黒い馬の記憶

黒い馬の記憶


 眠りから覚めるように目を開ければそこは馬小屋だった。僕は死んだはずでは……。足元には藁が敷き詰められ大きな栗毛の馬が僕を舐めている。いや、この馬が大きいのではなく僕が小さいのだ。どうやら仔馬に転生してしまったらしい。

 馬としての生活に慣れてきた頃、僕は母馬と共に車に乗せられた。いつもと違ってそわそわと落ち着かない様子の母は連れていかれた先でオスの馬に寄り添われ明らかに興奮しはじめた。僕はこれから行われることを察して天を仰いだ。

 しかし現実は想像を超えていた。僕たちはそのオスから引き離され建物の中に連れていかれた。後から現れたのは黒々とした毛並みと岩のように隆起した筋肉がおそろしい巨大な馬だった。馬並みという言葉の意味を目の当たりにした僕は怯えて人間の後ろに隠れた。そんな僕を一顧だにせず、男は母を抑えつけて貪った。母の哀れっぽい嘶きと男の額に斜めに走る傷痕のような流星は僕の心に深く刻みつけられた。


***


 競走生活を終えた僕はたっぷりと食事を与えられ体がひと回り大きくなった。今、その体が未知の感覚に襲われている。何かが足りない。空虚な身の内がぴったりと嵌まるそれを待っている。寂しい。ぼんやりとした頭で探し当てた言葉はゆらりと消えていく。

 いつもの馬房から広い建物に連れていかれた。不安と焦りで心臓が激しく脈を打つ。扉の外から低い嘶きが聞こえてようやく僕は状況を悟り、自分の愚かさを呪った。僕は今、発情期でこれから行われるのは種付けだ。

 忘れたはずの記憶が甦る。荒々しい歩みで入ってきた男。斜め傷の流星の男は4年前に母を蹂躙した征服者そのものだった。恐怖で身が竦んだ僕を鋭い眼光が睨め付ける。

『なぜ身を差し出さない?』

 苛立ちも露に僕にのしかかった男が僕の頸を噛んだ。痛みから逃れたい一心で頭を下げると男は『それでいい』とばかりに息を吐いて侵略を開始した。

 ああ。ああ。僕の体が求めていたものはこれだった。相手を屈服させ一方的に略奪するだけの乱暴な行為。胎内から引き裂かれるような痛みを感じながら、許しを乞うようにすすり泣きながら、欠けたピースが嵌った歓びに震える。この体はどうしようもなく獣だ。


***


 初めてのレースの前だった。強い日差しに照らされて栗毛が輝いていた。きれいな女の子はおれを見た。かしこそうな瞳が陰る。怯えている。近づきたい。大丈夫だよと伝えたい。もっと怖がらせたら……。一歩踏み出すことができなかった。レースが始まった。おれは直線で先頭に飛び出した。その横を風が通り抜けた。女の子に負けた。最初で最後だった。

 初めてのレースの後、おれは脚が痛くなった。しばらく休んだ。あの子のことばかり考えていた。脚が治った。長く走った。何度も何度も走った。ときどき一着を取った。たくさんの馬と走った。あの子はいなかった。

 お疲れさま、がんばったな、よかったな……ある日いろんな人がうれしそうに、ちょっぴり寂しそうに声をかけてきた。お別れだとわかった。おれはふるさとに帰った。

 おれは小さな群れを与えられた。いくらかの女性と番った。あの子にまた出会えた。

 真っ黒な子供を連れている。母親として申し分のない体つきだ。色ツヤもよい。もう怖くないだろうか。体を寄り添わせる。顔を近づける。濁った瞳はおれを映してはいない。何も映してはいなかった。ただ男を待っている。女の体だけがそこにあった。


***


 あいつじゃないのか。僕は失望した。失望した自分を浅ましいとも思わなかった。今年の相手は貧相な体で、おどおどと僕の様子を窺ってくる。

 早くしてほしい。この焦燥を鎮められるのは男という生物だけだ。最悪、誰でもいいのだ。やり方がわからないのなら教えてやる。

 僕は受け入れやすい体勢になって、アピールをする。ここだ。流星だけはあいつに似た男は労わるようにゆっくりと動いて、生ぬるい行為を終え、すごすごと去っていった。

 お前は父親のように強くなりなさい。息子の顔をぺろりと舐めた。6番目の子は何も知らずうれしそうに鳴いた。


***


 俺は強い。すべてのレースは俺が勝った。すべての歓声は俺のものだ。すべての人間は俺に尽くす。すべての女は俺が抱いた。ひとかけらだって譲りはしない。死んでも──

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