零と壱の狭間に
「まさか狭間に突っ込むとは思ってなくて……」「まぁ、そう思うのが当然だよなぁ」イズナがそのことを決定するのに時間は掛からなかった。特に罪悪感は抱かなかった。犯罪ではないので。裁判になったとしても、イズナは勝つ自信があった。結局裁判になるどころか、戻ってきたイズナを全員が心配し気遣った。……扉間も含めて。扉間はイズナと一緒に潜った男の婚約者だった。正確には、今時珍しく家同士が決めた婚約で、お互い恋愛の末に婚約したわけではない。そのことを男は周囲に自慢していた。俺はあの千手扉間を妻に出来るんだぞ、と。扉間の方は訊かれたら答える程度で、特に周囲に男を意識したことを言ったことがない。むしろ、あまり関わり合いになりたくない雰囲気を出していた。
そのため、扉間が男の死を悼んで沈んだ様子を見せたのはイズナとしては予想外だった。表立って喜ぶとは思っていなかったが、最低限婚約者としての義務を果たしたら普通に業務に戻るだろうと思っていたのだ。予想外ではあったが、イズナがしようと思っていたことに支障は一つもなかった。むしろ、追い風にすらなっていた。
イズナは扉間が好きであった。周囲に自慢するだけで大した能力も無ければ、扉間を大事にする様子も見せない男よりも能力があり愛している自信があった。だが、世間一般的に婚約者の居る人間に迫るのは評判が良くないことを知っていたイズナは良き友達の地位を維持し続けた。虎視眈々と男を始末する機会を窺いながら。そして、先月イズナはその機会を得た。意識全部をダイブさせて廃棄されたシステムのブラックボックスから情報を取り出すという任務。本当は男と扉間が挑む予定の任務だったのを、イズナが代わりを申し出たのだ。婚約者二人が危険なところに行くのは不味いでしょ、と言って。
男とイズナは無事にシステム内に入り込んだ。スパゲッティコードだと事前に聞いていたものの、予想以上の迷宮に二人ははぐれた。ことになっている。本当はイズナの能力なら男を探せたのだが、無視してブラックボックスを優先したのだ。ブラックボックスを見つけ出したイズナは、男の悲鳴を耳にした。だが、ブラックボックスから必要な情報を回収していたイズナは無視を決め込んだ。男の悲鳴が大きくなり、聞こえなかったという言い訳が効かなくなった頃、イズナはデータの処理を終え帰還準備に入った。
一応、男を捜索したという事実を残すため、イズナは見つけたブラックボックスの周辺を泳いだ。全く別の場所に居ると知っていたが。帰還用のアンカーをイズナが使うより先に緊急脱出システムが作動した。それは男が死んだことを示していた。戻ってきたイズナは、扉間に開口一番謝罪をした。扉間はそれに首を振り、無事でよかったと沈痛な声で答えた。男の意識が戻ってくることはなかった。
「イズナ、本当に良いのか?」
「良いよ。オレが持っていても仕方ないし」
「でも、貴様が危険な任務をした報酬だぞ?」
「自分一人だけ生き残った証のお金。持っておきたい?」
そう言われて扉間はイズナから渡されたネックレスを受け取った。イズナとしては指輪にしたかったのだが、まだ傷心中の扉間に渡すのは悪手と判断して、小粒のルビーが付いたネックレスにすることにしたのだ。危険手当と、余剰に貰った報酬の分で購入できそうなものを選んで。今付けてみて、とイズナが促す。扉間がおずおずとネックレスを付ける。普段から着ている黒のタートルネックに赤と銀が入った。
「似合っているか?」
「当然でしょ。オレが選んだから」
「なんだか落ち着かない」
「そう?ずっと付けてたみたいに馴染んでいるけど」
「その、あまりこういうのを付けるなと言われていたから」
イズナが思わず舌打ちをしそうになったが、グッと堪えてなら今日から慣れたら良いよと明るく言った。だが、と言った扉間に、それともずっと居ない人のお願いに合わせて生きるつもり?と意地悪と分かってイズナが言う。扉間が、少し沈んだ顔をした後、そんなことは不可能だな、とぎこちなく笑った。
「ごめん、結果的に殺しちゃったオレが言うことじゃなかったね」
「イズナの所為じゃない」
「そう?本当は恨んでたりしない?オレのこと」
これは本心からの質問だった。知らなかったとはいえ、それなりに情があった男のことを殺してしまったことはイズナの心に引っかかっていた。イズナの質問に扉間が考えるような顔をする。暫くして、纏まったのか扉間がイズナの方を向いた。
「オレは、イズナだけでも戻ってきてホッとしている。それに」
「それに?」
「あいつが正直足手まといなことは知っていたから、死んだことにも、疑問はない」
「そっか。オレもホッとした。扉間にそう言ってもらえて」
イズナが扉間の白い髪を触る。伸び始めた髪をイズナは似合っていると褒め続けていた。男が扉間の髪が伸びるとすぐに切るように言っていたと知っていてイズナはそうしていた。優秀な扉間を婚約者という立場を使って従わせることに優越感を抱いていたらしい男。そんな勿体ないことをするなんてとしかイズナは思わないが、身の丈に合わない妻を努力なしに得れるというのは劇薬なのかもしれない。イズナなりに精一杯オブラートに包んだ言い方で、明け透けに言うなら、男は馬鹿で価値の解っていない身の程知らずだが。
「い、イズナ、その、もう」
「んー?何か言った?」
「誰かに見られたら……」
「誰かに見られたら?お前は嫌じゃないんだ」
そう指摘されて扉間が頬を赤くする。男は扉間がこんなに可愛いことを知らずに死んだと思うとイズナは愉快で堪らなかった。その愉快な気持ちのままイズナは扉間の唇にキスをした。な、と声にならない声をあげる扉間にイズナが悪戯っぽく笑って、今のキスの意味、分からないとは言わせないから、と囁く。
「オレで良いのか」
「オレはお前が良いよ。扉間」
先程から微妙に触れあっていた指先を絡めイズナが再びキスをする。逃げようとした扉間にイズナがそんなに嫌、と訊く。それに扉間が、男ともしたことがないから貴様が初めてなんだ、と耳を赤くしながら言った。イズナは扉間を抱き締めながら、男を合法的に殺す機会に恵まれたことを天に感謝していた。