雨の街とラーメン屋

雨の街とラーメン屋


 ラーメン職人の朝は早い——。雨の街カナイ区にて、かつてユーマ=ココヘッドと呼ばれていた青年は開店のための仕込みを始めた。

 彼はかつて探偵見習いとして世界探偵機構に所属していた。ある時、書物を手にしたナンバー1の姿を目撃し、彼がなんの書物を手にしていたのか、何をしようとしていたのかを自らの力で調べた。当然、世界最高の頭脳を持つナンバー1に途中でバレてしまったが、ナンバー1は見習いの能力を認め、ある一つの頼み事をしたのだ。

 それは、名を、経歴を……まさに全てをナンバー1に譲渡して欲しいという頼みだった。

 正気の沙汰ではない。言ってしまえばそれは、彼のこれまでの人生を、これからの未来をも明け渡せと言っているようなものだった。ナンバー1も頷くとは思っていなかったかもしれない。

 それでも、探偵見習いは頷いた。

 ……ナンバー1の瞳に、自分と同じ「誰かを笑顔にしたい」と願う光を見たからだ。

 優しい光を宿すナンバー1に、過去も未来も託して良いと彼は思ったのだ。

 かくして、探偵見習いは「ユーマ=ココヘッド」を託し、一人の料理人としての夢を叶えるために心機一転した——のだが。

 やはり、どうしても気になった。ナンバー1がユーマ=ココヘッドの名を継いで紡ぐ物語の結末が。

 彼はこれを最後の探偵行為と心に決め、カナイ区行きのアマテラス急行に乗り込んだのであった——。

 

 ——便宜上、かつてのユーマ=ココヘッドのことを、ここでは店主と呼ばせていただく。

 カナイ区の味の流行は他の土地とは大幅に違う……と店主は常から考えていた。普通に美味しい程度の料理ではカナイ区の人々は満足しない。何か特別な何かがいる。けれどその特別な何かとは何だろうか。それがわからない。

 カナイ区の老若男女を虜にしている肉まんを店主は研究のために口にしたが、美味しいとはとても言えなかった。肉はミンチにされているにもかかわらず、筋が残っていて硬い。筋肉の部分を使っているのだろうか、と考えている。その上、香辛料の匂いや味がくどく、肉の風味を判別することはほぼ不可能だった。

 自分は理解できないが、これがカナイ区の人々を魅了しているのだからと一度味をラーメンに落とし込んでみたが、評判はあまりよくなかった。

 現在は初心に戻ってシンプルな醤油ラーメンを提供している。美味しいと評判にはなっているが、やはり肉まんの人気が凄まじく店は静かだ。

 ……店主がカナイ区に足を踏み入れまず初めに思ったことは人々の表情が総じて暗い、という点だった。悪人も善人も問わず、過去を回顧し未来に怯えている。いうまでもなくアマテラス社と保安部の圧政によるものだ。店主はそんな住人の表情を見て自らの料理の腕で何とかしたいとラーメン屋を構えたのだが、目標までの道のりは遠かった。

「よ、大将。やってる?」

「いらっしゃいませ!」

 十時三十分。まだ昼食には早い時間に、常連の客が訪れる。

 レインコードのフードを深く被った男性が暖簾をくぐる。普段彼が座っている一番奥の席に着いてフードを取った。ボサボサの青い髪とサングラスを掛けた優しそうな瞳が印象的な男性だ。彼はいつも人が少ない、というか居ない時間にふらりと訪れてくれる。客足が少ないラーメン屋にとってありがたい存在だった。

「いつもありがとうございます。今日もお仕事だったんですか?」

「そうそう。昼夜逆転生活ですよ、全く」

 お冷を飲みながら男性はやれやれと首を振る。

「朝食なんだか夕食なんだか……ま、今のカナイ区に昼も夜もないからどっちでもいいか」

 ヤケクソのように両手を広げて荒んだ笑みを浮かべる。

 胸を痛めながら彼の表情を見つめる。手は止めない。麺の湯切りを終え丼に注いでおいたスープと馴染ませ整える。チャーシューと煮卵、そして海苔を乗せればラーメンの完成だ。

「おー、これこれ。いただきます」

 男は本当に嬉しそうに割り箸を割って麺をすする。浮かんでいるのは満面の笑みだ。彼はいつもやつれて草臥れた様子で店に来るが、ラーメンを食べている時……いや、正確には店主と会話をしている時は本当に楽しそうな笑顔を浮べる。

 店主も、ナンバーワンと同じように人々の笑顔を愛していた。だから、少しでも彼の笑顔の助けになれたのかもしれないと感じ、逆に救われたような気持ちになっていた。

「喜んでもらえて良かったです」

「……大将は本当に、良い人だね。ここじゃなくてもっと別のところで店を開けばいいのに」

 男は遠くを見るような仕草で店主の瞳を見た。

「……鎖国状態とはいえ、アマテラス社との商売の為に、外部の人間がたまーに訪れる。ま、ほとんどがすぐに帰っちゃうけど……大将みたいにこの街のヤツらを哀れんで残ってくれる人もいるんだなぁ」

 店主は男が語った話にこくりと頷いた。まさかバカ正直に探偵としての能力を使って密入国をしたとは言えない。ありがたく男が勘違いしてくれたので、その話に乗っかることにした。

「カナイ区のことは噂には聞いていたのですが、まさかこんなことになっているとは思ってもみませんでした」

「だろうな。カナイ区の内情は徹底的に秘匿されているみたいだし。CEOが代わったことも外の人間は知らないんじゃない? 新しいCEOはあんまり外に出てないみたいだからなぁ」

「保安部の人と敵対してる……って噂は聞きましたけど、そのせいでしょうか?」

 店主は声を潜めた。男はぱちくりと瞳を瞬かせる。

 辞めたとはいえ、かつて探偵を志していた人間の性だろうか。店主は男への聞き込みを自然と——ほとんど無自覚に——始めていた。

「さぁ、オレにはお偉いさんの考えなんてなんとも」

「……保安部の人達は、どうしてこんなことをしてるんでしょうか? この間も、保安部の人が治安維持とか言って人を連行するのを見ましたが……」

 丁度、男が常連客として訪れ始めた頃だろうか。店主が店を構えている一角を保安部が積極的に見回るようになっていた。それも異能を持つと呼ばれる幹部——保安部の暴力装置であるハララ=ナイトメアと時を操るクロックフォード家の令嬢フブキ=クロックフォード直々にだ。

 おかげで人々は外出に萎縮しており、この周辺は賑やかなカマサキ区にしては静かだった。

「……どうしてこんなことする羽目になってるんだろうな。どいつもこいつも」

 男はお冷を飲んで苦々しい笑みを浮かべた。

「あ、すみません。せっかく食べてもらっているのに、暗い話を……」

「いやいや、気にしないで。むしろ……オレが話したいのかもしれない」

 男は最後に残しておいたのだろうか、チャーシューを食べ終わると箸を置いた。

「——昔はさ、この街もこんなんじゃなかったんだぜ? 空は青くて平和だった。まぁ、犯罪が絶対に無いとか悪人がいないとかそんなことは無かったけどさ。けど……今よりずっといい街だったんだ」

 男は優しい笑みを浮かべて店主を見つめる。

「大将にも、三年前のカナイ区に来て欲しかったよ。……オレはカナイ区生まれカナイ区育ちでさ、嫌な思い出も大切な思い出も、全部この街にあった……」

 男の表情に浮かぶものは、回顧と言うにはあまりにも痛切だった。死んでしまった存在を悼むような、狂おしいほどの切実さがそこにはあった。

「何事も無く、平穏に暮らしていければそれで良かったんだけどな……。オレたちはどこで間違えたんだろうなぁ……」

 ——店主には何も言えなかった。同意も否定も。それをするにはまだこの街のことを何も知らなかった。

 黙り込んでしまった店主に気を使ってくれたのか、男は「聞いてくれてありがとな、大将」と明るく言って席を立った。レジにて千シエンを渡される。

「湿っぽい話聞かせたお詫び。お釣りはいいよ」

「いや、そういう訳にも……」

「まぁまぁ、オレ丁度ボーナス出たんだよ。オレの顔を立てると思ってさ?」

 男はお釣りを渡そうとする店主をひらりと躱し、深くフードを被って店を出た。

 普段より雨足が強く、街もどこか薄暗い、そんな日だった。

 

 また別の日。

 店主は今日も今日とてラーメンの改良に勤めていた。肉まんの人気の秘訣は味ではなく肉なのか? と思い、様々な肉をスープに使ったラーメンを出してみたのだが、これがなかなかに好評で、青い髪の男以外にもじわじわと常連客が増えてきていた。

 新たに開発したラーメンを食べた客いわく、なんだか元気が出る、との事だ。実際に店を出る時の客の表情は一様に笑顔で、店主は胸が温まる思いで彼らを見送っていた。

 時刻は十一時。まだ昼食時には早いが、そろそろ客足が増えてくる頃だ。保安部幹部がうろついているにも関わらずわざわざ足を運んでくれる人達に、せめて美味しいラーメンを提供しなければと兜の帯を占める気持ちで店主は厨房に立つ。と、客が店に訪れたようだ。

「いらっしゃいませ!」

「お邪魔いたします! まぁ、ハララさん見てください! 厨房と席がそのまま繋がってるみたいで面白いですね!」

「……」

 なんと、訪れた客は保安部の幹部であるハララ=ナイトメアとフブキ=クロックフォードだった。

 なんでこの店に? まさか、密入国がバレた……? と頭を回転させるが、二人は自然な様子でカウンター席に座る。丁度常連客の青い髪の男がいつも座っている、奥まった場所の席だ。

「えぇと、メニューはこちらに」

 連行する気は無さそうだった。ならば、一人のラーメン屋として二人をもてなさなくては。

 フブキは楽しげにパラパラとメニューをめくる。ハララはそれを一瞥して「僕はチャーハンでいい」と呟いた。

「せっかく来たんです、わたくしこの一番人気にいたします! このラーメンが一着になったら歌って踊ってくださるんですよね?」

「……何の話だ?」

「あら? ご存じありませんか? おウマさんです!」

「馬は歌って踊らないと思うが……」

 ほのぼのと会話を行う二人の注文を聞くと店主は素早く調理に取り掛かった。

 チャーハンとラーメンを出し、「ごゆっくり」と声をかける。ハララは一瞬警戒の色を浮かべてレンゲを取った。フブキは「美味しそうです」と瞳を輝かせながら割り箸を割る。

 厨房の奥の方で仕込みを行いつつ、二人の様子を見ながら会話に耳をそば立てていた。

 失礼を承知で言わせてもらうと、ハララもフブキも場末のラーメン屋にわざわざ足を運ぶような人間には見えない。ハララはレンゲでチャーハンを掬うその様子があまりにも似合っていなかったし、名家の令嬢であるフブキもそれは同様だった。いや、フブキは一周回って似合っているのだろうか。麺をすすれずに上品に食べる姿は幼い子供のようで微笑ましい。

 そんな二人がわざわざラーメン屋に訪れるだなんて、何か特別な思い出でもあるのだろうか。

 チャーハンを食べ始めたハララがホッとした様子で食事を続ける。フブキも嬉しそうに、けれど上品な仕草のまま、ラーメンを味わっていた。

「! ハララさん! このラーメン、すごく美味しいですよ! 一口いかがですか?」

 フブキはハララに尋ねているようで、一口食べてもらうというのは決定事項と定めているようだ。「スープだけでも」とレンゲを差し出すフブキにハララは小さく頷いてスープを掬って一口含んだ。

「……美味いな」

「美味しいですよね! 不思議と元気が湧いてきます!」

「チャーハンも美味いな。……以前はとんでもない劇物を食べさせられたから余計美味しく感じるのかもしれないが……」

 ハララがその時のことを思い出したのか、端正な表情が歪む。店主はハラハラとその様子を伺い、フブキは不思議そうに首を傾げる。

「まぁ、それはどこのお店ですか?」

「……昔よく行った、あの店だよ」

 フブキには心当たりがあったのか、優しい表情で頷いた。

「あの店に探偵がずかずかと踏み入ったのも腹が立ったというのに、部長と僕にあんなものを……あれをもう一度食べるぐらいなら残飯を漁った方がまだマシだ……」

 思い出したのか、表情がますます険しくなり顔色が悪くなる。

 なるほど、どうやらハララとフブキには『思い出の店』があったようだが、その店で何があったのか恐ろしくまずい料理を振る舞われたらしい。街の人間に反感を抱かれているとはいえ、ハララからしたら腹立たしいだろうと少し同情する気持ちで話を聞き続ける。

「よくもあそこまで部長と僕をコケにしてくれたものだ……。絶対に許さない……」

 ハララのメガネの奥の瞳が憎悪に輝いた。

「許さないぞユーマ=ココヘッド」

 まさかの名前だった。

 何をしたんですか、ナンバー1!?

 ……この時店主が並の人間であれば何らかのリアクションをしてしまっただろう。しかし彼は見習いとはいえ世界探偵機構に所属していた人間だった。そのため、なんとか動揺を隠し切ることができた。

 しかし、捨てた名前とはいえ自分の名前がハララにとって劇物を作る料理人として覚えられてしまったことには少しの哀しさがある。

「ヴィヴィアさんが仰っていた探偵さんですか? その方が料理を?」

「あぁ。……何らかの毒物だったんじゃないかと今でも思っている」

 部長はどうしてあんなものを平気な顔で食べていたんだ、やはり体の調子が悪いんじゃないかと唸るハララの背をフブキがそっと摩った。

「あのお店は、わたくし達にとって大切な思い出です。ハララさんが怒る気持ち、わかります。わたくしも悲しいです」

 しょんぼりと俯くフブキ。しかしすぐに顔を上げるとハララに微笑んだ。

「またいつか、みなさんで一緒にご飯を食べに行きましょうね。その時はこのお店を紹介しましょう!」

「そう、だな」

 ハララも微かな笑みを返すと、食事に戻った。

 ——しばらくして食事を終えた二人は店を出て行った。

(まさか保安部の幹部が店に来るなんて思わなかったな……)

 普通の客と同じように二人を送り出した店主は厨房でほっと一息をついた。

 仕込みを再開しながら微かに得た情報を脳内でまとめる。店主は保安部部長ヤコウ=フーリオの顔こそ見た事がないが、客の噂話から情報を収集しある程度どのような人物なのか把握していた。

 三年前まではお人好しな人物だった。仲睦まじい夫婦だった。部下に振り回されているのを見た。——今は、見る影もない。

 店主が得た情報を匿名でヘルスマイル探偵事務所に伝えるかとも考えたが、やめた。自分は探偵の舞台から降りた人間だ。それに、自分が手に入れられる程度の情報など、もうとっくにナンバー1は把握しているだろう。

 今の自分は一人のラーメン屋。探偵とはまた違う方法でカナイ区の人々に笑顔をもたらすために努力するだけだ。

 そして、今日も店主は味の研鑽に励むのである。

 

 ——ハララとフブキが店を訪れた翌日。

「や、久しぶり大将」

「いらっしゃいませ!」

 十時三十分。随分久しぶりに男が店を訪れた。

「最近はどう? トラブルとかなかった?」

「いえ、特には」

「——そっか」

 男はいつもの席に座り、深く被ったフードを取る。ボサボサの青い髪と疲れた笑みを浮かべる口元が表れる。

「お仕事お疲れ様です」

「——ありがとう。そう言ってくれる『人』は大将だけだよ」

「そんなことありませんよ。きっとあなたを気遣って心配してくれる方は必ず居ます」

「……そうだと良いんだけどね……」

 男は目を細めた後、照れくさそうに笑って見せた。

「って、オレそんなに疲れた顔してる!? なんか恥ずかしいな。うーん、昔は顔に出ることなかったんだけど、老いって嫌だね」

 誤魔化すようにメニューをパラパラと捲り、「お、新メニュー? これにしようかな」と昨日フブキが頼んだラーメンと同じものを注文した。

「どうぞ」

「ありがとう、いただきます」

 男は割り箸を割ってラーメンを啜る。少し啜ったあとスープをレンゲで掬い、香りを嗅いだ。

「いかがですか? ありがたいことに好評をいただいているんですよ」

「オレが普段食ってるやつより?」

「はい。食べると元気が出ると仰ってくれる方が多くて。肉まんを食べて研究した甲斐がありましたよ」

 男が瞠目し、動きを止める。しかしそれも一瞬のことで、ゆっくりと口を開いた。

「……なぁ、大将。体の具合は平気か? 気分が悪くなったり、吐き気とか無い?」

「? いえ、特には」

「……そっか……」

 それだけ言って、沈黙し食事を再開する。

 店主としては自分よりも男の体調の方が心配だった。笑顔を浮かべて明るく話しかけてくれるものの、顔色はいつも悪く、瞳は昏く輝いている。カナイ区の住人のほとんどは暗い顔をしているが、それにしても男の様子は異様だ。

「……あんまり肉まんばっかり食っちゃダメだよ。体にいいもんじゃないしさ」

「は、はい……」

 店主が頷くと同時に、男が立ち上がる。

「ご馳走様、美味しかったよ。けどオレは醤油ラーメンのが好きかな」

「ありがとうございます」

 フードを深く被り、男がひらりと手を振って店から出ようとすると、出入り口のところで人にぶつかったようで、どん、と言う衝撃音の後、立ち止まった。

「……いってぇな。せっかく人が気分良く食事を終えたのに……」

 吐き捨てるように男が言う。あまりの語気の荒さに店主は何事かと店の外に出る。

 ぶつかった男は黒いフード付きのレインコートを目深に被っており、女性もののバッグを抱えていた。カナイ区の外で作られたブランドものだったはず。

 へたり込んでしまっている黒いフードの男の唇がワナワナと動く。とりあえず助け起こそうと店主は駆け寄ろうとしたが、青い髪の男が片腕を広げたため、叶わなかった。

「あ……あ、あぁ……」

「何? 聞こえないんだけど?」

 フードを取り、ぶつかった相手を見下ろす男を見て、店主は先ほどまで会話をしていた人物と同一人物なのか疑問に感じてしまった。

 一瞬で別人と入れ替わってしまったかのように、纏う雰囲気も、何もかもが変わっていた。

 呆然と様子を見守ることしかできなかったところに、二人分の足音が聞こえてきた。

「! 部長、どうしてこんなところに」

「捕まえてくださったんですか?」

 ハララとフブキだ。二人とも驚いた表情で青い髪の男を見上げている。

「よ。二人とも。コイツは?」

「ひったくりだ。逃げられてしまってな」

「『ハララ』の足から逃げるなんてすごいじゃん」

 カナイ区で恐れられているハララとフブキに平気で軽口を叩く男。

 まさか、彼が。彼こそが。

「や、ヤコウ=フーリオ?」

 思わずその名前が口をついて出た。ヤコウは今までと同じ優しい笑みを浮かべて店主に振り返った。

「や、大将ごめんね、驚かせちゃって」

「い、いえ……その……」

「ラーメンほんと美味しかったよ。……きっとこれから繁盛する」

「……部長のことをカナイ区に住んでいると言うのに知らなかったのか?」

 すっとハララの瞳が細められるが、ヤコウが「こらこら、そう睨むな」と彼/彼女を宥める。

「前に外部の人間が来たろ? 大将はその時に来て、カナイ区を気に入ってくれたみたいなんだ。んで、みんなの笑顔のためにラーメン屋を開いてくれたってわけよ。最近来たばっかだからオレの顔知らなかったんだろ? な、大将」

「は、はい……」

「いやぁ、良い人だよねぇ。こういう人こそ大切にしなきゃだな」

 うんうんと頷くヤコウ。ハララは「……わかった」と頷いた。

「そうだったのですね! 大将さん、カナイ区に来てくださってありがとうございます! もしも何か困ったことがあったら、わたくしたちにお伝えくださいね、力になります!

 ……あ、申し遅れました! わたくし、フブキ=クロックフォードと申します。こちらはわたくしの同僚のハララさんです」

 フブキが満面の笑みを浮かべて言う。それに頷きながらも店主は思考を止めない。

 ——なぜ、ヤコウは店主を庇ったのだろうか。

 店主の偽りの経歴はそもそもヤコウが口に出したものだ。ヤコウが言い出さなければ店主はそれに乗っかることもなかった。

 まるで店主にカバーストーリーを教えてくれるかのようなヤコウの意図がつかめない。カナイ区の保安部部長としては密入国した外部の人間など、逮捕して当然では——?

 店主が頭の中で必死に推理をしている姿を、衝撃のあまり固まってしまったのだと勘違いしているのかヤコウとフブキは店主に声をかけず、ハララが腰を抜かしたひったくり犯を縛り上げ確保する様子を見守っていた。

 ハララがひったくり犯の腕を掴み立たせると、ヤコウは二人に声をかける。

「さーて。じゃ、そろそろ帰るか」

「あぁ」

「はい!」

 頷く二人。

 最後にヤコウはもう一度店主に向き直った。

「……さようなら、大将。身体には気をつけて」

 ヤコウが向けた微笑みは、人の良さを滲ませる、優しさに満ちた穏やかな物だった。

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ヤコウ=フーリオは雨の中をハララとフブキを従え歩きながら、胸を撫で下ろしていた。

 ——ユーマ=ココヘッドがカナイ区にやってきたのと同日にもう一人密入国をした人物がいるとの報告を受けた。

 下手にこの話を広め幹部が要らぬ探りを入れれば厄介だとヤコウは情報を止め、隠蔽し、ホムンクルス共から密入国者を守るために独自で動いていた。

 秘密裏に派遣された超探偵ならばヘルスマイル探偵事務所に匿名でのタレコミを行い保護させる。それ以外——例えば勇気と蛮勇を履き違えた記者などであれば捕らえ、ホムンクルスの巣窟から逃す。

 果たして、密入国者はラーメン屋を目指す青年であった。どうしてよりによってこんな街でラーメン屋を開くんだ、わざわざ命の危険を払ってまで……。いや確かに立派な志を持ってるとは思うけれど、残念ながらカナイ区の住民は皆笑顔になるべき人間などではないんだ……と頭を抱えながらどうにか素性を隠して接触した。

 しばらく店主と話していると、どことなく彼からこちらを探るような気配を感じた。保安部の部長、探偵達の敵対者として対峙しているからだろうか、店主に探偵の仕草を見出すことができたのだ。

 ……もしかすると。彼はヘルスマイル探偵事務所にさえ伏せられた、世界探偵機構の切り札なのかもしれない。

 そうだとすれば、ヤコウが行うべきは彼のサポートである。まずはハララとフブキに命じて彼の店が建っている一角の治安維持に努めさせた。万が一にも店主がホムンクルス共に襲われるなんてあってはならなかった。

 そしてヤコウも隙を見ては店主の店に通った。店主にそれらしいカバーストーリーを伝え、身を隠しやすくした。

 彼の身が心配だったと言うこともあるが、人間と敵対することなく普通に会話ができると言う状況がヤコウにひと時の安らぎを与えていたことは否定できない。ヤコウの舌がラーメンの味を感じることができずとも、三年ぶりにヤコウにとって楽しい食事の時間を過ごすことができた。

(頼んだよ、探偵諸君。どうか、この街に真実の光をもたらしてくれ)

 そして、これまでの人生を、これからの未来をも奪われた死者に、どうか安らかな眠りを。

 ——止まない雨に沈められた魂に、弔いを。

 

◆終◆


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