風のゆくえ
ゴードンさんが待つ教会への道を、ルフィたちと一緒にゆっくり歩いてく。
フーシャ村で遊んだ帰り道みたいに、ずっとずっと楽しい話ばっかりしながら。
シャンクスたちが迎えに来てくれるところまで子どもの頃とおんなじで、だけど朝日に照らされた影は、あの頃夕日に照らされたそれよりずっと長く長く伸びていた。
柔らかい朝の空気の中で、あの頃と変わったこと。
「そんで、ローの仲間のクマが熱くて干物になるって言って倒れちまったんだよ!」
「あいつらは北に居た時期が長いからな。砂漠越えはまあ無理だ」
「え?待って待って!仲間に喋るクマがいるの!?」
「正確にはシロクマのミンクだ」
「ミンク…?」
昔ルフィが話してくれた夢の中の友だちは、いつの間にか夢から自由になっていた。ルフィと一緒に外の世界で冒険をして、ずっと前に話の中で知っただけの私を助けに来てくれた。
あの頃はシャンクスの船に乗りたがってたルフィに、命と夢を預ける仲間たちにも会えた。手配書の写真でしか知らなかった"麦わらの一味"の人たちは、私を責めることもしないで、大きな剣を背負った男の人を追いかけて先に教会へ向かっていった。
シャンクスは、ずっと諦めてなかった。
世界を夢に沈めるための今夜。映像電伝虫を連れているだけで取り込まれるライブを避けて現実のエレジアに向かったシャンクスたちは、きっと沢山のことを調べて準備をして、私の手を取るたったそれだけのためにずっと戦ってくれていた。
そして、ルフィは。
ルフィは、約束を忘れてなんかいなかった。
私が夢見た新時代にルフィの居場所はなかったのに、ルフィの目指す新時代には私がいなくちゃいけないんだって教えてくれた。
それが、胸の奥が熱くなって溶けそうなほど、嬉しかった。
だからもう、夢を見るのはおしまい。
私がこの夢に巻き込んでしまった沢山の人たちにどれほど恨まれたとしても、もう、踏み出さないと。
「おっさん、ウタの友だちか?」
街外れの教会へ続く道に、海兵さんが一人、ぽつんと立っていた。
「…ただのファンさ」
このエレジアに最初に流れ着いた船に乗っていた、あの夜私の背中を優しく押してくれた人だった。
「お別れだって聞いてな…ちょいと挨拶をしに来たんだ」
もう痩せても、変な咳をしてもいない海兵のおじさんは、あの時よりずっとずっと柔らかく温かくなった顔でそう言った。
「ウチの部隊の連中はみんな、食うにも困って海軍に入った。故郷でただ死んでくよりは、前線に放り込まれた方が食えるだけマシって理由でな」
おじさんが少し元気になった頃、部隊で自分だけは世界徴兵以前から居る海兵なんだと教えてくれたのを思い出す。
マトモな訓練をつけてやる時間もなかったと、十分な船も装備も、メシさえくれてやれなかったと言った瞳の暗さを。
「でもな、この国で暮らした時間は…楽しかった。確かに幸せだったんだ」
「おじさん…」
「海兵だ海賊だって、人を殺して腹を満たすことしか頭になくなった獣みてェなおれたちは…お前さんの、お前さんたちの歌で確かに、人間になれた」
流れ着いた人たちへの慰問コンサートを提案してくれたのは、おじさんだった。
歌が心を癒すことを、意志を繋ぐことをいつだって信じてくれた。
「夢はいつか終わる。だがそれは、夢を見ちゃいけねェ理由にはならねえ…」
「おじさん、わたし…」
「だからな……ありがとうよ、ウタ!!この国に、お前さんが世界一の歌手だと信じてねえ奴なんていねえ!いつも通り胸張って歌ってくれ‼︎!」
道を挟む木の間から、野太い歓声が上がった。
こっそり茂みに隠れてた海兵さんたちを、おじさんは見せもんじゃせねえぞお前らと叫びながら街の方に追い立てていく。
しんとしていた朝の森に響いた笑い声が、一斉に飛び立った小鳥たちのさえずりに混ざって消えるまで。私はずっと、優しい海兵さんたちの背に手を振り続けた。
歩く。歩く。
どこも悪くないはずなのに、どうしてか鳴らない鐘を乗っけた教会に向けて。
そうして、木の間から飛び出たとんがり屋根の鐘塔が見えた頃、大きな影が道の真ん中に降りてきた。大きな剣を背負ったその人からはびっくりするくらいなんの音も聞こえなくて、なんだか幻みたいだった。
足を止めたルフィとローを置いて、一歩一歩その人に近づく。
終わりの近付いた夢の中みたいに、自分が何をすべきなのか、分かっていた。
「お前たちの目覚めが、有意なものであるように」
よくできたお芝居のように片膝をついたその人の首が、すとんと落ちる。
流れた血は私のつま先を濡らさずに止まって、音を遮るあの青白い花が、手の中で熱を持つ。
夢の中で血だまりだけを残して消えたこの人は、このためだけのものだったんだと、そんな気付きがぼんやりと浮かんで消えていった。
私たちの、夢が終わる。
「ルフィ、ロー、鐘を鳴らして。寂しいあの子に、私たちが歌を届けるから」
古い教会の、重たい両開きの扉を軽々と押し開いた二人に声をかけて、天窓から差し込む光の下へと進む。
ルフィの仲間たちが座る長椅子の間に、足音を響かせて。
「……ゴードンさん」
「始めよう、ウタ」
私がエレジアに来た時からずっと一緒のグランドピアノの前には、穏やかな笑顔のゴードンさんが待っていた。
「この風はどこから来たのと…」
教会いっぱいに響き渡る歌に、エレジアの皆の声が重なる。
ゴードンさんの勧めで歌を教えてた教会の子どもたちと、一緒になって作った歌。遥かな明日に希望を浮かべるこの歌は、皆が大好きな歌だった。
閉ざされた夢を、優しい歌が満たしていく。
声を紡ぐたび、抱えきれないほど重たくなっていたことにすら気付かずにいた心が、枷が落ちたみたいに軽くなるのが分かる。
ありがとう。もう、大丈夫。
目覚めの時が来ても、自分の足で立ち上がれるから。
見えない赤子の声が、かわいらしく笑った。
「…ウタ、君は、暗い夜に生きる定めの私たちにとって、輝ける星だった」
「……うん」
「君がエレジアを訪れたその日から、君の歌は私たちの導であり、よすがだった」
「でも、それは私が皆を…」
「違うんだ、ウタ。この夢を産み出したのは、君を望み、縛り付けていたのは私たちなんだ!暗い秘匿を抱いたままで静かに沈んでいくこの国の、最期の夢を君に願ってしまった…」
すまなかった。
ゴードンさんはそう言って、深く深く頭を下げた。
違うよ、ねえ、聞いて?
「ゴードンさん、聞いて?私、エレジアが大好きだよ!!皆の、ゴードンさんのお陰で私は、世界一の歌手だって胸を張れるようになったんだから!!」
一度も鳴らなかった鐘の音が、澄んだ音色で16を数える。
赤子の声が眠りに落ちるように、ふわりと消えていく。
「ありがとう、ありがとう、ウタ…!!!目覚めたらどうか、赤髪の彼に伝えてくれ。君の継いだ自由は、確かに私たちに届いたと……!!!!」
「うん…うん!!ありがとう、さよならゴードンさん!!あなたはずっと、私のもう一人のお父さんだったよ!!」
「ああ、ウタ!いっておいで、私の希望の子よ!!!」
「いってきます、ゴードンさん!!!」
開けっ放しの扉を抜けて、振り返らずに駆け出した。
息を切らして転びそうになりながら、流れた熱い血に祈るだれかのもとへ走る。
ピエロみたいなメイクに、真っ黒な鴉羽、見えない赤子を抱いたその人のところへ。
血の色みたいな赤い瞳が、静かに私を見下ろしていた。
背の高いその人の、寝息を立てる腕の中にめいっぱい手を伸ばして、薄紅に色づいた花を返す。
それを宝物みたいに胸に抱き込んでお辞儀をした姿は、夢に血を遺して消えていったあの人に、よく似ていると思った。
森をざわめかせる風が止んだ。
こころが凪いで、世界から音が消えていく。
まぶたの裏を震わせる懐かしい声で、私は目覚めた。
「ウタ!!!!」
「おはよう!シャンクス!!」
手配書で見たよりずっと気の抜けた顔のシャンクスは、何か言おうとして何度も何度もつっかえて、涙でぐちゃぐちゃのまま、私を抱きしめた。