骨と歌と心

骨と歌と心

Name?

 音楽王国エレジア──

 音楽の栄華を極めた煌びやかさも今は昔。寂れた食堂に、テーブルで向かい合う二人の男女がいた。

 いや、男女というにはいささか語弊があるか。片や甘い果実ジュースを揺らすのはまだ顔にあどけなさの残る“歌姫”。片やほろ苦い果実酒をグラスで嗜む“骨”。

 “歌姫”ウタは、両手に包まれたコップで揺蕩う水面をじっと見つめてから、おもむろに口を開いた

「ねえ、ブルックはなんで音楽をやっているの?」

 “骨”になっても悪魔の実の力で生きている男、ブルックは、その口内にあった果実酒を喉の奥へと押し込んでから口を開く。

「おや、お嬢さん。いきなりどうしたんです?」

「……いいでしょ。気になったんだから」

 ウタの下がった目線を見て、ブルックは手に持ったグラスをコトンとテーブルに置いた。

「音楽をやるのに、理由が必要ですか?」

「……えっ?」

 予想していない答えだったのか、ウタの目がまるで幼子のように、まん丸に見開かれた。

 その様子を見て、ブルックはヨホホと笑い声をあげる。

「そうですねぇ、強いて言うなら『楽しいから』。それに尽きます。確かに一時期は、路銀を稼ぐために音楽をしていたこともありましたけど、ヨホホ。それでも、その時だって楽しくなかったわけじゃありませんし」

 そっか、と力なくウタが呟く。テーブルよりもさらに低い位置に焦点を合わせているように、視線が落ちる。同時に落ちた肩からは、落胆の色が見え隠れしていた。

 ブルックは少しだけウタのその表情を観察してから、次の言葉を紡いだ。

「ウタさんは、何故音楽を?」

 その質問に、ウタは動揺したように一瞬だけブルックを見てから視線を逸らす。

「……わたしは、みんなを救うために──」

「本当にそうでしょうか?」

「っ!」

 ダン、とテーブルにコップの底を打ち付けたウタは、怒りのあまり思わず立ち上がってしまった。

 ガシャン、と床に落ちたグラスが音を立てて割れる。

「何が言いたいの!? わたしが本気で世界を変えたいと思っていないとでも言いたいの!? こんな──」

 目を吊り上げ、唾を飛ばしながら怒鳴るウタの鼻先に、すいと骨の人差し指が立てられた。

 ヨホホ、と小さく笑いながら、ブルックはその指を左右に振る。

「……」

「ヨホホ、そんなに睨まないでくださいよ、お嬢さん。そういう意味で言ったわけじゃありませんから」

 ブルックは手を引いてから、その手首を返してウタに尋ねる。

 カシャンという乾いた音が、小さく食堂に響いた。

「あなたのそれは、『あなたがしたいこと』でしょう? 私が聞きたいのは、『ウタさんが音楽をする理由』です」

「だから、それは……っ」

「いいえ、いいえ。違うはずです。あなた程に音楽の才に愛された人間の根底に、それがないなんてことはあり得ない」

 ウタはブルックの顔をじっと見る。骨の顔は表情が乏しく、声色以外で彼の感情を読み解くことは難しいのかもしれない。しかしウタには、彼が今、優しく微笑んでいるような気がした。

 ウタは脱力して再び椅子に座った。

「……何よ、『それ』って」

「『音楽を始めた理由』ですよ。あなただって、世界を変えるために音楽を始めたわけではないのでは?」

「そ……」

 それは、と反論を言おうとしたウタの唇は、しかしそれに続く言葉を紡ぐことができなかった。

 ブルックが優しい声で続ける。

「好きだから、楽しかったから、褒めてもらえたから……。私が思うに、音楽家のルーツなんて、それくらいのものなのではないでしょうか。少なくとも、私の周りにいた音楽家たちはそうでした」

「…………」

 ウタは黙ってうつむいた。

 彼女の脳裏にある、かつての記憶。十年の時を経て、色あせてもなお心温まる、かつての日々。赤髪海賊団の音楽家として過ごした、かけがえのない時間。

 その温かい記憶とともに、あの日の記憶も呼び起こされる。

 炎で赤黒く染まった日。エレジアの落日。裏切りの、記憶。

「────だけど、彼らはわたしを捨てた!!」

 思わずウタが叫んだ。

 ブルックの質問への返答ではない。溢れる感情がせき止められなかったのだ。

「あれだけ一緒に居たかったのに!! あんなに大好きだったのに!! わたしは、あの人たちといられるなら、何を投げ打っても良かったのに!! なのにみんな、黙ってわたしを置いて行ったんだ!! どれだけわたしが……、どれだけ……っ!!」

 せき止められなかった感情は、やがてウタの唇を震わせ、そして瞳からは大きな雫があふれ出した。

 鼻をすすり、涙をぬぐう。

 それは、彼女を育てた男にすら吐き出せなかった感情だった。あの日のことを何も知らないブルックだからこそ、吐き出せる感情だった。

 ブルックはそんな彼女の感情を受け止めて、そして静かに指を組んだ。

「……なら、確かめに行きませんか?」

 静かな、凪いだ海のような声に、ウタは「え?」と顔を上げた。

 小さく顔を俯けて、ブルックが言う。

「私ね、昔、仲間をある場所に置き去りにしたことがあるんですよ。その場所へ『必ず帰ってくる』と約束してね。ですが、結局約束を果たせず、霧の島に捕らわれて早五十年。結局船員(クルー)も私以外は死んでしまいまして、一時的には彼を裏切ってしまっていた」

 でもね、とブルックは足下に散らばったグラスの欠片を拾い上げて、目の前にかざす。

 優しい蝋燭の光が、ガラス片の中できらりと輝きを放つ。

「ある時、私を船に乗せてくれるという男が現れたんです。そして、なんの運命か、その男は、私の仲間の知り合いだった。彼は今もなお、私たちを信じてそこで待っていると。……私は今、五十年越しの約束を果たすために、旅をしているんです。そしてそれは、私が彼に直接会って伝えることでしか、報いることができないんですよ」

 ブルックが語りながら思いを馳せるのは、かつて通った穏やかな海。優雅に楽しく海を泳ぐ、黒く幼いアイランドクジラ。

 ブルックには、ウタを置いて行った人物が悪人だとは思えなかった。この島の主でウタの育ての親であるゴードンから聞いた話からも、ウタのこの取り乱しようを見ても、その人物に悪感情があるようには思えない。むしろ……。

(私と同じだったのかもしれませんね)

 ブルックは手に持ったガラス片を机に置くと、床に散らばったガラス片を手でかき集めて、塵箱へ捨てた。骨の体のおかげで、怪我も何もない。

「……でも、行けないよ」

 小さな声で、ウタが呟いた。

 ブルックがそのアフロを傾ける。

「おや、どうして? 霧に捕らわれているわけでもあるまいし」

 ウタは強く頭を振った。

「それでも、わたしの歌を聴いてくれた人たちは、わたしに助けを求めているんだ。だから、今更、歌姫をやめるわけには……」

 両手で自分の頭を抱えて、ウタが声を絞り出す。それはどう見ても、決意をした救世主の姿ではなかった。苦悩する、小さな少女の姿だった。

「……一つだけ、よろしいでしょうか」

 そのブルックの問いに、ウタは頭を抱えたまま応えなかった。

ブルックは静かに言葉を続ける。

「音楽ではね、人を救えないんですよ」

「……そんなこと、ない」

 腕の隙間から、小さくウタが反論する。そんなはずはない。自分に言い聞かせるような、小さな声だった。

 しかしブルックは、断固として引かなかった。

「いいえ、お嬢さん。お嬢さんより腕の劣る私ですが、先達として言わせていただきましょう。音楽に、人を救う力なんてありません」

「……っ、何を根拠に──!」

 今度こそ顔を上げて反論しようとしたウタは、ブルックの顔を見て絶句した。

 表情のない頭蓋骨。

 表情がないはずなのに、その頭蓋骨はとても憂いを湛えたような、そんな顔をしていた。

「私が、そうでしたから」

 私はね、とブルックは続ける。

「五十年前に船員を亡くしてから、独りぼっちで五十年を生きてきたんです。音楽で気を紛らわせたりもしましたが、それでも、音楽は私を救ってはくれなかった。……私を救ってくれたのはね、人ですよ。私の今乗る船の船長です。私は彼に救われた」

「人……」

「ええ、そうです。音楽には様々な力がありますが、でもそれは、直接的で絶対な力ではない。……音楽の持つ不変の力、あなたなら、知っているでしょう?」

「……心を、動かす……?」

 自信なさげなウタの呟きに、ブルックはヨホホと笑った。

「そうですとも。心を感動させて、魂を揺さぶるのが音楽の力です。音楽の力は、そこまでなんです。ですから、それ以降のことに、ウタさんの責任は介在しませんよ」

「…………」

 ウタは一度だけ何か反論しようと口を開き、すぐにそれをつぐんだ。

 例えば今、ウタの持つウタウタの実の力をブルックに明かせば、彼はその考えを改めるのだろうか?

 そんなウタの様子をどうとらえたのか、ブルックは小さく鼻から息を吐いて、「第一」とづけた。

「第一、自分を救えない人間に、一方的に他人を救うだけの余裕なんて、あるわけないじゃないですか」

 自分のことで手一杯なのに、何故それほどまでに皆の思いを背負い込もうとするのか。手を取り合うのではなく、救いを与えようとするのか。

 それが、ブルックがこのエレジアへ飛ばされてから数日間、彼女を見ていて感じていた違和感だった。彼女はただ、音楽を愛するだけの少女だ。そんな彼女に何故、他の人たちの人生を背負えと言えよう。

 ……少し酔い過ぎているのかもしれないと、ブルックは自身のその言動を顧みて思う。それでも、口は止まらない。これほどまでに音楽に愛された若人を、どう見ても傷ついている人間を、黙って見過ごすことはできなかった。

「お節介なのはわかっていますが、ウタさん、あなたは外へ出るべきです。人と触れ合って、あなたこそが救われるべきです。……そうだ、良ければ一度、一緒にライブでも開きませんか?」

 ウタの目が泳ぐ。

「ら、ライブなら、配信電伝虫でできるし……」

 ヨホホとブルックが笑う。

「配信じゃなくて、ライブですよ。観客の前に立っての生演奏」

「で、でも、この島の外にはどうやって行くのよ」

「商船があるでしょう。乗せてもらえばいいではないですか」

「お、お金だって余裕があるわけじゃないし」

「演奏して稼ぎましょうよ。そういったノウハウは知っていますよ」

「っ! そ、そうだ、もし海賊に襲われたら!」

「あ、私が護衛しますよ。これでも昔、国仕えしてましたし多少の海賊には負けません」

「~っ! ご、ゴードンを一人にするわけにはいかないじゃない!」

「ご一緒すればいいじゃありませんか。ゴードンさんにもライブに噛んでもらうのも面白そうですね、ヨホホ」

 ああ言えばこう言い返される。

 ウタは完全にブルックに言い負かされていた。

 言い訳の鎧をはがされて、残ったのは、ただウタの心のみ。

「あとは、ウタさんがどうしたいかだけなんです」

 外の世界へ出るにしても、会いたい人たちに会いに行くにしても。

 ブルックはそう言って椅子から立ち上がると、ウタの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「そうそう、言い忘れていましたが、私、明日来た商船でこの島を発ちますから」

 え、とウタがブルックの方を振り返る。

 ブルックは小さく肩を竦めた。

「私、船長と約束をしていまして。本当は三日後には合流する予定だったんですが、ほら、ここには一か月に一度しか船が来ませんから。ですから、明日にはここを出てすぐにシャボンディ諸島へ向かわないと」

 そっか、とウタは下を向いて小さく呟いた。

 食堂の扉に手をかけて、ブルックが言う。

「ライブの話、良かったら考えてみてくださいね。シャボンディ諸島までならエスコートできますし。……そうそう、目が冴えて眠れない夜には、ジュースよりもホットミルクがいいですよ。まあ私には冴える目がないんですけど! ヨホホホ!」

 最後に笑えないスカルジョークと「おやすみなさい、お嬢さん」という挨拶を残して、ブルックは食堂を出て行った。

 残ったウタは、室内で独り、小さくため息を吐く。

 いいのかな、会いに行っても。

 この島を離れて、外の世界へ出ても。

 ……怖い。想像するだけで、眩暈がするほど怖い、けど。

 そんなウタの思考を遮るように、廊下の方から声が聞こえる。

 ブルックのヨホホの笑い声が、いつの間にか歌に代わっていた。

「ヨホホホ~……♪」

 それは、ウタも良く知っている曲だった。

 このエレジアに取り残されてから、一度も歌うことのなかった曲だった。

 父親たちと、よく一緒に歌った、あまりにも有名な歌。

「……ビンクスの酒を……」

 聞こえる声に合わせて、さえずるように呟く。

 いつも嗅いでいるはずの潮の香りが、何故だかとても懐かしいような気がした。

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