霧に煙る白
中の人──10年以上前。
──オリュンポス社 特殊施設。
「ふむ…」
茶髪に紺色のメッシュ、少し尖った青目の青い服装の青年…霧雨雄馬はあるメールを見ていた。
(例のコンセンテス候補のニンフからの提案か…。私としても、彼女には色々と見込みがあると踏んでいたが…ちょうどいい。少し仕込みをするか)
メールを確認してから携帯の電源を落とすと、少ししてドアをノックする音がした。
「ん、どうぞ」
「失礼します」
白銀の髪に一房の黒メッシュ、垂れ目気味の青っぽい目に丸眼鏡、成人女性には少し見えにくい低身長な見た目とそれに釣り合わない胸の膨らみ、そして比較的動きやすさ重視のトップスとボトムスに白衣。
雄馬に個人として従っている研究部門所属のニンフ──雨宮椎奈がそっと部屋のドアを閉めつつ入ってくる。
「研究の方はどうだい?少しは進んでいるといいんだが」
「はい、順調です」
「そうか。なら良かった」
相変わらずの無表情で自分に幾つかの研究進捗を報告する椎奈を横目に、テーブルに置いてある水色の石がついたアクセサリーを手に取る。
「霧雨様、それは…」
「ん、今度行う“役割(ロール)”の為の必須アイテムだ。彼奴等、少し面倒なタイプみたいだからねえ」
「…ノアズアークですか」
「あぁ。私としてはタロット含めて納得しているから、なんら問題はないのだけどね。私の能力を求める勢力はそれなりに引く手数多だろうから」
雄馬の能力──ヤドリギを介した洗脳・催眠、操作…そして暗示。
元々生前の職業がある種『人の認識を利用する』ものだった雄馬にとって、この力は限りなく物にしやすかった。
表向きはマジシャンをやめ、別名義で催眠術師としてTVに出ている上、『どうすれば人はそれを信じ込むか』『人の認識や意識はどのラインまで変容させられるか』をある程度熟知しているのもあり、雄馬はそれで人々が自分を持て囃すのをどこかで嘲っていた。
なにより、雄馬自身が他でもなく他人がそういったもので壊れて狂っていく様や、自分にとって都合の良い存在になるのを愉しむソシオパスもしくはサイコパス──俗に言う「人格破綻者」だったのもあってか、独学でフィクションだと思われている事は大抵出来るようになっていた。
それを“ゼウス”に買われてからは幾つかオリュンポス社の『裏』に関わる事へ意図的に加担し、貢献している。
「オリュンポス社もノアズアークも思想としては差異がないと思うのですが…何故わざわざ?」
「おや、珍しく突っ込んだ事を言うね、君は。…決まってるだろう、敵情視察と情報収集だ。スマートブレインとは長らく連携しているから、わざわざ潜り込む必要はない。となれば、潜入すべきは最近になって急速に台頭してきた類似派閥・同業他社だよ」
「しかし、幾ら密偵といっても限度があるのでは…」
「…私のタロットカードとその“力”は、なんだったかな?」
「!」
「全く、研究疲れが取れていないのだか知らないが…直轄の部下なんだから少しはしっかりしたまえよ」
「…霧雨様1人で向かうおつもりですか?」
椎奈の問いに少し考えるような顔をしつつ、アクセサリーを片耳に着ける。
「いや?1人つけていくつもりだ、私だけだと却って疑われる可能性もあるからね」
「私もご一緒しても…?」
「…本気かい?下手をもすれば死のリスクがあるが」
「……ご恩が、ありますから」
「そうかい」
椎奈の言葉を流すようにカフェモカを飲む雄馬を横目に、一通りの報告を終えたのを確認した椎奈は一礼して部屋を出て行った。
椎奈が去った後のドアを少し見てから、雄馬は再び外の景色に目をやる。
「──感謝されることなど、した覚えはないんだがねぇ…」
*
──ノアズアーク 研究施設。
今回、被検体として連れてこられたのはニュースにもなっていたバス炎上事故で亡くなったらしい少女だった。
「……」
眠っている少女に刻印が打ち込まれたのを確認してから、被検体記録を書き込んでいく。
「精が出るねえ」
「霧雨様」
自分にとっての恩人が記録室に入ってきた事に気づき、椅子から立ち上がって一礼する。
「何故此処に?」
「いや、ほんの興味だ」
「…彼女はあくまでノアズアークの被検体です、“蝙蝠”である私達に出来る事は──」
ふと、気づいた。
…いや、気づいてしまった。
普段は人を多少下に見るような目を向けてばかりの自分の主の目が、のらりくらりと嫌疑を笑みで躱す口元が。
──純粋な興味と好奇心、そして、ある種の狂気で染まっているのを。
「っ?!?」
初めて見た表情だった。
言うなら、獲物を見つけた肉食動物のような。
例えるならば、吸血鬼が同胞としたい娘に意識として牙を突き立てるような。
そんな、自分でも初めて悪寒を覚える雰囲気だった。
「…なるほど…なるほど…。…っ、ふふ…」
「…霧雨様」
「あぁ、君は“今は”気にしなくてもいい。──何れ分かる」
「…?」
雄馬はそう言うと手を軽く振りながら記録室から出て行った。
「霧雨様、一体どうなさって…?」
──その被検体が、オリュンポス社が既に目星をつけていた存在だと知ったのは少し経ってからだった。
*
──ノアズアーク内の特殊邸宅。
「なるほど、例のコンセンテス候補が言っていたのは彼女だったか…」
因果なものだ。
友人関係にある2人が異なる要因でオルフェノクになるとは。
まして、どちらも幻獣系。
一説だとオルフェノクとしての姿は本人の『戦う姿』らしいが…そこは本人達の知識や無意識下に影響された節もあるのだろうと推察する。
「可哀想にねえ…“蘇りさえしなければ”楽に生きれたのに…」
嘘っぱちだ、本心は笑いが止まらなくてしょうがない。
こんな面白い“舞台”があるか?
ここまで特異な因果があるか?
口元を手で隠しながら、思わず愉悦の笑みが出る。
それに“ゼウス”の見立てが本当なら──
「ぁあ…あぁ……っ、ははは」
なら、自分が彼女を育てよう。
悪徳を教えよう、芽生えさせよう。
壊す楽しさを、狂わす愉しさを学ばせよう。
“彼女が苦しむ世界(こんなくだらない世界)”を、爛れた感情でも暮らせるように。
彼女が苦しむ必要を減らす為に。
それに相応しい存在にする為に。
「目醒めにはまだ時間がかかる…。ゆっくりと、“芽”を育ててあげよう」
*
──沙紀がオリュンポスの手に落ちた後。
──沙紀の部屋。
「──……」
雄馬は幾つか暗示を仕込んでいた。
多少風見鶏(穏健派)と遭遇した時の為の物も混じってはいるが、多少“悪徳の芽生え”を無自覚にするものを。
そして、彼女を少しでも守るものを。
「〈私の人形(マイン・ドール)〉…よく聞くんだ」
「君はこれからどんな事があっても、無意識のうちに“許す”ようになる」
「君は何も悪くない。君は相応に幸福でもあるべきだ」
「そして、“悪を愉しめ”。こんな世の中だ、大罪に数えられる悪徳だって多少は赦される」
「例え私と似た存在が現れても…君はその命令を聞く。拒否は出来ない」
「君には驕った態度や行動を取る権利がある、だって“女王”なんだから」
「悪を愉しめ、溺れろ。悪辣になれ、君を縛るものは何もない」
「嫌われても、困難に遭っても──悪虐であれ、悪辣であれ、残忍であれ。でないと君は使い潰される」
「心のままに動け。それが君にとっての最善だ」
その言葉は“呪い(枷)”か、“祝福(ギフト)”か。
それは本人にさえ、分からないままだった。
「──愛して、いるとも。“騰蛇の女王様(マイン・ドール サキ)”」
額にキスをすると、雄馬は沙紀の頭を少し優しく撫でてから部屋を出る。
──その口元に無自覚に穏やかな笑みを浮かべていた事を、雄馬自身も気づいていなかった。
*
──沙紀と春がオリュンポス社から離反して、少し経った頃。
自分の『罪の報い(義肢)』を見ながら、小さく溜め息をつく。
結局、ノアズアークにせよオリュンポスにせよ、雄馬と共にいた時に想いを告げる事は叶わなかった。
「椎奈さーん、溜め息してると幸せ逃げるど〜?」
「…甘夜様」
自分にさえ伝えられていなかった、かつての“隠者”にして“アフロディテー”の春がお菓子を持ってきながら、近くに座る。
「食べる?」
「いただきます」
慣れない義肢を動かしながら、お菓子を摘む。
よくよく考えれば、こうして普通に同性と一緒に菓子を食べるのもいつぶりだったか。
「で、なんで溜め息ついてたの?」
「…少し昔の話です、お気になさらず」
「そう言わずにさ〜椎奈さん、昔ほど動けないんだから話し相手いないとしんどくない?」
一理ある、といえばあった。
「それはそうかもしれませんが」
「せっかくだしお悩み相談的な感じでさ、ほら…どう?」
「…では、お言葉に甘えて」
そして、自分はヘルメス──霧雨雄馬に恋慕を抱いていた事、それを告げられずに雄馬は先に倒され、今のフレデリカ…“女王”の糧となった事を手短に話した。
「……ですが、私は今はこうして此方に属する身。今更、そんな悔恨を抱いている暇なんて──」
「やってもないのに、なんで勝手に自分の中で決めつけるのさ?」
「!そ、それは…霧雨様は元より沙紀様に感情を向けておりましたし……」
「やらない後悔より、やって後悔した方がいいよ〜。…その人が復活するかはともかくとしてね」
「楽観的ですね」
「酷くない?!私なりのアドバイスってやつだよ」
「アドバイスですか…」
「それにオリュンポスってスマブレと連携してんでしょ?ならアンドロイドとして復活する可能性もあるじゃん」
それに関してはあって欲しいような、あって欲しくないような。
「椎奈さん、複雑そうな顔だね〜」
「貴女がそんな可能性を提示するからです」
「というか意外だわ。てっきり椎奈さんって研究一筋〜って感じのイメージだったから」
「…これでも貴女よりは少し年上ですが」
「なんかごめん」
ふと目をやると沙紀と和真が遊んでいるのが見えた。
…分かりそうで、分からない。
何故、雄馬がわざわざ偽造工作をしてまで彼女の家庭を守ったのか。
何故、あれほどまでに沙紀に執心していたのか。
てっきり“女王”の覚醒が第一だと思っていたのに、命令を思い出すとますます混乱する。
「……」
「椎奈さーん?」
「──やらない後悔より、やってから後悔…ですか」
「?」
確率的に非科学的。
ある種感情的で、非論理的。
…それでも、というのなら。
「……この想いを伝えてもいいのでしょうか」
「いいんじゃない?椎奈さんがそう決めたんなら」
お菓子はいつの間にか1つになっていたが、いつの間にか自分の手が先にそれを取っていた。
「…あっ」
「いいよいいよ、気にしないで〜また買ってくればいいし。…なんか決まった事もなくはないっぽいし、私は和真君と遊んでくるわ〜」
春はそう言うと立ち上がって和真の元へと向かっていった。
「…私の、選択……ですか」
“自分で取った”菓子を頬張りつつ、少し考える。
普段と同じレパートリーの物の筈なのに、普段よりも少し甘さが強い気がした。