#0
ゴリラ開けた空が、下り坂を進むにつれ、聳(そび)える岩肌の向こうに遠のいていく。
山風が吹き抜ける谷合の木橋を渡れば、ひんやりと乾いた喉奥が、湿度を覚え楽になる、気がする。
煙る香に慣らされた鼻が、ゆっくりと嗅覚を取り戻し──己や、連れたラバが放つ濃い体臭と護身香の混じりに、目を見張る。
いつものことだ。
そしてすぐに慣れて、感じなくなる。
毎回のこの僅かな転変が、ここへ真に入国を果たした合図だ、と思う。
頂の関所を越え、石と岩だらけだった「赤の山道」の下りも終わりに差し掛かると、安堵が強くなる。
眼下にしか見えなかった緑が、ほんの少しでも道の側に生えているようになると、特に。
木の靴底越しに、道の硬さが和らいだように思う。だが融雪で生まれるぬかるみは、後が面倒なので極力避けたい。
山道の端に点在していた灯籠がなくなり、そこから漂う香が薄れ。
名も知らぬ灌木の新芽を目が拾うようになった頃、最後の宿営地が見えてきた。
日が傾きかけた中、張られた布屋根(タープ)と、炊煙が上がる石積の竈(かまど)が、耳に届く北からの微かな水音が、なによりもありがたい。
乾いた喉が、足取りを急(せ)かす。
「もう少しだ、好きなだけ水が飲めるぞ」
横を歩くラバにそう声をかけると、後続の隊員の歓声が返ってきた。
下り道になってからは、あまり聞くことのなかった浮(うわ)ついたものだった。
この宿営地──北にある「白の山脈」を越える「白の山道」との合流地点は、すべらかな巨石が目立つ渓谷脇にある。
元は浮石だらけの傾斜地だったそうだが、人の手が入り、土を運ばれ拓(ひら)かれ、離れたところに香ノ木が並べて植えられており、最後の夜を過ごすには申し分ない。
「赤の山々」では出くわさなかった、ただの羽虫が行く先に群れていたが、我々が近付くと散り散りになった。
「お疲れ様です、二十三名で変わりはないでしょうか」
設営をしていた若者数名が角灯(ランタン)を持ち上げ、その光がこちらに向かって歩く衛兵の目映(まばゆ)い鎧装を照らし出した。
彼らや衛兵が携帯するランタンは、炎が揺れない。何度見ても、便利だと思う。
「我々『武装商会』二十一名、客人二名で変わりはない」
作法に則り、全員で得物を地に置く。先方も剣先や穂先を地に刺し、それから双方共に携え直す。
正対し、笑う。儀礼ではない、友の顔で。
「赤の山道」の二つの関所で示した薄板の名簿を、背負い袋の横口から出して、衛兵に差し向けた。
「客人一名の体調がすぐれないと聞いておりますが」
「疲労と揺れ酔いだ。食欲はないようだが、汁物と水は摂っている。不浄にも自力で行けていた。命に別状はない」
親指を立ててそちらを差せば、衛兵と若者たち全員が渋い表情になった。我々も同じ顔をしているだろう。
そいつは役立たずだった。
ついぞ野営に馴染めぬほどひ弱で、目の下の隈は常に濃い──出立時に比べ、二回り近く痩せたように思う。
荷馬車に乗せた初日からしょっちゅう吐き、ラバに換えて以降は歩みが遅く乗せざるを得ず、そこでもずり落ちかけるし吐くし。
道中では危険行為を度々やらかしそうになるし、黙ったと思えば周囲を睨み思索に耽(ふけ)り、こちらの流儀と慣習に怪訝な顔しかしなかった。
無言で不動の塩荷袋の方が、遥かに優秀だというのが我々の共通見解だ。
今は隊員の手を借りて、ラバから降ろされ、虚ろな目で横たわっている。とうとう独力では無理になったか。
無理だ、地獄だ、狂人ども、と、いつもの繰り言は掠(かす)れて弱々しいが、こちらには届いている。
我々を呪える元気があるなら、なによりだ。あー、面倒くせえ。
「……明日はうちの荷車に積みましょうか」
衛兵の横に立つ青年が、ぼそっと呟くのに首を振る。
「いや、馬車乗りの公路上でも吐いていた。人の歩みでも無理かもしれんし、宿営資材を汚されてはかなわん。入国までの『運搬義務』はこちらにあるから気にするな」
そう返し、気遣いへ短い感謝を述べる。
「心得た。お前たちは戻れ」
衛兵の言に、青年たちはランタンと得物を持ち直して現場に帰っていった。周囲に薄暗がりが広がり、こちらのランタンも出さなければ、と背後の隊員に合図をしていると。
衛兵は、かしゃり、と音を立てて肩を竦め。
「──あれが『黄色』ですか」
潜め声でしてきた確認に、こちらも最小の声で応える。
「ああ、もう一人は『緑』だ。恐ろしいくらいに即戦力になる」
衛兵は視線を反らし、自分が人差し指を向けたもう一人の客人に目をやり──絶句した。まあ、そうなるだろう。自分も初見なら、そうなる。
特に今は、散っていったランタンで逆光になっているから、余計におかしな輪郭が際立つだろう。
「草原と森でな……あれはつまり、中身が素材だ。それから、一の関所ではシェダール氏と試合えた。どちらも軽く」
「欲は」
「パンを食いたい、だそうだ」
衛兵は微かに笑った。引き攣った響きだった。
□ □ □
徒歩で帰還する衛兵と灯りを見送り、振り返ると、宿営地は増えた光源と共に、賑やかになっていた。
我々に羽虫が集(たか)らないのを見、毎回、一の関所で渡される護身香は強力だ、としみじみ思う。可能であるなら、他国でも携帯したい──無理なことは分かっているが。
若者たち設営団は、夕食や拭き布を隊員に配ったり、香ノ木林へ問題客人を動かそうとする隊員を手伝ったりしている。
手隙になった隊員数名が、それに同行していた。
ああ、後で自分も行くか。「赤の山道」の底無しトイレは、正直、出し切れるほど落ち着けなかったし。
日暮れ前に渓流から汲み上げられたと思しき水桶に、荷を解かれたラバたちが競うように群がっていく。
「うわー顔でかっ鼻息すげっ可愛いなあハハハ」
「ロバよりでけえけど、可愛いよなあ。ちょ、待て待て順番だ。干し草と岩塩もあるからなー」
薄暗がりの中、ラバたちに取り囲まれている若者二人は、満面の笑みだ。
和む。
と、躓(つまず)きながら渓流に下りようとする隊員がいた。暗がりの中、水音を頼りに屈み込むのを、気付いた別隊員に止められる。おっ、振り払った。ところを後ろからのもう一人に羽交い締め。なにをやっとるんだ。
「痒いんだよ……!」
「明日にゃ盥(たらい)風呂使えるだろ」
「今、洗いたいんだよ……!」
「髪が凍るかもだぞ、つーか、ここでの体洗いは禁止だろ。やべえもん付いてたら首が飛ぶぞ!」
小声でのやり取りは、残念ながらこちらに筒抜けだ。
あの馬鹿は罰金、止めた二人も言動は真っ当だが、素手はいただけない。気が弛(たる)んでるな。
「あったけえ……」
こっちで肉汁啜ってる奴らの方が、百倍マシか。あの後、拾い上げた得物を一時も離さず携えてるからな。
「一班休みます!」
そう言いながらタープの下へ駆けていく連中も──まあ、気持ちは分かる。板敷きの上に固く薄い藁袋と筵(むしろ)が乗ってて、今までと違い、手足を伸ばして眠れるからなあ。あっちも合格、装具を解除しないのは基本だ。
「いつも済まんな」
宿営資材を乗せてきた荷車の近くにいた青年──恐らく彼が団のリーダーだろう、さっきも衛兵の横に来ていたし──に声をかけると、目を細められた。
「いえ、初の夜営任務が『武装商会』の皆さんのお迎えだなんて、こちらこそありがとうございます!」
「……」
おおう、こりゃ大変だ。自分だけでも気は抜けないな。
まあ、ここで襲撃されたことは、今まで一度もないのだが。香ノ木林は偉大だ。
青年たちが牽(ひ)いてきた荷車には、空になった袋や樽があった。
「食糧と糧秣分、帰りは一台軽くなるのでなにか採取できないかと考えていまして。そちらの荷を請け負えるほどは無理ですが」
「ここらじゃなあ……そこで蛙と小指くらいの魚が獲れるくらいか?」
宿営地は香ノ木林と渓流以外、めぼしいものはない。
巨石と丸石の隙間を複雑に縫う水は速く細く、飲水補給はできても釣りは難しい。
「赤の山道」がある、「赤の山々」に自生する草木は食用には向かない上に乏しく、自分も枯れた灌木を焚き付けに使った程度の経験しかない。その続きであるここも、普通の川瀬より緑は少ない。
ましてや一の月半ばでは、山野草の息吹には早いだろう。向こうにはうっすらと、残雪が見える。
「もう一月もすれば北の……向こうの『白の山道』沿いなら、幾らか生えていたと思うが」
言いながら、夜の帳で影形すら曖昧な方を見やる。
今朝方、山頂から眺めた「白の山脈」は、名の通り延々と中腹まで白かった。本格的な雪融けには、まだしばらくかかるだろう。
それまでは自分たちも、今回使った「赤の山道」を往復するしかないのだ。死にたくない凡人の団体なので。
「そうですか……」
樽や桶は畳めないからなあ、と肩を落とす青年に、ふと思い付く。
「ワーフェルド!」
二班に混じって肉汁を受け取っていた異形の客人を、呼ぶ。おっと、お前さんだけだな全荷を下ろしていないのは。
いい心掛けだが──ぶっちゃけ、邪魔だぞ、背後の体積。
「お前のその素材、この兄さんに預けられるか? 空樽がこれだけあれば、収まりそうだろう」
「赤の山道」に入るまでの間に、ワーフェルドが入手した素材は結構な量だった。
手早く解体、もとい毟りまくった外殻と翅が詰まった大袋二つ。重さはそれほどでもないから、と己の背負い袋に縄で括り付けていたが。
ただでさえ、でかい水樽を縛り付けてる上に、なのだ。
お前はラバどころか荷馬車かよ、と全隊員に嘆息されたのは致し方あるまい。横に括ると幅が危ない、のは理解できるが……上積みして森の枝葉へし折って進みかけたとか、うん、おかしい。
「幾らで」
匙と器を携えたまま、長身、更に背中に縦長大荷物ドン、という状態の上、得物持参でこっち来るな怖い。圧が、圧が強い。せめて炊き出しは置いてこい。誰も取らんから。
頭が小さい上に手足がひょろ長いせいで、余計に怖い。脚甲に胸甲背甲とガッツリ装備、革兜に蓬髪で表情が見えないのも、更に怖い。思わず二度見する得物が、トドメに怖い。
「ひょえっ」
青年の口から、おかしな声が漏れた。気持ちは分かる。衛兵の兄さんも目を疑ってたからな。
なにがおかしいって、こいつこんな形(なり)なのに、気配が薄いからその──留意してないと、そこにいることを忘れそうになるのだ。
目には入っている、明らかにおかしい、のに気付かせない。生い立ちや仕事柄、身に付いた武器であり特性なのだろうが。
「運搬代金は幾らで」
「運ぶ、お金?」
「運搬代金」
二人の会話が微妙にズレている、と察し、慌てて仲介した。
「ワーフェルド、ここは言葉が違うんだ。いや、言葉遣いが別なんだ」
しまった、説明が足りていなかったか。
自分は自然に切り替えられるようになっていたから、つい。
「単語はほぼ同じだ、語順も。ただ発音や言い回しがその……」
古語や書き言葉、というものを知り得ない生育環境。上流階級者への謙譲敬語や丁寧語と無縁だった生活。
そんなワーフェルドに、今までの「客人」には容易だった説明が、通じるとは思えない。
「貴方は随分と幼い口調なんですね」
「僕は成人している」
あー、これ「汝、幼(いとけな)し」「ぼく、おとな」ってお互い聞こえてるやつー。
仲介しようかと考えていたら、二人は徐々に単語のみの片言会話で意志疎通を試みるようになった。助かった。うん、大体通じてる。ヨカッタヨカッタ。
「袋、二つ、無料、ついで」
「保証、隊長、無料、ダメ。銅貨?」
いやもう、おじさんどうしようかと思ったわよ。やっぱ若い子は若い子同士で気が合うのよねぇ、と砦町のお姐さん口調で逃避していたら。
「ちょ、これ銅貨じゃねえよ! 受け取れねえ!」
「これは銅貨です、二十枚で銀貨です」
ダメでしたー、若い子は忍耐と根気が足りませんでしたー。
おじさん泣いちゃっていいかな?
若手主体の初隊長業務で、疲れてんのよこっちも。あー自分はヒラ隊員向きだわ、うん。
その後、青年は仲間を集めて皆で財布を出し。ランタンの灯りの下で銀貨と銅貨を並べ、ワーフェルドに単語で説明をはじめてくれました。ただ鉄貨を出したところで、ワーフェルドがギブアップです。
ごめんよ、言葉も通貨もちょっと違うんだよ、金貨と銀貨は共通してる、っておじさんの雑な説明にあの時、頷いてくれてたから流してたけど、そうだねお前さんは読み書き計算も習ったことなかったんだっけ。
そんでもって、搾取と不当買取ばかりで、銀貨以上を知らなかったんだよね。あー、こりゃおじさんのミスです罰金ものですわー。
と、空腹と排泄欲求と戦いながら、金勘定しつつちょいちょい通訳を手伝っていたら。
ワーフェルドの銀貨を一枚、奪った青年が、自分たちの色違いの銅貨をじゃらじゃらと押し付けてきました。やだーどこの国でも若い子は短気だわー。
「……ええとだな、入国管理棟まで二袋運搬、役人に預けるので簡易審査後に受け取るように。代金はええと、お前さんにとっての銅貨二枚分、で渡してきた釣り銭が、こっちの通貨だ。不正はしていない。んじゃ開封不正防止用の封蝋、おじさんがやっちゃうな。印章は『武装商会』のもので」
小便漏れそうだから後半が早口になったが、ワーフェルドは頷いてくれた。うん、じゃあ得物は横に置いて荷物下ろそうか。その空になった器と匙は、おじさんが印章と蝋塊持ってくるついでに、あっちに返してきてあげるから。
香ノ木林のトイレに寄るから待っててくれよー。
□ ■ □ ■ □ ■
夜警は設営団の青年たちも担ってくれたので、隊員たちは交代制でも、いつもよりしっかり眠れたようだ。自分もうっかり、久々に熟睡した。
慌てて飛び起きて鞘走らせ、ランタンの灯りに浮かぶ立ち番の隊員から、異状なしの合図を返された。
……これも罰金ものだな。帰途の酒代がなくなっちまう。
明け方、出立時より長くなった髯(ひげ)を扱(しご)きながらタープの下から出、荷とラバの様子を確認しようとして。
南の方角を見下ろしている、荷の減ったワーフェルドの立ち姿に気付く。
「よお」
声をかけると、顔だけこちらに向けられる。
「もう少しだ。今日の夕方には、入国管理棟で手続きをして、お前さんの旅が終わる」
「はい」
言うや否や、ワーフェルドはまた、南を向いた。「赤の山々」に入ってからこいつは、隙あらば下方の目的地を見つめている。
「管理棟は最初に『香の部屋』ってのがある。ちぃと煙いが、そこで自分らと一緒に靴の泥を落として、しばらく燻(いぶ)されろ。お前さんが昨夜預けたあの荷も、そこに置いてあるはずだ」
それからこいつと、あの問題客人には国の役人から質疑応答があるだろうが、まあ「お偉いさん」が出て来るかは分からんから、通訳として立ち会ってやるか。
「それが終わったら、改めてお前さんの素材の買い取りだ。済んだら両替商に行けよ。管理棟を出て、衛兵詰所のそばにある、厳つい鎧戸のある店だ」
「麦が」
こいつとの付き合いはそこまでだ、と思いながら話していたら、ワーフェルドが口を開いた。
「ん?」
「畑に、麦が少ない。半分の半分しか生えていない」
真剣な、憂い顔だった。革兜からはみ出しているぼさぼさの前髪で目元が見えにくいが、数ヶ月付き合ってきたから分かる。
「パンの国なのに、春がきたのに、他は麦じゃない小さい草ばかりだ」
おい待てよ視力良すぎないか、おじさんにはボワボワした薄い緑しか見えんぞここからでも。
「えーと……ああ、そうか、こっちは」
唸りながら、記憶を漁る。なんつったか、確か。
「春蒔き、そうだ、こっちは麦を秋に蒔かないんだ」
「どうして」
「同盟国家群と、天気が違うんだ。刈り入れ時は雨が少ない方がいいから、あっちは夏に実るように、前年の秋に蒔く」
若い頃、自分も疑問に思って、尋ねたことを思い出した。
「こっちは夏に雨が多いから、秋に実るように春に蒔くんだ」
農家のおっちゃんおばちゃんは、凄い勢いであれこれ説明してくれたっけ。小さい息子が、傍らで弟と一緒に呆れてたっけなあ。
──次に来た時には、亡くなってたんだよなあ。生き残ったのは上の息子だけで。
「じゃああの少ない麦は」
「ん、おじさんにゃここからじゃ見えねえけど、秋蒔きを試してるか……北の黒麦じゃないか。あと今、他の畑に生えてんのは肥料かなんかになる草のはずだ。そいつらの花が散ってから、こう、土に鋤き込んで……」
やべえ、草木灰だの堆肥だの、細かい順番までは流石に分からんぞ。入国後に本職に訊いてくれ。
ってか、大麦と小麦も穂を見なきゃ区別できねえ。食えば判るが。
「……とにかく、こっちじゃ今から多く麦を蒔くはずだ。『赤の山々』の頂から皆で見たろ、あれが秋にゃ全部、金色になるんだ多分」
そうであってくれ、と曖昧な返ししかできない己に情けなくなる。町村間運搬では主要取り扱い品なのに、自分には農作物の知識が乏しいと、思い知った。
帰ったら、降格を願い出なきゃいかんな。もっと学ばなきゃ、いかん。腕っぷしと経験だけで、若い連中を率いるのも危険だ。
「ならいい」
ワーフェルドが、表情を改めた気配がした。
「……お前さん、本当にパンが好きなんだな」
返事はなかった。
□ □ □
設営団の青年たちが朝の炊き出しとタープの解体を終えて、荷車と共に宿営地を離れていく。彼らに同行はしない。こちらは「次の荷車」が来てから、最後の坂道を進むのが流儀だ。
心癒される渓流のせせらぎを耳にしつつ、焚き火に当たったり、荷をラバに積み直したりしながら、待つ。
「白の山脈」から流れ下るこの水は、他の湧水と集(つど)い、国を潤す川になっている。
ここから東に幾つもある源は、それぞれ確認されているが、この渓流だけは未だ不明、とも聞く。
大岩の隙間や下を辿る水を遡り、手付かずの山岳地帯に分け入ることは難しい。この国の強者たちでも、成し得ていないことから、どれほどの難度か想像はつく。
──それでもふと、商会を引退した後に、探しに行きたいな、と思った。
自分を何度も安堵させた、この渓流の出発点は、どんな姿をしているのだろう。
老いる前に一度、見たい。小さな泉か、断層から噴き出る様か、木々に覆われた湿地か、或(ある)いは。
警戒を怠らずに夢想していると、二重桶を載せた荷車を牽く、栗染めの外装を着けた人影たちがやって来た。出立の合図でもある、肥車だ。
「お疲れ様です」
「皆さん、用は足されましたかー」
笑顔で手を振ってくるのは、汲み取り業務の者だ。同盟国家群では主に下賤の仕事とされるが──この国では、魔法師による、蔑まれない業務なのだ。
なんなら主幹業務の一でもある。異国だよしみじみと。
「ああ、大丈夫だ。ラバは香ノ木林に繋いでいたし、軽く集めておいた。後は頼んだ」
「おやまあ、隊長さんに出世なさったの?」
顔馴染みだった。うーん、気まずい。
「今回だけだ、次からはまた相応のヒラに戻る」
今朝方から重く感じるようになった、左腕の腕章を隠すように押さえるが、彼らの祝福は止まなかった。
「なぁに言ってんだ、もういい歳だろ」
「そうですよお、娘さん生まれたんでしょ?」
「……向いちゃ、ねえんだよ。おれぁ」
つい、若い頃の口調で返しかけて、隊員たちの目が気になった。
□ □ □
緩やかな下り坂を、東へ進む。
左手の森越しに聳える「白の山脈」に圧倒されるのも、幾つかの木橋を渡るのも、いつものことだ。
ラバの呼吸と足音の向こう、何度も微かな水流の音を拾う。清らかなそれは、渇きと死の憂いを払拭してくれる、気がする。
「赤の山道」より幅はあるが、荷車が行き違える程ではない。そして灯籠が再びぽつぽつと現れ、命を守る煙が立ち上っている。
先に見える羽虫の群を嫌がるように、ラバが首を振った。護身香の虫除け効果で集られることはなくとも、反射的なものだろう。鬣(たてがみ)を撫でて、労(いたわ)ってやる。
ただの虫に意識を向けられるのは、安全圏の証でもある。
今までとは違う、翳(かざ)す枝から落ちてくる山蛭(やまびる)やダニに気を配らなければならない、ただありふれた里山の麓道(ふもとみち)なのだ、ここは。
右手に続く木立の切れ間から、煙が見える。
灯籠からでなく、細い炊煙でもなく、鍛冶屋町の作業場からのそれ。
赤茶けた建物や煤けた煙突と香ノ木の樹影が見え、またすぐに木々に──葉のないもの、あるもの、冬に枯れた蔦のない、無造作な薪(たきぎ)山に、隠されていく。
下り進めば、右手は林になる。
等間隔に植えられた白樺。
間を空けて香ノ木。
また離れて──確か楓、だったよな。
枝打ちから間がないのか、黒褐色のものが幹に塗られた、捻れず育つ……なんだっけこれ。葉がねえと判別できねえ木だ。
あ、次も分からねえ。
だが、今までの森とは違う木々の整い方に、人々の生活の気配を知る。
その間隙から見える、街。
白い建物。
黒い屋根。
同じ数だけある、香ノ木の樹影。
東を護る石壁。
街の西を縁取る大きな川の流れ──あの渓流の、行き着く先。
街の南北路には、冬も繁る香ノ木が並ぶ。同盟国家群ではまず見ない、景色だ。
南方は、遠くまで畑が続いている。
点在する集落は、ここからではうっすらと影しか分からない。
大きな川の西、「赤の山々」の麓までもまた、浅い緑が広がる。斜面をわざわざ切り込んだ、段々の畑。
この道からは、それ以上は確かめられない。
だが、かつてそれぞれの山頂から自分が見たものを、滞在中に訪れた場所の仔細を、今の視野に足して思い描くことができる。
南には別の川や広大な森。生活圏を縁取る丸太を組んだ大きな木柵が。
その遥か彼方には、海らしき水面が。
西の畑の先には、採掘坑道や石切場が。
東の石壁、街の向こう側には無尽の森が。
あるはずだ。いや、あるのだ。
無限に思える緑の国。
原生のまま、あるいは人の手で整えられた木々と、水に恵まれた新たな地。
平穏に見えるが、命を奪われやすい新興国、豊国(リーシュ)。
だからきっと、ワーフェルドという強い「緑」の男には、似合うと思った。
今もまた、ラバの背に伏して、揺れて呻いている「黄色」の男は、知らん。