雑多な話

雑多な話


普段あまり自分の考えや自分の過去について長話しないのでアドベントカレンダーにでも書いてみようかという気持ちになった。全人類に公開されるこんなところに自語りを書けるくせに誰かを目の前にすると話せなくなるなんて不思議な話だ。まあ、書いてみよう。



人を信じられない話


小学中学年くらいのことだ。父がよく怒るようになった。父は怒っても、なぜ怒っているのか、何に怒っているのかを言わない人だった。いきなり怒り出す。物に当たる。まともに話してくれない。そして子どもの前では怒りを押し殺してできるだけ普通に接し、母にわかりやすく当たっていた。父の怒りは、ご飯の時間が予定より遅れたことが原因の時もあれば、私が帰ってくるのが遅かったことが原因の時もあった。味噌汁にジャガイモが入っていたことが原因の時もあれば、親戚から相続の話をされたことが原因の時もあった。ただこれはあくまで当時の私の推測によるものなので間違っている可能性も多分にある。三分の一くらいは本当に原因不明だった気がする。あれこれと想像しては自分が悪いんじゃないかと思ったりしていた。

父は怒ると、なぜか母と一緒にご飯を食べることを拒んだ。家族みんなでご飯を食べる習慣のある家族だったから、流れ的に(?)母がダイニングから姿を消し、怒った父と子どもたちでご飯を食べた。父の顔色を伺いながら、でもあからさまに顔色を伺うともっと怒るからできるだけ平静を装って。会話している間は父の怒りは少し静まり、会話が途切れると父の怒りがよみがえってくるから必死で話題を絞り出して父と話していた。そんなときはいつも、姿勢を正して、食器や箸の音を立てないように細心の注意を払って、行儀良く食事をした。だまし合いみたいだった。化けの皮をかぶっている気分だった。怒っているのにそれを抑えて子どもと普通の顔をして話す父と、父のことが怖くて仕方ないのに必死で平然を装って笑顔で行儀良く食事する子ども。一時は毎週末これを繰り返していた。

私の父は小さい頃からたくさん遊んでくれて、いろんなことに詳しくて、仕事を頑張っていて優しい尊敬できるお父さんだった。それは今でも変わらない。感謝していることはいっぱいあるし尊敬もしているし優しい人だと思う。でも怒ったときの父はそうではなかった。そんな父の姿を見る機会が増えて、父のことを信じられなくなってしまった。怒っていないときであっても常に嫌われているのではないか、私の行動を迷惑だと思っているのではないか、私がいること自体が父にとってネガティブなことなのではないか。そう思ってしまう自分がいた。そう思えば思うほど父と自然に接することができなくなってもっと父を怒らせやすくなるとわかっていたから、できる限りそういう気持ちは押し殺していたけれど、我慢できなくなって大学は京都に来た。

父親は無条件に子を愛してくれるものだと小2くらいまでは思っていた。でも優しい人だと信じていた父がそうでない姿を多く見せるようになり、いつしか父を信じられなくなってしまった。父がわかりやすく悪人だったらもう少し良かったのかもしれない。怒っていないときに善人だからこそ、普段からだまされているのではと思うようになってしまった気がする。

しかも、その信じられない気持ちは父だけでなく他の人にまで及んだ。人はどんなに好意的に振る舞ってくれていても、優しくて自分に対する人間愛があるように見えても実は自分のことをやっかいな存在だと思っていて、いない方が良いと思っているかもしれない。どうしても心の奥でそう思ってしまう自分がいる。だから今でも親しくなった人に対してさえ、自分のことを嫌だと思っているのではないか、何か些細な行動がきっかけで嫌われるのではないか、そう思ってしまうし嫌われることがものすごく怖い。でもそういう気持ちに支配されて良いことはないとわかっているから、そういう気持ちはできるだけ殺すように意識はしている。心の底から人を愛せて人を信じられる人間になりたいと思うけれど、まだまだ難しそうだ。ただ、寮に来て、人との距離が近くなったり父と離れたりしたことで少しずつ人を信じられるようになってきたようにも思う。たまに人を信じられない自分が嫌になるけれど、辛抱するしかないんだろうなと思う。



自治の話


自治は本当に素晴らしいものだと思う。でも、自治は必ずしも綺麗なものではないと思う。人は綺麗なものとか綺麗な言葉に惹かれる。綺麗な方が心地よいと思える。自治は綺麗ではない部分があるからつらくなる人もいるし嫌いになる人もいる。熊野寮において全てが解決するスーパーソリューションはないし、誰もを納得させられるスーパーワードもない。寮に対する思いは人それぞれでその一つ一つに向き合おうとすれば政治的対立やめんどくさい人間関係の話だってついてくる。向き合えば疲弊するしつらい。でもそういう人間味のある汚いものと自治はともにあると思う。400人以上もの若者が一つ屋根の下で暮らし、しかもその家は国家から目を付けられている。そんな状況で汚い部分がないわけがない。そういう汚い部分は適度に目を向けつつ自治をやるしかない。全てに目を向ければよっぽどの鉄人でない限り参ってしまう。でも目を向けずには自治はできない。自治なんかしなければ楽な生活を送れる。勉強に割ける時間も長くなる。でも、汚い部分も含んだ自治をすることで楽な生活なんかじゃ到底手に入らない楽しいことや良い思い出や人間関係が築けるから、そしてその素晴らしいものを後輩に、次の世代につなげていけるから、さらに人間が持つ可能性の大きさに気づけるし自分や周りの人にとって大切なものを守れるから、自治は素晴らしいものである。自治をして失ったものも多いけれど、自治によって得たものの方が大きいと思う。だから私は自治をやるのだと思う。

でも、本当に自治をして得たものは失ったものより大きいのだろうかと思ってしまう時がある。自治に時間を割いていることでできずにいることはいっぱいあるし、そのせいで自分の良さを失ったと感じる部分もある。そういうこともあってか、自治を頑張っていて心が疲れたとき、「自治をやりたいからやっているんでしょ」と言われることにすごく反抗心を覚えてしまう。やりたいからやっているのは事実だ。でもやりたくないこともやっているし、やりたくないこともやらないといけない。それはやるべきだと思っていたり、やった方が他の人のためになるかなと思っているから。だから、「あなたは自治をやりたいだろうけど私はやりたくないからやらない」みたいなことを言われると傷ついてしまう。でも、傷ついたら負けだとも思う。やりたくないこともやってるけど、全部含めてやりたいからやっているのだと、勝手に言っとけと言い返せるのが強い人だと思う。これはあくまで自分の美学的にということだし、この価値観を誰かに押しつける気もないけれど。




最後に


私はできるだけ多くの人と話したいし仲良くなりたい。一人一人が何を考え行動し、どんな人生経験に基づいて今の姿があるのかということに結構興味がある。だから寮という場所は私にとってとても面白い場所だ。いろんな人といろんな場面で関われるから。そして寮は人と人がちゃんと関わっている感じがして、温かみがあって良い。寮が好きだ。これは本当の気持ち。

そろそろ2022年も終わる。今年は激動の一年だった。私は年賀状が好きなのでそろそろ年賀状を書き始めようかと思う。今年の年賀状は誰に送ろうか。

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