鼓動
IFサラダローネタ
『祝福』の続きです
一部設定がアニワン準拠・ノベルロー準拠・IFサラダローが性的虐待を受けている世界線・遺灰ダイヤ概念・『移植』概念をお借りしています
※一部差別的な表現がありますが現実のそれを賛美・助長する意図はありません
重ねて見てなどいない、と。
言えば、どうしたって嘘になる。
***
責められているような気がした。
海中を進むポーラータング号内に突如として現れた密航者であるとか、凄惨な虐待の痕跡が伺える重傷者だとか。
事実を一旦脇に置いた上で、ローが『彼女』に対して抱いた第一印象。
別世界の『ロー』。
異なる性別で産まれた同一人物。
ドフラミンゴに敗北した世界における自分。
……別世界だとか平行世界だとか。この未知で溢れた大海において“在り得ない”と断ずること自体が愚行だ。
実際、『ロー』の証言を裏付ける証拠には事欠かなかった。悪魔の実は世界に一つしか存在しない。彼女が保有する能力はオペオペの能力に他ならず、彼女の身体の内外に縫い付けられた痕跡は海底の監獄にいるはずの男の能力に依るものだったので。
からから。
からから。
音を聞く。
小石を転がすような音。常に駆動音とクルーたちの気配が反響する潜水艦内部においてさして目立つわけでもないささやかな音は、けれどいやにはっきりとローの鼓膜を打つ。……耳に馴染んだものとして脳が受け取る。
「――――、」
かぶりを振ってローは音の響く方へと足を向けた。
なんにせよ、便利ではある。あてがわれた部屋に大人しく留まるということをしない彼女がいる場所をローに教えてくれるので。
「ったく、」
悪態を一つ。響きにさしたる棘はない。歩き回れる程度に患者が回復している――医者としては喜ばしいことだ。リハビリの一貫として許可も出している。人気のない場所に縮こまって心身の不調を隠す猫のような真似をしたら絶対安静の名の下に許可を取り消すところだが、そういった事態は発生していない。
大体は人の――クルーがいる場所に彼女はいる。ローより優れた気配を隠す技術で以て――その技術を会得した理由を思えば忌々しいが――、クルーたちの視界に入らない位置取りから賑やかな彼らを眺めていることが多かった。
ふらふらと彷徨う姿はやはり猫に似て、徘徊の類いではある。「キャプテンだ……」と呟いたペンギンは小突いた。
からから。
からから。
音を頼りにローは進む。とある部屋の前に辿り着き、ノックをせずに扉を開けた。扉の先は船長室でありローの自室だ。わざわざ声を掛けてやる理由がない
「……」
果たしてそこに女はいた。ローの机の前に腰掛けて、分厚い図書を捲っている。
器用なことに隻腕で本棚から取り出したらしい。ぱらぱらと頁を手繰り、金の視線が文字を追う。
よほど集中しているのか、女は扉を開けたローに気付く様子もない。致命的だな、とローは思う。牙も爪も抜かれた自分はここまで無防備になれるものなのか、とも。
「おい」
声を掛けて、ようやっと、女は顔を上げた。振り向いた金眼が僅かに見開かれて、きまり悪げに揺れる。自覚があるなら大いに結構。ローは続けた。
「おれの部屋に入るのも本を読むのも咎めはしねぇが……時間は考えろ」
夜番帰りのローの指摘に女は目を逸らす。悪戯を咎められた子供のような仕草だった。睡眠の重要性を説いてやる必要も無かろうに。喉まで出かかった嘆息をローは呑み込む。
年齢を踏まえれば随分と幼い表情から意識して視線を外して歩み寄り、ローは女が読んでいた図書を横から覗き込んだ。
「……お前の世界とこちらでは植物にも違いがあるのか?」
女の手元で広げられているのは薬草の図鑑だった。それも北の海に存在する種を中心に纏めたもの。北の海に出自を持つ船医ならば端から端まで頭に叩き込んでいるポピュラーな図鑑だ。
薬品の安定した供給など見込めない以上、降り立った島で薬の原材料を採取する必要もあるので。
「いいえ? 特に変わりはないわね」
ローの問いに女は首を振る。黒い髪が灯りを弾く。――長かった髪を、耳が覗くほど短く揃えたのはシャチだ。
断髪は女の数少ない要望の一つだったが、ローにとっても密かな安堵を齎した。結べるほどに長い髪の隙間から覗く白い顔は、よく似ていたので。
「一応確認しておきたくて。こちらでは通じない可能性がある知識で話すわけにもいかないでしょう」
「トニー屋か」
「ええ。そう」
女の唇が綻んだ。
再度同盟を結んだ麦わらの一味の、特に船医と彼女の間に穏やかな交流があることは把握している。ポーラータング号に現れた当初、はらはらと頬を濡らしてばかりいた女の精神がある程度の安定をみせているのは彼の功績が大きい。
精神分野は専門外だ。そして、ことこの件に関してだけでならば麦わらの一味の船医の方が高い適正を持っていた。……彼も専門は薬学だろうが他者に寄り添い信頼を勝ち取り得る性根の持ち主だ。複数の患者を続けて診ることに向いた性質ではないが、その稀有な素直さと純粋さは彼女にとって救いとなり得たようなので。
「……少しでも役に立てそうで、よかった」
細い指が文字列をなぞる。白い顔が淡く微笑む。慈愛と呼ばれる類いの笑み。よく似たものを向けられていた記憶がローにはあって、だから、今度こそ大きく息を吐いた。
「睡眠時間を削っていい理由にはならねぇな」
「あら。トニー屋さんを引き合いに出せば少しは優しくしてもらえるかと思ったのに」
「よそのクルーを巻き込むな。寝てこい」
「はぁい」
くすくすと肩を揺らしながら女は立ち上がる。元の位置に収めるためだろう。図鑑に伸ばされた手を払って、さっさと自分の部屋に戻れとローは扉を指差した。
「愛想がないわね。『わたし』のくせに」
「お前が『おれ』のくせしてにこやか過ぎるんだ」
「素敵な自慢ね。真似したいくらいだわ」
微笑んだまま、女の瞳に焔が宿る。揺らめく感情の名は嫉妬。グリーンアイズがかくあるように、金の瞳が血色を帯びる。
性差というものはあった。女の手足と比べてローの手足は太く長く、女の身体で柔らかさが目立つ部位はローの身体においては硬い筋肉が取って代わる。
たかだか筋力、リーチ、体力の差――と宥める言葉が暴力であるのはローとて察しがつく。
ドレスローザでの戦いはどこまでも綱渡りだった。あと少し何かが違えば、今、妬みを籠めてローを見つめる女の姿こそが在り得たローの姿だっただろう。
勝敗を決した要因に性の違いが関わっているとも思えないが、諭す言葉は慰めにもなりはしない。
「……」
ローは無言で血走った黄金を見つめ返す。慰めの一つも口には出来ない。だが恨み言ぐらい受け止めてやれる。
けれど。
「……余裕ね」
ふ、と女は口角を吊り上げた。罅割れた陶磁器のような。先程までの微笑とは全く違う、笑みを作ろうとして失敗した表情。
「ごめんなさい。やっぱり寝不足は良くないわね」
女は机に立て掛けていた自身の鬼哭を掴む。いつもそうするように、ぬいぐるみを抱える幼子じみた仕草で大太刀を抱え込む。身の丈以上の大太刀だ。隻腕では苦労するだろうに、異世界から持ち込んだ唯一の存在を彼女は常に持ち歩く。
からから、と。
柄に括りつけられた無色透明の小石たちがぶつかり合って音を奏でる。
「夜番明けに失礼したわ。あなたもゆっくりお休みなさい、」
ロー、と。
か細い声で言い残して女は部屋から出て行った。
「……クソ」
女の足音が遠ざかっていったことを確認して、ローは椅子の上に座り込んだ。
大きく息を吐く。嘆息だった。苛立ちだった。己に対しての。思い返しても未だ心身に不調が色濃い患者へ向けるべき言動ではなかった。
ローは帽子を外す。視界の端に髪が落ちた。そろそろ切らねばなるまい。
「……」
父様似なのね、と。ローの顔をしげしげと眺めてきた女のことを思い出す。お前もだろうがとローが言えば「似ているのなんて髪の色くらいよ」と返してきたことも。
……けれど確かに。母様やラミのような明るい髪色が良かった、と口を尖らせる表情はまだ元気だった頃の妹とそっくりだった。兄を慕ってくれたあの子はローの髪色を夜空のようだと羨ましがっていたから。
「……クソが」
また大きく息を吐く。
どうしても重ねてしまう。重なってしまう。
顔貌のつくりが。声が。喋り方が。表情が。
あの日クローゼットの中に置き去りにしてしまった妹に。
いつか眠る間際までローに本を読み聞かせてくれた母に。
どうしたって、彼女はよく似ていた。
あるいは彼女にとっての妬ましい欠落を埋めるかたちがローであるように、ローにとっての拭いがたい傷のかたちがあの鏡合わせの女の姿を取っていた。
「――――、」
明滅する意識の中で濡れた金の瞳が浮かんで消える。
ポーラータング号に現れたときに流していた涙で、ハートの海賊団のクルーたちを眺めながら浮かべていた涙で、――異世界のドフラミンゴによって彼女が拐わかされる寸前、割って入って身代わりとなったローのせいで零れた涙だった。
泣かせたくはなかった、と。
ありふれた自責は、ローがロー自身に対して想うものでしかなく、ごく当然のこととして、徹頭徹尾『ロー』は自分自身のことしか責めていない。
「余裕だなァ」
いつか投げつけられた言葉。
けれど震えながら絞り出された声とは似ても似つかない、赤錆びた糸ノコを引かれたときのように耳障りな声音の持ち主へとローは緩慢に視線を向ける。
「フッフッフッ、この状況で別のことを考えられるとはなァ」
“天夜叉”。
極楽鳥のごとき極彩色を纏った男。
能力によって宙に坐すドフラミンゴは、海楼石の手錠で戒められ床に転がるローを見下ろしている。
「何を考えている、ロー? ――答えろ」
長い指先が軽く動く。連動してローの身体が宙へと吊るし上げられた。四肢に纏わりつく糸はその気になればいつでもローの肉と骨を断つだろうに、そうはならない。
世界が変わろうと相も変わらず厭らしい能力だ。ローは舌を出すついでに言葉を吐いた。
「……女のこと、だな」
少なくともお前のことなどではない。舌に乗せて言ってやれば首許に絡む糸が肌に喰い込んだ。
ぷつ、と。
破けた皮膚から血の弾が滴り落ちる――が、ローは死んでいない。
「ハッ、」
どうもこの世界のドフラミンゴの執心はこの世界の『ロー』だけでは留まらず、ローにすら及ぶらしい。ほとんど初対面のようなものなのに、よくもまぁ。
喉を震わせればドフラミンゴのこめかみがぴくりと跳ねた
「お前も躾が必要かァ?」
ぐい、と。
ドフラミンゴの長い指がローの顎を抑える。氷よりも冷たい指先。顔を持ち上げさせられて、ローはドフラミンゴを仰ぎ見ることを強制させられた。――嘲笑。狂笑。眼前に広がる男の顔はローが知るそれより齢と狂気を重ねてなお鮮やかに悍ましく。切り裂かれたように吊り上がる口許は奈落の淵を連想させた。
「生憎と、」
ああまったく。
唾を吐けないのが残念だ。
「お前に躾けられる謂れはねェな」
おれも、あいつも。
お前が思うままにしていい存在など、世界に一つだってありはしない。
「ッ、」
ドフラミンゴが奥歯を噛む。――怒り。焦燥。ローが知る彼よりも感情の揺らぎが分かりやすい。ローは冷ややかに分析する。
「――――」
ひたひたと。ローの身体から垂れ落ちた血が白亜の床に溜まっていく。
傷の一つ一つは軽微だが、このまま血を失いすぎれば待っているのは身体機能の喪失に意識の混濁。海楼石の枷によって全身が弛緩していることを踏まえれば、平時よりも限界は早いかもしれない。
実のところ、詰んでいる。
こちらの世界に乗り込むための事前準備を放り出し、身一つでドフラミンゴに捕らえられた時点で分かりきっていたことだが。
ドフラミンゴは低く嗤う。
「口先だけはよく回るのも同じってワケか。だが何をしようとも無意味だ。お前が庇ったおれの可愛いローも必ずおれの許に戻ってくる」
必ずだ。言葉は確信に満ちていた。狂人の妄言と切り捨てようにも背筋に奔る悪寒は止められない。
「さァて、」
ドフラミンゴが指先を振った。ローの身体に纏わりつく糸がふつりと消えて、落下する。
受け身を取ることも出来ずに自身の血溜まりで無様に転がったローを見下ろして、ドフラミンゴはせせら笑う。
「おれのローが帰ってくるまでの間に、お前も躾けてやろう」
粘ついた声。その大きな掌が自在に操る糸以上に、他者の心身を絡め取る零落した王気が狂気を伴いローへと向けられて、
からから。
からから。
音を聞く。
「な、」
ローの口からいっそ間抜けな声が漏れた。呆けるローに対し、ドフラミンゴは訝しげに眉を寄せる。どうやらこの音はドフラミンゴには聞こえていないようだった。
当然だ。なにせローの頭に響き続ける音は実際にこの場の空気を震わせているわけではない。――共振。共鳴。夢を通じて彼女の記憶を知り得たように、在り得た世界の在り得た自分が聞く音がローにも流れ込んできているのだ。
からから。
からから。
音を聞く。
小石が転がるような音。
乾いた骨を転がすような音。
鬼哭に括りつけた小石たちの正体を『ロー』は口にしなかったが、察しはつく。
どうしてこの音ばかりが痛切にローの鼓膜を震わせるのか、なんて決まっている。
世界が違えども、ローにとって大切な彼らが遺したものだから。
「なに、」
――そして世界を移動してからこちら、聞いていなかったはずの音。
ローの予感を肯定するように視界が青く染まる。透明な青。不純物を絶つ青色。おれらにとっては神さまのヴェール、なんて称したのは酒の入った古馴染たちで。……思い出に耽っている余裕などないというのに、響く音はローの脳から柔く温かな記憶を引き摺り出す。
だからこそローは、
「なにしてん、ッだ、!」
思わず、叫んでいた。
ローの喉を震わせる怒りは空中に佇む夜叉に向けたものではなく、
「……こちらの台詞よ、それ」
寸前までローがいたはずの場所へと、入れ替わるように顕れた人影。
細見の長身に黒いロングコートを靡かせて、この世界の『トラファルガー・ロー』が立っていた。
「なに、を……っ!」
床に這いつくばりながらもローは叫ぶ。
ちゃんと置いてきたはずなのに。暗いクローゼットの中でなく。冷たい宝箱の中でなく。ローにとって信頼のおけるクルーたちの許に。ちゃんと。今度こそ。
女は振り返らない。空っぽの右袖がたなびいている。怪我人だ。ローの患者だ。こちらの世界に乗り込むための作戦でも彼女の存在は除外した。被害者を加害者の前に引き摺り出すわけにはいかない。至極当然の判断だ。
けれど。
けれど、
「作戦の要所でオペオペの能力を必要としておきながら、無茶を仕出かしたひとに言われたくないわよ」
女が首を回してローを見た。
「例え自分が不在でも予備の作戦が機能する? ふざけないで。人が浚われているのよ。回りくどい手段なんて選んでいられないわ」
黒髪の隙間から覗く白い貌。金眼に滾るは憤怒。紅唇が刻むは皮肉。――鏡を見ている気分だった。今更、ようやく、理解する。
金の瞳に映るローは、きっと間抜けな顔をしていたのだろう。
「……ふふ、」
女の唇が綻んだ。
虐げられるしかない弱者の微笑ではなく。
他者を慈しみ庇護するために立ち上がれる、強さを湛えた笑み。
「わたしだって姉様なのよ? ――おれだけオヒメサマしていろってか。そんなムシの良い話はねェだろ」
女の口調が変わる。切り替わる。
粗暴で乱雑な響きに、どうしてだろうか、父の姿がよぎった。まだ平和だった頃の祖国で仰ぎ見た、周囲から頼られる広く大きな父の背中。
ローは海賊だ。海賊である以上は父のように患者の心を解きほぐすための穏やかな物腰でいてはいけない。
けれど一年のほとんどを雪に閉ざされた島で、あの三人を子分にすると決めたとき、こいつらにとって頼りがいのある自分でいようと思ったことは確かで。
「――――、」
『ロー』は姉だった。医者だった。親分だった。キャプテンだった。船長だった。
だからつまり、ローと同じで。
「……じゃあね。ロー」
白刃が光を弾く。
抜き放たれた鬼哭を隻腕で構えて『ロー』はわらった。からから、と。小石たちが音を奏でる。
彼女が次に取る行動がローには手に取るように分かって。
けれど止めるための両腕は戒められて動きもしない。
「やめ――――、」
言葉は、届かない。
「キャプテン!?」
――視界一面に白い毛皮が広がる。
避けるすべも余裕もなく。顔面から突っ込んだローは、しかし恵まれた体躯を有する白クマによって危なげなく受け止められた。
「ぅぷ、」
……怪我をさせないための配慮に基づいた転送位置の指定だろう。腹立たしい。ふかふかの体毛に埋もれながらローは内心で毒づいた。
「こんな、こんな……血だらけで……なんで……」
ベポが肩を震わせる。ぎゅうぎゅうと熱いくらいの体温に抱き締められたローは僅かに動く首を傾けて、頬を摺り合わせてやった。まったく。図体が大きくなってもこういうところは変わらない。
「状況は?」
ローは視線を動かす。室内だ。ドフラミンゴが根城とする城の一室か。
倉庫として用いられているのだろう。しかし整然と整えられていたとおぼしき棚は、いずれもひっくり返されたのかのように荒れている。
「……ローさんの指示です」
ベポの背後。居並ぶハートのクルーたちの中からペンギンが進み出る。
「鍵を探せと。……直後にすっ飛んでいっちまいましたけどね、あのひと」
ちゃり、と。ペンギンは鍵の束を掲げてみせた。ローは喉を込み上げる嘆息を堪える。つまりローの窮地を察知してクルーに指示出しをした上で、自分は身代わりに飛び込んできたわけか、あいつは。
ローは自身を戒める手錠をペンギンに示す。鍵があるなら話は早い。能力を用いてでもなんでもして、一刻も早く勝手な行動をしている『ロー』に一言二言言わねば気が済まない。
しかしペンギンは鍵の束を掲げた腕を下ろして、
「駄目です」
「は?」
ローは瞬いた。戦闘だ。ローを解放しない理由がない。
意図が読めずにペンギンへと顔を向けたローに対し、彼は帽子を深く被り直した。深く濃い陰に覆われて帽子の奥の目許が見えなくなる。
「キャプテンの応急手当が先です」
「……この状況で悠長なことは言ってられねェが?」
「それでも、です。キャプテンには万全に近いかたちでいてもらわなきゃならない」
ベポが困惑した様子でローとペンギンの顔を見比べる。
シャチがペンギンを止めようとしたのか腕を伸ばす。
「あのひと、あんただ」
ペンギンが片膝を着き、ローを見上げた。
「一人で全部背負って、おれたちの幸せを自分勝手に決めつけて、離れた場所でわらってみせて。……否定はしない。それがあんただ。そういうキャプテンだからこそ、おれたちはついて来た」
白いツナギに皺を生んでいた拳がほどかれて、ローの掌に触れた。
重なった掌は、温かい。
「助けましょう。今度こそ、必ず」
ベポが抱え上げていたローの身体を床にそっと横たえる。
シャチが伸ばしていた腕を引っ込めて、傍らの救急バッグを手に取った。
「――――」
ああまったく。
相変わらず、できた子分たちだ。
ローは深く深く息を吐いた。
「……必要ねェ」
「いや!? ちょっとくらいこっちの想いを汲んでくれても良くないですか!?」
わがまま! とペンギンが頓狂な声を上げる。
それでもローは首を横に振った。
「え、」
ローの服を捲り上げたシャチが驚いたような息を漏らす。
「必要ねェんだよ。……っクソ、」
ローの身体に、傷はない。
「あいつ……」
忌々しさすら込めてローは呟いた。
***
両上腕部及び両太腿部、頸部を中心に裂傷。大動脈には至らず。腹部に内出血。内臓への影響は軽微。右肩に貫通痕。――ローにとっては問題、ない。
「……」
羽織ったコートが内側からぬるく湿っていく。怒られるだろうか。怒ってくれるのだろう。ローの脳裏に男として生まれた異世界の『ロー』と、彼のハートのクルーたちと、麦わらの一味たちの顔が浮かぶ。
特に麦わらの一味の船医には申し訳なく思う。医者である彼にローの参戦を認めさせる条件が「怪我をするような無茶を絶対にしないこと」だったので。
嘘ばかりだ。
ずっと、ずっと。
ローは嘘ばかり、ついてしまっている。
「いじらしいなァ、ローよ」
頭上。
二人のローのやり取りを飼育箱の中の愛玩動物にするように眺めていたドフラミンゴが嗤う。
「他者の怪我を引き受けてみせたのか。聖者にでもなったつもりかァ?」
「ハッ。おれは海賊だ。欲しいものは力づくで、だ。当然だろ?」
例え肉体に刻まれた傷だろうと変わりはしない。
なによりあちらの世界の『ロー』がこの世界のドフラミンゴによって受けた傷は、本来ならばこの世界のローが受けているべき傷だ。自分のものを奪われるのは我慢ならない。
「海賊、ねェ」
ドフラミンゴは喉を震わせる。
心底愉快でたまらないとでも言うふうに。
極彩色の悪意が口を広げて、
「お前が、海賊?」
――衝撃が、降り注ぐ。
「ッ、」
大気がたわむ。風が熱を帯びる。肺が空気を吐き出して、脳が押し潰され思考する余地を奪われる。
“覇王色”。
“王の資質”。
宙に坐しこの世の全てをせせら嗤う男には、他者を従わせ屈服させる才覚が生まれつき備わっている。
「目の前で同盟相手もドレスローザの民もすべて死なせた無様なお前が? 仲間を守れず死に目にも会えず遠くで死なせた愚かなお前が? 嬲られ甚振られて泣き叫ぶしか出来ない無力なお前が? おれに股を開くしか能のない女のお前が? どの口で自分は海賊だとほざける?」
げらげらと。
嘲笑がローの全身を打つ。
「――――」
目の前が赤く染まり、呼吸が早くなる。鬼哭を構える腕が震えた。
覇王色に晒されている影響だけではない。心身に刻み込まれ縫い付けられた絶望と屈辱は決して消えるものではないのだと、まざまざと思い知らされる。
けれど。
からから。
からから。
音が鳴る。
囁くような。波間のような。鳥のような。唄うような。微睡むような。白浪のような。さんざめくような。歓喜のような。潮騒のような。歓声のような。追い風のような。光のような。温かな。笑うような。高く、低く。賑やかで。楽しげで。懐かしい。騒がしい、音が、声が、聞き馴染んだ二十の声音が重なり合って響き合う。――ああ。分かっている。単なる幻聴。ゆめ。まぼろし。こうあってくれればいいと祈り願う意識が生んだ幻覚に他ならない。
でも、彼らの一部が“ここ”にいるのは事実だ。
もはや物言わぬ無機物であろうと、クルーの前でキャプテンがカッコつけなくてどうする。
「おれ、は、」
強く強く、ローは鬼哭を握り締めた。
舌は口の中に張り付くようで、背筋には冷たい汗が流れ続けている。
恐怖心は消えてくれない。多分、ずっと、消えはしない。
「おれは、」
けれど。
けれど、
「おれはハートの海賊団船長、トラファルガー・D・ワーテル・ローだ!」
声を、身体を、心を、奮わせろ。
「おれは、おれたちは! もう二度とお前に屈しない!!」
愛を叫べ。
「おれたちは自由だ!」
からから。
からから。
音が鳴る。
奏でられる音色は今にも掻き消されてしまいそうなほどささやかで、けれどローにとってはどんなドラムのリズムよりもこの心臓を鼓舞する音色。
与えられた心に巡る、ローを生かす、愛おしいばかりの鼓動。
「あいしてる」
口の中だけで呟いて、ローは再びドフラミンゴを見据えた。
唇すら吊り上げて、わらってみせる。
強がってみせろ。
見栄を張れ。
間違いなく、ここが大一番。
今ここで、今度こそ、歪んだ因果のすべてを断ち切ってやる。
終
イメージBGM:『祝福』『逆光』『chAngE』『風のゆくえ』