、仕事帰りに病院へ回った母の声は疲れ切っていた。

 そーかー…とすっかり縁も終わったものと思っていた凪は、祖母が他の病院へ転院するという段になって驚くこととなる。


「へ…忘れ物?」

 ナースステーション経由で、『九日の午後に花壇に腰かけてた髪の白い男の子の忘れ物』という態で届けられた小さな紙袋に凪は首を傾げた。

 紙袋の中には、森の中の村で動物と暮らすのをコンセプトにしたゲームソフトと一緒に、【宿題のこと悪かった。あのソフトは他に預けたままになってるからフレンド登録するならこっちにしてくれ】とIDの書かれたメモが入っていた。

「あ…」

そういや宿題の内容ちゃんと話してなかったっけ、と凪は思い当たった。

「…まあいっか」

(ゲームでだけなら面倒くさいことなんないだろ…それこそ宿題の報告がてら、ばーちゃんに見せてもいーし)


 こうして凪誠士郎と糸師凛、後に冴も加わる奇妙なその縁は、細く長くゲームの中だけで繋いていくこととなる―――数年後、御影玲王と出会いサッカーの世界へ足を踏み入れた凪のもとに、一通の招聘状が届くまでは。


 ゲーム機のスイッチを入れて少し置くと、独特の起動音が小さく響いた。



地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー② 了


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