黒硝子5
僕は誰かの味方になりたかった。
記憶喪失前の事は文字通り忘れている為分からないが記憶喪失にて全てを忘れた自分は文字も書けなければ言葉も喋れない。食べることも寝ることも知らない。赤子のような可愛げもなく自己主張も下手。そんな面倒事を纏めたような僕に何の理由も対価も得ようとしない無償の愛は魚にとっての水のようなものでそれが無ければ生きることすら出来ない。
お母さんはそんな僕に無償の愛をくれた。何かが出来たわけでもなく、社長の仕事やアクアマリンとルビーを育てるのも大変だったろうに普通の子供の何十倍も手がかかる僕を育てて嫌な気ひとつ出さなかった。僕がそういうのがわかるとしてもそんな簡単に隠せるものでもない。僕の目に見えたのは時折悲しそうにしていながらもそれさえ嬉しそうにしているお母さんだけ。嬉しいということだけはわかっても何が嬉しいのか僕には分からない。
そんな彼女に何か出来ないかと色々考えた。頭がいい訳では無いから有名な大学に入ったりして高収入の仕事に就くのは難しい。そもそもそういう学校は学費も高い。身体能力はそれなりに高いからスポーツ選手、それも否。身体能力を鍛えはしたものの、スポーツ選手のように毎日やるには別の意味で身体が持たない。物語を作ったり、演奏したり、色んな才能が無いか探してそこから芽吹くものを仕事にするか。そう思い全て試して見たが残念ながら僕にそんな才能は無い。
結局過去に記憶喪失にあったことがある子供以上のものは僕になかった。そんなことを僕以上にわかっているはずのお母さんはそれを「恥じることじゃない」「硝太が頑張ってるのは知っている」と慰めてくれた。僕が向いている別の道を伝えるわけでも、これが向いてるからそれをやれと言うでもなく自由にさせてくれた。
どんな時もお母さんは僕の味方だった。生まれてすぐ、現実と非現実の差され理解できなくて、世界の全てが敵に見えた僕にとって唯一の味方だった。
だからこれだけは決めていた。仮にゾンビ映画のように世界が敵か味方か理解できないような状況でも僕はお母さんの味方になる。お母さんの身と安全を第一に考えて、それの為なら全てを捧げる。たとえそれによってお母さんが僕を嫌い、敵意を向けてきたとしても、裏切ってきたとしても構わない。最初から全てが計算でも構わない。
──あの日僕がお母さんに救われたことだけは、決して間違いでは無いのだから。
◇◇◇
「──酷い夢を見た」
MEMちょの葬式が終わり、東京のみんな|と別れを告げて《を見捨てて》、田舎に帰ってきて数ヶ月が経った。お母さんも普通の生活ができるようになり、介護ではなく田舎で親子2人が普通に暮らしているような形になった。今はネットで内職をしながら僕が家事をして、お母さんはリモートのみとはいえ苺プロの仕事に少しずつ参加すると大きな回復を見せるようにもなった。僕には彼らと会う資格は無いため、お母さんの仕事の様子を聞くことも見ることも出来ていないがここまで来れば東京に戻っても一週間か1ヶ月に一度カウンセリングを受けるだけで自然と回復するだろう。
アクアマリンとルビー、そしてMEMちょを殺した犯人は捕まってはいないものの、お母さんへの言い訳もそろそろ尽きる。リモートワークとはいえ仕事をしていることから東京に戻っても問題ないと考えるのも自然だ。そろそろ潮時か。
マスコミもファンも諦めたのかだんだんこの田舎に来なくなった。今ガチのみんなや、苺プロからの連絡はたまに来るものの、取材と称して迷惑行為だけをし続ける者はもはや影すらない。
「...諦めてくれてるならそれでいいんだけど」
僕の推理が外れて『結果』の殺人は終わり、MEMちょは偶然起こった不運な事故ならそれ以上続くことは無い。二人とMEMちょを殺した犯人が捕まえられないのが心残りだが有馬や苺プロの残したみんなが心配な気持ちもある。
戻るべきか。
今戻れば間違いとわかっていながら取った選択も取り返せるかもしれない。もう一度なんでもないことで幸せを得たり普通の生活が出来るかもしれない。
「馬鹿なこと言うな」
心残りから出てきた選択を即座に棄却する。
まだ数ヶ月。殺人犯が捕まっていない以上潜伏している可能性は十分ある。東京は人の往来も多くその辺をぶらつくだけなら隠すことは可能だろうが、苺プロ社長として業務をすればいやでも人と会うしそれによって世間に姿を現すことになる。
そうなれば殺してくれと言っているようなものだ。2人とMEMちょを殺した犯人が捕まるまで肩の力を抜くことは出来ない。
「決めたことだろ。選んだことだろ」
これからどれだけ後悔しようとこの選択をしたのは紛れもない僕で、その選択の責任を取るのも僕であるべきだ。自分でみんなを見捨てるという選択を取った。自分でやった選択に後悔こそあれもう一度あの瞬間に戻っても僕は間違いなく同じ選択肢を取る。だからこれから変えられる訳でもない。
僕は間接的に多くの人を殺した殺人鬼だ。その証拠に誰だったのかも分からない亡霊のようなものが大量に毎日まとわりついてくる。鏡越しに映る姿を見れば亡霊が衣服のようにまとわりついているのがよくわかる。
恐らく、この亡霊一人一人が『過程』の殺人で殺された人だろう。そもそも僕は人の名前と顔を覚えるのが苦手でなんとなく「才能あるな」と思った人と身内ぐらいしか覚えられないので実は会ったことがある人なのかもしれないが、今となってはどうでもいいことだ。
『お前が見捨てた』
「僕が見捨てた」
『お前が殺す』
「僕が殺す」
亡霊の言葉を繰り返し、自分の中に落とし込む。これが僕のとった選択で夢でも幻でもない事実。
「...硝太?」
そこに亡霊のものでは無い声が聞こえる。振り返るとそこにはこちらを心配そうな顔で見つめるお母さんがいた。
見られたかもしれない。いや、確実に見られてる。今の自分は鏡の前にいる。そしてそこからの独り言。状況だけなら厨二病としか思えない。厨二病と思われるだけならまだいい。お母さんは優しい人で僕が選択したことを後悔してるなんて言えばいらない心配をかける上に僕の代わりに責任を取ろうとしてしまう。それは隠さなければならない。
「ああ、ごめん。何かあった?」
出来るだけ平常心を保ってお母さんの方を向く。なんの問題もない母親思いの息子を演じる。
演じるなんて、僕にはとても出来ないものだと思っていた。嘘をつこうとする度に呂律が回らなくなり、身振り手振りもわざとっぽくなる。だと言うのに、2人の死から半年経つと何故か自然と口から嘘が出るようになっていた。
嘘をつく度に肺に穴が開くような痛みが走るがそれすらも偽る。誰かを騙すための|仮面《ペルソナ》が自然と完成していた。
「ううん。なんでもないちょっとリモートで会議するから静かにしてね」
「お昼作っとくよ」
「お願いね」
別の意味で心配させてしまったようだがずっと僕のことを僕以上にわかっていたはずのお母さん相手ですら胸の内の痛みを誤魔化しきる事ができるようになった。
──まるで俳優さんだな。
アクアマリンや有馬、あかねのような俳優や女優を思い出す。彼らはそれぞれのやり方が違うとはいえそれぞれの役になりきるのではなくその役になってその演技で人々を魅了していた。魅力こそないものの、嘘をつく時特有の痛みすら誤魔化せるようになってしまったらそれはもう魔性の嘘つきと言っていい。そんなものに自分がなれるとは。上手く行きすぎている環境に胸の内から言葉が零れる。
──そもそも、僕は傷付いているのか
──僕は、自分さえ無事なら何がどうなろうといい、思いやりのない人間なのではないか
──間違いない。僕は偽るのが得意になった訳ではなく、傷つく心なんて最初から無かっただけだ。
それを聞いていたのか呼応するように亡霊達が声を上げる。
『お前の嘘は誰も幸せにしない。不幸を呼ぶだけだ』
『お前の嘘はミヤコさんを騙している。傷つかないのか?苦しくないのか?母親が大切じゃなかったのか?』
『お前の自己満足にミヤコさんを巻き込むな。逃げるなら1人で勝手に逃げてそのまま死ね』
亡霊達の雑言を耳に入れながらも雑踏のように掻き分けて台所へと向かう。
彼らの言葉を否定する材料も正しさも僕には無い。それらは当然の反応で、僕自身もその通りだと思っている。
だから敢えて無反応で過ごし続ける。反応して話をすれば間違いなく、僕は彼らを否定できないのだから。
──皮肉にも程がある。
そんなことを思いながら人を突き刺せば即死させられるような鋭い包丁片手に料理を始めた。
自分の表情は、もう鏡を見ても分からない。
◇◇◇
苺プロとのリモート会議が終わったのかお母さんがこちらへと来る足音が聞こえる。手元には野菜を切ってその汁で汚れた包丁。つまりまだ料理の途中だ。残念ながら昼飯にはまだもう少し時間はかかるので待ってもらう他ない。
「───くっ」
連日の疲れからか立ちくらみのようなものが起きて足元が一瞬ぐらつく。原因には思い当たる節がある。
最近、夜になっても寝られなくなった。寝床に入り目を閉じても亡霊の気配が抜けず、警戒が解けないからか眠気すら出てこない。昼夜逆転でも起こったのかと思ったが昼に眠気が来る訳でもない。
そんな日が毎日続いても疲れこそ溜まるが眠くなったことは無い。怖くて眠れないということなら小さい頃はほぼ毎日なっていた。毎日のようにお母さんのベットに潜り込んで寝る時には抱きしめて貰うのは中学生までの僕の日課の一つだった。お母さんのいない日はルビー、ルビーもいなければアクアマリンと信頼出来る誰かしらが近くにいないと目をつぶることすら怖いという状況が長く続いた。
そのおかげで一人に寝るようになった後も近くに知らない人の気配がいたり、ベットが変わると急に眠れなくなるのだが。しかし今回の場合ベットや枕を変えた直後でもなく、亡霊が騒いでいてもうるさいぐらいで怖い訳では無い。そもそも眠気すら無いのだからその時とはまた状況が違う。
とはいえ動けないほど疲れるわけでも他に疲れをとる手段がない訳でもないし、夜中も亡霊はともかく人の気配がするので警戒するに越したことはない。そのためその状況を受け入れるのに時間はかからなかった。
そうすることで空いた時間に内職を多く入れた。今の時代山奥とかでもなければどこに行こうとネットは繋がるし仕事もできる。周囲の人間からの身バレを防ぐ為近所付き合いは必要最低限に済ませているので変な目では見られるものの、下手に手を出そうという考えが浮かぶ者はまずいない。
半年も立てば自然と人との距離が離れて雰囲気的に隔離されていく。そんな状態でただでさえ少ない田舎の仕事を選ぶならネットで内職をした方がお母さんの援助にもなるし家の時間も伸ばせる。
その読みは当たっていたようで内職を増やした結果もあり、苺プロから持ってきた資金や苺プロお母さんへの給料という体で送ってくれる仕送りに頼らずとも普通の生活を送れるようになっていた。
それでも疲れは完全には取れていないようで時折全身に力が上手く込められないようになることが増えた。
──飯の支度も満足にできないのか、僕は。
そんな心の声をお母さんに見透かされないように姿が見えたお母さんには平静を装う。
「硝太、顔色悪いけど大丈夫?」
「ん?なんで?大丈夫だよ」
──また、嘘をついた。
胸の奥に何かが突き刺さる。この感覚は未だに慣れない。アクアマリンやルビーはコレを産まれてからずっとやり続けてきたのだと言うのだから胆力が違う。
「そう、ならいいけど」
低い演技力を『嘘』で通す。お母さんは僕が嘘をつくなんて夢にも思っていないのか簡単に『騙される』。
「お昼はあと少しでできるからちょっと待ってて」
「そう?ならお願いね」
お母さんが台所から離れてテレビをつける音が聞こえる。仕事を終え腹も空いてきただろうし手早くまとめてしまった方がいい。面倒な工程を短縮して軽い昼食を作る。
「出来たよ、お母さん」
「ありがとう」
盛り付けたものをお母さんの近くにある机に並べる。気付いたお母さんに無駄な仕事をさせないように手早く並べ、一息ついて椅子に座る。そんなことをしながらお母さんの顔を見ると何気ない言葉が胸の中で響く。
─そういえば最近、お母さんの手料理を食べていないな
僕が料理をすることにもかなり慣れては来たものの、やはりどうしてもお母さんの手料理と比べると味も質も落ちる。お母さんの方がそういうところに頭も手も回るし、第一経験の差もある。毎日とはいえ、半年程度しかやっていない僕が同じくらいまで行けるなんて虫のいい話にも程がある。
お母さんの料理は美味しかった。比較対象も数は少なかったため、子供の頃は特に何も考えていなかったが、あの有り触れていたように感じた時間がどれだけ特別で、都合がよすぎる夢のような時間だったのか思い知らされる。
「「いただきます」」
テレビを見ながら昼飯を口に運ぶ。テレビの音に混じって亡霊共が声を上げるが混じっている為何を言っているのかは聞き取れない。
「硝太」
その中で一際はっきりとした声がお母さんの口から発せられる。声が大きいわけでも強い訳でもないがメリハリが付いていて耳にいい声。
「何?」
「今日の夜のことなんだけど...」
お母さんが何かを言いかけた時、テレビのスノーノイズのようなインターホンの音がその声をかき消した。
そこまでしてやっと玄関に誰かいることに気付いた。僕は気配を探ることが得意とかそういう訳では無い。しかし警戒はしていた。最近パタリと来なくなったとはいえマスコミや厄介ファンはお母さんの心を傷つけた相手、それらがまた来ないとも限らないので
「お客さんかな」
お母さんの話も気になるがインターホンを押した相手によっては今の暮らしは完全に瓦解する。玄関に隠した折りたたみナイフをポケットにしまい玄関の扉を開ける。
「よっ」
そこに居たのはMEMちょの葬式以来会っていない友人達だった。