11傑怪奇譚ー序章
甘い、というよりも甘ったるい香りがキッチンから漂っていた。薔薇にも似た、どこか水っぽく、それでも喉の奥に張り付くような粘性を持つ香りだった。かぐわしいという言葉に異論はなくとも、鼻が麻痺してしまいそうなほど強い主張だった。
鎮座しているのは、蔦を編んだ籠に山と盛られた桃である。色も形も香りも一級品であったが、隠すつもりがあるのかはさておき、秘められた……秘めて然るべき意図をこうも押し付けられては搔き立てられるはずの食欲も減衰してしまう。
とはいえこの桃は贈り物であり、贈り主はたいそう厄介な女である。ひとかけらも口にしていないと知られれば、さらなる厄介ごとを運んでくるであろう。それを回避するために、また、これまた特大の厄介ごとを運ぶであろう依頼書の厄落としに、カイザーは桃とペティナイフを手に取った。
ぷつ、とナイフを差し込み、十字の切れ込みを入れる。そこからずるりと皮をはがしていった。桃色、というには少しばかり濃い、粘膜のような外皮の下から淡い色の実が姿を現す。ぷんと香りが強くなった。
これだから、とため息をつきながら作業を続行する。秘められた意図とは要するに下心。仙桃ではなくともただの人間が目にする機会などない特異な桃をよこした理由などそれだけだ。植物園の薔薇コーナーでのひっきりなしの求愛には慣れたつもりだったが、分類として似通っているとはいえ、近縁種とするには遠い樹木からもされるとはカイザーは想定していなかった。
籠の中の桃がかなり減ったところで作業をとめた。三つの皿にわけ、フォークをつける。流水で手と道具を洗って拭けば、もういつも通りだ。
昨晩は依然仕事でブッキングした「青い監獄」出身者が酒を抱えて突撃してきた。彼は日付が変わる前に帰ったが、過去の話で盛り上がっていたので見送ったあとでも飲み直したのだ。酔いつぶれた酔っ払いをベッドに放り込んだことに感謝してもらいたい。誰だアブサンなんて持ち出したのは。そもそもどこから持ってきた。
まだ残る酒で苦しんでいる同居人のために、カイザーはトレイを持ち上げて階段をのぼる。桃は中国や日本において邪気を払う力があるとされる。桃源郷という理想郷にも名が残っており、様々なまじないにも取り入れられてきた。神話にも黄泉の追手をひるませた逸話が残っている。どう考えても厄ネタ、厄介ごとの種。そんな招待状の話をする前に、食わせてしまった方がいいだろう。
なお、あまりに強い香りに「怪我でもしたのか」と問われたため、「桃はバラ科だ」と返しておいたのは余談である。あまり上手い言い方ではなかったと、後から思った。
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午前十一時。起きだして顔を洗い、着替え、普段よりもおさえぎみとはいえ調子が戻ってきたころ。桃を食べている同居人兼同僚兼同族二人に、カイザーは『招待状』を見せた。我らの宴に招待するゆえ万障繰り合わせの上ご参加くださいますよう。そのような文言が綴られている。数秒後、罠だろというような目を……どころか口にしかけたところで、同封されており、先に回収していたものを見せた。
写真である。なんの写真かなど言うまでもない。参加をほぼ強制する文言を慇懃無礼にぶつける相手が、念を入れて同封したものである。つまりは、そういうことだった。不参加の選択肢は握りつぶされていた。そのうえで不参加という選択をとるほど、三人がそれぞれ持つ繋がりは細くなかったのだ。
記されている行き先はイギリス。所要時間はざっと考えたところ、ロンドンから電車で三時間、バスで五時間、徒歩で七時間ほど。要するに、人里離れた奥地である。フラグはばっちりだった。