【騎士たりえなかった老人の独白】
思えば、欺瞞と罪過に彩られた生であった。
騎士道、などと呼ばれるものが反吐が出るほど嫌いだった。
遠き島国の円卓ではあるまいし、この過酷な土地においては犬に喰わせるほどの価値もない。平民がその日食うにも困る横で、豪奢に着飾った貴族たち。彼らに媚びへつらい、戦場で血に塗れ敵を殺せば何不自由ない生活が保証されていた。誇りなど一文にもならず、何の役にも立ちはしない。溝に捨てる程度の代物で、矜持などは絵物語の産物でしかない。
そんなことは、疑う余地のない常識であった。
その男が嫌いだった。
青い瞳は晴れ渡る夏空のようで、曇りのない銀髪は畏れさえ抱かせるほどに美しかった。そして口を開けば真っすぐな言葉ばかり。ああ、腹立たしいほどに清廉という言葉が似合う男だった。
騎士団で出会った、同じ年頃の男。元は生まれも定かではない孤児であったそうだが、その有り余る才を見出され名門に養子入りしたのだそうだ。
騎士というものに幻想を抱く愚かな男を内心で嗤いながら、差し出された手を握り返した。
いずれ現実を知り絶望する様を、あるいは堕落する様を愉しみにしていたというのに。
その笑顔が凍り付いたのは、いつからだったか。
男がめざましい戦果を何度もあげてからか。
民衆や貴婦人が、男に注目し夢中になったからか。
それでもなお変わらず、こちらに信頼の目を向けてきたからか。
何も変わらぬ男が憎らしく、妬ましく、何よりその信頼から逃げたかった。
けれど、やはり男は愚かだったのだ。
堕落しきった宮中で、名誉も報酬も求めず民衆に支持される姿がどう思われるか、わかっていなかったのだから。
『所詮は下賤の身。生まれながらの貴族ではない。従順なふりをして国を裏切る機を伺っている』
そんなことを吹き込めば、貴族たちは面白いくらいに思い通りに動いた。
男の鎧ははぎとられ、粗末な服を着せられ投獄された。その清廉さが気に障る者も多かったのだろう、引き締まった体は私的な理由による拷問で見る影もない。月のようだった銀髪は不揃いに切られ、土で汚れている。
だというのに、青い瞳はなにも変わらない。己の掲げた騎士道が過ちであると身をもって知ったはずなのに。
形ばかりの裁判のあと、さらに北の大陸へ放逐されると決まっていた。
けれど、まだ足りない。どうしても、あの青が絶望に染まるところを見ないと気が済まない。
牢番に金を握らせ囚人を見る。
うめき声と荒い息、断続的に響く音。唇をかみしめているが、強情がいつまでもつか。
ああほら、もうじき悲鳴に変わるだろう。
男が目をかけていた部下たちだ。ずっとこうしてみたかった、などと熱に浮かされたように口にする姿に、己が嗾けておきながら嫌悪感がわいた。
ほら見ろ、お前が夢想した騎士などどこにもいない。
数十年、うまく立ちまわっていたつもりだったが、この歳になって致命的な失態を演じてしまった。
教会の者と複数の部下を率いて北の大陸の魔物を討伐せよ、という事実上の死刑宣告。
かつて嫉妬から陥れた相手が放逐された先というのは、なんという偶然だろうか。
まだ死にたくはない。
事実上の死刑宣告とはいえ、魔物を討伐し国に帰ればまだチャンスは残っている。
そんな思いをあざ笑うように、魔物は姿を現した。
魔物が足を進めるたびに、蒼炎が地を這い人間に襲い掛かる。
たちまちのうちに炭と化せば、あとに残る感情は恐怖のみだ。
まともに剣も握れない体で、それでも魔物と対峙する。そこではっきりと顔を見て、驚愕した。
己は剣も握れないほど老いさらばえたのに対して、昔日と変わらぬ美しいままの容姿の男がいる。
いや、変わったところが一つある。かつては何をしても希望に満ちていた青い瞳が、地獄の炎のごとき絶望を映しているではないか。
かつてならばそこに愉悦を抱いただろうが、今の己にそのような余裕などない。
恐ろしかった。以前はその真っすぐな信頼から逃げたかったが、今は圧倒的な上位種の敵意すらない侮蔑の目が恐ろしくてたまらない。
男の名を呼び、見逃せと叫ぶ。そうだ、かつてのお前なら俺を見逃すはずだ。かつての仲間なのだから。
返答は……「誰だ、それは」という簡素な言葉。
その意味を理解することなく、己の体は蒼炎に包まれた。
騎士であれなかった老人は、騎士になろうとした怪物の手によって命を終えた。
「地獄か煉獄か、天の国かは知らんが……祈りくらいは捧げてやろう」
怪物は言う。既に炭となった死体を一か所に集め、教会の祈りを唱える。
信仰などはしていないが、最後くらいは相手が信ずる宗教で送ってやろうと思ったためだ。
祈りが終わり、炭は骨ばかりとなる。
それきり一瞥もせず、愛する妻たちと主人が待つ城へ怪物は帰っていった。