雨音に問う

雨音に問う


やはり、走る。

どうやら今宵は走るが吉のようだ。

最も、今逃げてる相手は先程までの無頼漢ではなく、自分より年下の少年であるのだが。



髪も吐息も雨で濡れる。

最早雨は凍っておらず、世界は先程の剣戟の凄まじさを忘れ去ったように元の雨音を鳴らしていた。


自分の足はそこそこである、という自負がある。学校の同級生…それこそ陸上部以外を除く殆どの奴よりも50m走のタイムが短かった、という実績もある。

…大前提として、相手が自分と同じ、普通の人間なら、という条件が頭につくが。

「……っ」

後ろから追ってくる足音はどんどんと近くなっているように感じる。

それだけじゃない。だんだんと足音も多くなっていく。

多人数の足音ではなく、一つの足が刻む音……まるで、追ってくる奴自体が一つの個体のように。

その違和感に気付いた時にはもう遅かった。

「……え?」

目の前に迫るのは壁のような水溜り。そして、それを踏んだ足から伝わる嫌な感触。

"しまった"と気付いた時にはもう遅い。大きく体勢を崩し、水溜りに倒れ込…………む寸前で腕を掴まれ、落下は止まる。

「大丈夫?おにーさん」

…その声には聞き覚えがある。

…その温度には記憶がある。

全身の鳥肌が立ち上がる。

ドクンと心臓が叫び声をあげる。


するりと声の主が前に立ち、顔があう。

その人懐っこい笑みと、安心感すら覚える温かな声色を自分は知っている。

雨で冷える体と対照的に、凪の心は恐怖と混乱で熱を持っていく。

無理矢理腕を振り解いて、走り出そうにも、その腕を掴む力がそれを許さない。

「おにーさん、足速いね。でも、俺から逃げ切るのは無理かな」


「────っ!」

恐怖で声が出ない。

ただ、雨と風の中で、少年の笑顔だけがやけに鮮明に映る。

「そんなに怖がらなくても良いよ?俺はおにーさんに危害を加える気はないから」

そう語りながら振りかぶる手には、雨水に打たれてもなお爛々と光を発する炎。

「だから、大人しくしててね?おにーさん」

轟と唸りながら迫る炎は、自分を飲み込もうと近づいて───────

「……ガウルッ!』

一つの毛皮を纏う影が、その間に割り込んだ。

「うわあッ!?」

驚嘆と共に手を引く少年。

影は炎をかき消して、唸る。

『──────グルルル』

目が慣れれば、黒い影は黒い獣へと変じていた。

「犬…?」

しかしその体躯は通常の犬と比べればあまりに巨大で、2メートル近くあるように感じる。まるで石像のように静かな佇まいながらも……その瞳には激しい怒りと敵意が燃えていた。

「……使い魔…いや…サーヴァント…?」

少年は獣を見据えながら、呟く。

「ふぅん…日本の伝承は知らないけど犬と剣士がコンビのサーヴァントなんて面白いね」

ニヤリと笑いながら、しかし薄ら汗を流しつつ少年は言う。

『グルルル……ッ』

獣が姿勢を低くし、その牙から唸りを零す。

「参ったなぁ…流石にサーヴァントには敵わないからね……」

少年が喋り終わるより先に、獣は一直線に飛び掛かる。

「………俺は、ね」

少年の手が光る。掌から発される炎によるものではなく、手の甲から発される痣…自分にも存在する、令呪とやらによるもの。

「来いっ、セイバー!」

数瞬さえあれば、その爪牙は少年へと届いていた筈であった。

『──────────ッ!!』

獣は何かを察知したかのように勢いを殺し、背後に跳び引く。

一筋の剣閃により獣の毛先が散った。

「良い直感だな、"ライダー"」

先程まで獣がいた場所に、騎士が降り立つ。雨水が月光を反射し、黒い鎧は白く煌めいていた。

「セイバー、犬のほうのライダー抑えといて。女の子のほうのライダーはまだ来ないだろうから、さ…」

勝ち誇った顔の少年が、自分へと振り返る。

「さぁ……おにーさん、今度こそ大人しくしてくれる?」

「────」

自分は、何も言えないまま。ただ、腰を抜かしたままに、彼の瞳を見つめていた。

…尋ねるような瞳。

疑ってるような、瞳。

そして、答えを待つような、瞳。

肝心の問を提示してないのに、答えを促してるような、理不尽な瞳。

こちらの返答を待たず、少年は掌に炎を灯す。

雨水の一切を介する事なく、炎は揺らめく。

「…じゃあね、おにーさん」

熱が近づく。その熱の塊は頬を伝う汗よりも遥かに熱いだろうに、自分には何故かそう感じられなかった。

…死ぬだろう、と解った。

避けようのない結末、変わることのない結果。

この数瞬に何を行うか。一矢報いるか、命を乞うか。


その選択すらせずに、ただ目を瞑る事しかできない自分が、心底情けなかった。

「─────っ」 そして、炎は迫る。

…熱くない。焼け爛れるような感触も、酸素を燃やされることも無く。

恐る恐る目を開ける。 炎は存在せず、少し申し訳ないような、ガッカリしたような顔の少年がいた。

「……そっか」

こちらの困惑を読み取ったかのように、少年は静かに口を開く。

「こんな状況で目を瞑ってる平和ボケした人は、違うよね」

その表情に、先程までの恐ろしさはない。あるのはただ、何かを懐かしむような安らかな笑みだけ。

「ごめんねおにーさん、人違いしちゃってさ」

命を狙った事に対する謝罪としては余りにも軽く、だが憤慨する気も起きないほど気が抜けて、なんとか「はぁ…」と声ですらない息を漏らす。

「セイバー、戦うの止めて。引き上げよう」

未だ爪牙と剣を重ねていたセイバーは剣に噛みつく獣を振り払い、少年の隣に立つ。

「じゃあね、おにーさん。せいぜい死なないように頑張っ…」

そこまで言いかけて、少年は気づく。 雨粒が、固まっていることに。白く、冷たく、美しく─────

「セイっ…」

少年の言葉よりも速く、セイバーが背後からの一閃を受け止める。

「人のマスターを謀って、殺そうとして、挙げ句人違いだからサヨウナラだなんて…っ」

雪のように端正な顔に、怒りが滲む。

「そんな勝手な言い分が通るとでもっ!」

ライダーの渾身の一撃が、セイバーを後押す。

「ガルッ!!!」

それと呼応して、獣も少年へと走り出す。 月明かりに照らされた黒い軌跡は、最短にして最速を以て少年の首へと描かれて──────


「止まっ…止まってくれ、ライダー!」


痣が光る。それに呼応するかのように、獣と剣士は静止する。


「ま…マスター!?なんでっ…!」


ライダーの疑問に応えず、ただ少年を見つめる。

「…本当にお人好しだね、おにーさん」

少年は、呆れたような、嬉しそうな顔をして踵を返す。

その表情が、幼く見えて。

その背中が、小さく見えて。

雨に打たれる体が、弱く見えて。

震える足を無理矢理に立たせて……少年の背を追う。

「待っ─────待て、待って!」

雨の中、次第に小さくなる背中に必死で叫ぶ。

「……まだ何か用?」

ゆっくりと振り返る少年の顔が、少し不安げに見えた。

「あ……」

なんて声を掛けるべきだろうか、と脳を廻らし言葉を探す。

先程命を奪おうとした相手に"待ってくれ"などとのたまう自分への疑問もそっちのけで、ただ懸命に発する言葉を考える。

「あの、さ」

一息、ついて。言葉を繋げる。

「雨、降ってるしさ…寒い…だろうから…」

なにを言ってるのか、そんな疑問が浮かぶことすらなく。

「家に…来ない?」

そんな言葉を、口にした気がする。

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