約束された英雄が失われた日

約束された英雄が失われた日


 眉が吊り上がる。

 腹の底から湧く怒りがルフィを突き動かした。


 視界には連れていかれようとしている幼馴染……ウタの姿。

 共に海兵となり、今日までずっと隣で生きてくれた少女だ。

 いつもの無邪気な笑みはなく、縋るように自分を見ていた。


 その腕を強引に掴み、引きずるように連れていこうとしている一人の男。

 沸き上がる怒りの元凶は彼だった。


「なにをしてるえ! とっとと立つんだえ! そして毎晩わちしの子守唄を歌うんだえ~」


 そんなことをほざいて男はウタを連れ去ろうとする。

 あまりに無法。決して許されてはならない外道だ。


 だが男にはそれが許されるだけの根拠がある。

 世界で最も気高き血族にして、世界政府を創設した二十人の神の末裔。 

 世界貴族。あるいは天駆ける竜の家紋からこう呼ばれる——【天竜人】と。


 彼らの持つ権力は絶大にして絶対。

 ルフィやウタの上官である大将を、直属の部下として顎で使えるほどに。


 天竜人の言葉は神の決定だ。

 何人たりとも抗ってはならない。

 例え、どれだけの理不尽を課されようとも、抗った先にあるのは約束された破滅。


「……」


 前に出る。

 ウタと男の前に。

 世界貴族とその奴隷となる者の、前に。


「……あぁん?」 


 男はルフィに気が付いた。

 すぐに不快気に顔が歪む。


「その眼……ムカつくえ」


 絶対的権力。抗えぬ破滅。

 そんなものはルフィを止められない。


「……!」


 拳に力が入る。

 また一歩、足を進めた。


 ウタを助ければすべてを失う。

 これまで海兵として築き上げたものを。

 これから掴むはずだった輝かしい未来も。


 それには一切の未練はない。

 ウタの方が大切だ。


『ありがとう! 海兵さん!』


 だが、彼を引き留めようとするものもある。

 富も、名声も、安寧も。

 興味のない彼であるが……この行動がもたらす本当の喪失にも気が付いていた。


『ああっ、夢みたいだ。海賊から街を取り戻せるなんて……っ』


 ルフィには大した正義感はなかった。

 元々、肉があったら人に分け与えるのではなく、自分で肉を食いたい人間なのだ。


 だから海軍将校となり、正義のコートを与えられてからも、彼は自分の正義を見出すことはなかった。


『アンタたちだけなんだ……私たちが縋れるのは』

 

 そんな彼ではあったが、自分たちが世界からどう見られていたかは知っている。

 ルフィが海賊を倒す度、ウタが歌を届ける度、民衆は二人に夢を見てきたのだ。


『僕も、貴方みたいに海兵になれますか? 貴方みたいな皆を守れる英雄に……』


 ある時、海賊を捕まえて街を救ったルフィに、林檎のように頬を赤くした少年はそう言ったことを思い返す。

 輝くその瞳には、ルフィを通して確かに見えていたのだ。

 少年だけではない。ルフィとウタを知る多くの人には見えていた。


『君たちならきっと』

『もう耐えられないんだ』

『お願いだ。もうこんな悲しみを終わらせてくれ』


 最悪の時代の幕引きが。

 そしてその先にある彼らの望む時代も。


『どうか、大海賊時代に終焉をっ!!』


 それが民衆の望み。

 ルフィとウタを通して見た【新時代】。

 二人が民衆に見せてしまった夢の果て。


 ウタだけではなく、ルフィまでもが破滅するということは。

 民衆が望んだ夢が潰えてしまうということだ。

 男に突き立てる拳は、二人の未来だけではなく、民衆の希望も道連れにしてしまう。


 ルフィらしからぬ思考。

 それはきっと、今日まで厳しくも愛にあふれた祖父が、頭を悩ませながらも彼を後継者にしようと目をかけてくれた上官が、彼の中で大切に育ててきた正義の発芽だったのだろう。


 いずれは大海賊時代の幕引きを担う英雄たれ。

 そんな祈りが背中の正義には捧げられている。


「ルフィ大佐! 駄目です!?」

「どうか堪えて……!」

「このままでは准将だけでなく、貴方までもっ」


 部下である海兵たちがルフィを抑えようと動き出した。

 長い付き合いだ。どうやら、彼らには思考が筒抜けだったらしい。

 普段ならばこそばゆいこの関係も、今はただ悲しい。


 彼らは自らの命を惜しんでいるのではない。

 ルフィの未来を、そして人々の希望を案じているのだ。

 そんな彼らにルフィはポンと手を置いた。

 一瞬の間に「ありがとう」と「ごめん」を込めて。


「しま……っ!」

「大佐を止め……!?」


 全てを置き去りにして前へ。

 悔いはある。だが、それでも躊躇はない。

 ウタの笑顔が奪われるのを黙って見過ごす選択肢など、初めから持ち合わせてはいないのだ。


 天秤などいらない。

 モンキー・D・ルフィを構成する全てが肯定した。


 身も、心も、魂も。

 あの日、友達と交わした赤い誓いも。

 だから、だから!


「ふえ……? ヴォゲァア!!!!」


 場の空気が凍り付いた。

 宙を浮かぶ天竜人がゆっくりと地面に落ちていく。

 誰もが理解した。もう、取り返しがつかないと。


 崩れ落ちたウタが涙を流す。

 それは安堵か、それとも後悔か。

 ルフィは静かに流れる涙を拭った。


 二人は過酷な運命の末にどのような結末を辿るのだろうか。

 抗いきれずに絶望の最期を迎えてしまうのか。

 或いは、運命に打ち勝って世界に再び希望を灯すのか。


 未来は誰にも分からない。


「ウタを、泣かすなよ……!」


 ただ、この時点の人々に分かることがある。

 それは約束された新時代の英雄が失墜し……そして、望まれぬ逃亡海兵が誕生してしまったということだ。

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