馬酔木の花はまだつかない
すっかり冷えていますねと手を取られた時、自分は一体どんな顔をしていただろうか。過去の関係を考えれば、なんだこいつと怪訝な顔をしたような気もする。
ではあの男はどんな顔をしていただろうか。それはもしかしたら、目の前で眉を下げて咎めるようにこちらを見る娘と同じ顔をしていたかもしれない。
「オカン手ェひえっひえやん!尸魂界はカイロもないんか?」
「温石はあるけど、あれ面倒やねん」
「そんなら手袋でもなんでもしぃや、その内冷えきって手がもげるわこんなん」
「そう簡単にもげてたまるか、何百年ヒエヒエの手でやっとる思っとんのや」
微かに感じた父親の面影は冬の寒さに紛れる白い息の様に霧散した。後に残ったのは賑やかに文句を言ってくる娘だけだ。少しうるさい。
そもそも元から体温の高い方ではなし、娘だって手の冷たさは誰よりも知っているはずだろうに。冬は大体こんなものなのだ。
無事成長したはずなのに子供体温というか若さなのか、ポカポカと温かい娘は人に注意をしておきながらショートパンツにショートブーツという出で立ちで生足を露出している。
色々あって斬魄刀を手にしたとはいえ、正式に死神ではないので死覇装を着ていないのはわかる。しかし露出度まで夜一を真似しなくてもいいと思う。
「アタシが来るまでにもうちょっと便利にならんかなァ」
「喜助がこっち来たら色々するやろ」
「それはそれで涅さん怒りそや」
「アイツは喜助が息しても気に入らんからおるだけで怒るやろ、なにやっても誤差や」
当たり前のように現世に残るという娘を、こっちに連れて来るよう言い含める気は全くなかった。好きにしたらいいと思う。
どうせこっちに来たらあれだけ鬼道と白打が使えて斬魄刀を持ってる時点で死神として働かされるのだから、やる気がないなら向こうにいる方がいい。
それに五十年も過ぎればみんなそれなりにあの男のことも忘れるだろう。今はまだ少しだけ、残していったものが多すぎる。
娘は案外図太く強いので平気かもしれないが、俺が娘を見てあれを思い出すと普通に嫌な気持ちになるので早々に痕跡を消し去って欲しい。なんというか妙にしつこくて、こびりついて消えないのだ。
「……なんやしつこい油汚れみたァやな」
「なにが?涅さんの顔の黒いとこの話?」
「ちゃうわ、なんで急に俺がアイツの悪口言わなあかんねん」
「ひよ里姉はなんもしとらんでもボロクソ言うけど」
「あの口の悪さを死神の標準にしたらこの世は終わりや」
ボロクソ言いたいやつはこの世に今のところ一人しかいないし、言ったところで響くものでもない。
人でなしに人でなしと言ったところで、豚に豚と言うようなものだ。だからどうしたと言わんばかりの顔をされてイラつく羽目になるのはこちらである。
前はもう少し打てば響くような部分もあったような気もするが、今はそんな印象はなくなってしまった。一方的になにかよくわからない圧力をかけてきた印象が強すぎる。
いやどうだろう、前から人の良いふりは得意だったが人並みのコミュニケーションが得意かというと疑問だったような。外面ばかりの男だったからそれを剥いだらダメになったんだろうか。
つらつらと考えてみたが、もう二度と顔を見ることも声を聞くことも無いのだろう。万が一あれが外に出たとしてこちらに来るわけもない。
できることなら娘にも絡んで欲しくはないが、変に興味を持っていたのでちょっかいをかける可能性はあるかもしれない。
「お前もそんな足出してないで、変なやつには気ィつけえよ」
「オカンがオカンみたァなこと言うとる」
「アホか、母親歴百年の筋金入りや」
「尸魂界来ると精神が歳取るんちゃう?」
「ババア言いたいならもっと近くで言いや、脳天にチョップしたるから」
いやや!と大袈裟に頭を庇う娘にはあんな父親は必要ない。もちろん俺にだって、あんな男は必要ない。
精々なんもない所で飽きるほど反省……はしないだろうが、屈辱でも感じていればいいと思う。できることなら、忘れてしまえるまでずっと。
できることなら隔世遺伝なんてもんが起こらないといいが、なんだかんだ孫が産まれたらどんなもんでも可愛いような気もする。
娘にだって似たところはあるが、それでも可愛い。随分とお転婆の跳ねっ返りに育ってしまったが、それだって可愛いのだ。
「若々しくて綺麗なお母様ですぅ」
「白々しいわァ」
「ええ……あ、でもほんまに顔は若いと思う!」
「ほんで?中身はババア言いたいんか?」
「そんなん言うてへんやん!曲解や!」
色々あったが、娘が心穏やかに過ごしていけるならそれでいい。そしてその平穏は、少なくともアイツがいないことで得られるのだ。
せめて娘がこちらに来るまでは。百年見つからなかったのだから、もう百年くらいアイツと関わりのない生活が送れたっていいだろう。
結局のところ近い未来でアイツの存在がどうのこうの言ってる場合じゃないくらいなんもかんも滅茶苦茶になったり、二度と見ると思ってなかった顔を見ることになったりするのだから……なんともままならないものだ。