食う寝る処で住む処

食う寝る処で住む処

 

 知人と興した会社に兄が乗り込んできた。私と組もう、などと宣いながら。

 兄は基本的におかしな男だ。だが、一応最低限の常識はあるし、何より仕事ができる。

 近頃色々とトラブルが重なったせいで、やることが山積みだった。飛んで火に入る夏の虫、自分から来たならこれ幸いとおれは兄に殺しやら運び屋やらデスクワークやら膨大な量の仕事を振り、兄はせっかく久しぶりに会ったのに、と苦笑いしながらそれをこなした。もちろん多忙だったのは兄だけではない。俺も知人らも各々のタスクに追われ、ここ数日はずっと働き詰めだった。

 今日、それがようやく一区切りついた。明日は久しぶりに全休が取れると職場は浮かれ、おれもいつもより早く塒に帰った。

「……」

「……」

 リビングに入ると、ソファで眠りこけている兄が目に入る。傍らのサイドテーブルには書類が置いてあった。手にとって確認すると、それは兄に処理を任せていた発注書だった。完璧な仕上がりのそれに感心しつつ、ソファの兄を見る。

 おそらく、書類を片付けて一休みしようとして、そのまま寝てしまったのだろう。いつもなら眠っているところに少し近づいただけで目を覚ます兄が、今は夢の中だ。激務でよっぽど疲れたか、敵が来ないと安心しているのか、あるいはその両方か。

 起きているときのやかましさとは比べ物にならないほど静かな寝息を聞いて、幼い頃に共寝していたことを思い出す。

 暖房などついていない家に二人で暮らしていた頃、おれと兄は少しでも暖が取れるように同じ布団にくるまって寝ていた。寒いね、いつ春になるかな、楽しみだね、と二人しかいないのに兄が声を潜めて話すのを聞きながら、おれはその家で三回冬を越した。

 今、この家には暖房も冷房もついていて、好みに設えた家具もある。広さもあって、いきなり兄が転がり込んできても支障はなかった。

 おれはため息をひとつついてから、隣の部屋に毛布を取りに行き、兄にかけた。近づいたとき、少し甘い匂いがして、ああこいつ、また菓子を食ったのかと思った。


「……あれ……」

 間の抜けた声を出して、兄がソファから起き上がる。サイドテーブルを見てうそ、と呟いたのがおかしくて、俺は笑った。

「あ、クロ。おはよう。……書類は」

「受け取ったぜ。ミスもなかった」

「よかった」

 兄はほっとしたように笑う。いつも整えられているシャツにシワが寄っていた。

「毛布かけてくれたんだね。ありがとう、クロは優しいね」

「いちいちそんなことで言ってくんじゃねェよ。……飯、出来てるから早く着替えろ」

「……えっ」

 兄が驚いたのが目でわかる。

 無理もない。今まで料理ができるなどと兄に伝えたことは無いし、何よりおれは片腕しか使えないのだから。

「食わないのか」

「食べる、食べるよ、絶対。着替えだね、少し待っていてくれるかい」

 兄は駆け足で寝室へ行き、すぐさまラフな格好で戻ってくる。いつも飄々とした兄が、今日はめずらしく忙しない。

「いただきます」

 兄弟二人で、久しぶりに同じ食卓に着く。忙しかったせいで、同じ場所にいても食事を共にすることは今日まで無かった。

 鶏のソテーを口にした兄が、目を丸くして尋ねた。

「……おいしい。これ、クロが作ったのかい?」

「ああ」

「すごい。……でもどうやって?」

「練度上げも兼ねて能力で補助してやった」

 へええ、と兄が感嘆する。それを見て、おれは内心やってやったぞ、と何かに勝った気分になった。

 昔から、おれは兄に食事を与えられるばかりだった。共に暮らしていた頃は、まだ幼かったので兄が作った食事を食べていた。離れたあとも、何度か奢りはしたが手ずから作ったものを食べさせたことはなかった。

 別に兄を喜ばせたいとか、そういうのではない。ただおれの中で、兄から何かとても大きなものを借りているような感覚があって、それがずっと気に食わなかったのだ。

 兄はニコニコしながら手を進める。俺も食べ始めることにした。

「まさかクロの手料理が食べられるなんて」

「別に、このくらいなら誰でもできるだろ」

「そんなことないよ。特別おいしい、世界で一番おいしい」

「安い舌だな」

 おれはそう言ったが、兄は本当に世界一おいしい、と言って聞かなかった。おれも兄が引かないとわかっていた。

 おれには確信があった。

 多分、というか、絶対に。おれの作った食事を食べた兄は、「世界一おいしい」と言うだろう。そんな確信が。

 そしてそれは見事に的中した。おれはすこぶる気分が良くなった。今この瞬間、兄の言葉と表情で、数日ぶんのストレスが軽くなっていくようだった。

 兄が、おれの作った飯を食っている。昔とは逆に。おいしいおいしいと言いながら、笑いながら。

 自分の口元が緩むのがわかる。今、いつもならだらしなくてしない表情をしているのだろう。だが、いい。ここにはおれと兄しかいないし、その兄は俺よりももっとだらしない表情をしているのだから。

 兄がスープボウルを置いて言う。

「この義務汁も美味しいよ」

「トマトスープって言えバカ兄貴」

 余談だが、兄はすべての野菜を義務と呼んでいる。

 

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