階段の上の

階段の上の



***






かいだんのうえのこどもに

きみはなにもあたえることができない

しぬことができるだけだ

かいだんのうえのこどものために

谷川俊太郎「階段の上の子供」







 夢を見た。

 サーヴァントである今の自分は夢を見ないのだから、夢ではなく記憶の再生と呼ぶべきなのかもしれない。だが、目の前で鮮明に立ち現れる過去の記憶の群れにはどこか現実味が無く、過去を思い出しているというよりも、夢を見ているという方がしっくりきた。

 夢でビーマは厨房の中にいた。愛用の包丁を片手に握り、まな板の前に立っている。厨房の内装はビーマがかつて働いていたマツヤ国の宮殿のものと酷似していた。周りには忙しなく働く他の料理人たちもいたが、その顔は奇妙にぼやけていてあいまいだった。

 ビーマは近くに置かれていた食材の中から適当に果実を一つ手に取った。大ぶりの果実はずっしりと重く、微かに柑橘系の匂いを漂わせている。夢とはいえ、こうしていると懐かしさが胸に込み上げてきた。

 ああそうだ、自分は料理が好きだったのだと、ビーマは感慨深げにおもった。

 料理を作ること、食べること、レシピの開発、試行錯誤、愛用の包丁の手触り、厨房の熱気、食材や調理器具が立てる音、鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。その全てが好きだった。そして、自分の作った料理で誰かが、大切な家族が喜んでくれることが、何より好きだった。

 そこでふと、ビーマは「好きだった」と過去形で語っている自分自身に気がついた。

 おかしな話だ。今でも料理は好きだし、嫌いになった訳でも飽いた訳でもない。サーヴァントは基本的に食事を必要としないが、そんな必要性などなくとも機会さえあれば自分は料理の腕を振るうだろう。相手を元気づけるため、戦う前に腹ごなしをするため、単純に美味いものを食べるため。理由などいくらでも思いつく。


 ────じゃあ、どうして。


 不意に、鈴を鳴らすような幼い声が耳朶を打った。

 聞き覚えのある声だった。


 ────どうして兄ちゃんは、料理を作らないの?


 咄嗟に振り向くと、そこには簡素な白い服を着た小柄な少女がいた。少し癖のある黒髪は光を受けて艶めき、潤んだ黒い瞳が真っ直ぐにビーマを見つめている。ビーマは思わず息を呑んだ。見間違えるはずがない。なぜなら、その少女は────。


「……アルジュナ?」


 ────その少女は紛れもなく、幼い頃の妹だったからだ。


 その姿を認識した瞬間、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。ビーマとアルジュナ以外の全てがどろりと溶け出し、入り混じり、極彩色へと変わっていく。目が痛くなるほどの異様な色彩にビーマは反射的に目を瞑った。そしてビーマが再び目を開くと、周囲の景色は一変していた。

 厨房の風景は跡形もなく、そこにあったのはどこまでも続く果てしない戦場だった。

 数えきれないほどの死体がそこら中に転がり、むせ返るような腐臭と血の臭いが立ち込めている。地面に散乱した戦車や武器の残骸はまるで墓標のようだった。愛用の包丁はビーマの手から消え去り、代わりにあったのは生前使っていた槍だった。べっとりと肌と服にこびりついているのは自分の血だろうか、それとも他の誰かの血だろうか。

 脳裏を過ぎるのは、あの戦争の記憶。叩き潰した敵の断末魔が、飲み干した血の味が、踏み潰した肉の感触が、生々しく記憶の底から蘇る。


 そしてビーマの前に立つアルジュナの姿もまた変わっていた。

 色の抜け落ちた白い髪。爬虫類のものにも似た尾と二本の長い角。無防備に曝け出された灰色に近い褐色の肌。感情の窺えない、冷たいガラス玉のような黒い瞳。そして身体中から溢れ出る押し潰されそうなほどの神気。絶望的なまでに変わってしまっているのに、彼女は間違いなくアルジュナだった。それが痛いくらい分かった。

 アルジュナはもうビーマを見ていなかった。いや違う。ビーマの姿が見えていても、今のアルジュナにとってそれは単なる景色の一部分でしかないのだ。彼女はただ一人で完成し、完結し、断絶していた。

 痛切な悲しみと無力感が胸を塞ぐ。抱きしめてやりたい。もう何も心配いらないと安心させてやりたい。苦しみも悲しみも分かち合いたい。やらなければならないことが、贖わなければならない罪があるというのなら、それがどんなことでも一緒に背負ってやりたい。

 家族なのだから。兄弟なのだから。愛して、いるのだから。


 再び世界が変わっていく。ぐらぐらと揺れ、ひび割れ、亀裂から全てを呑み込むような暗黒が広がっていく。アルジュナはビーマに背を向け、ゆっくりと遥か彼方へ飛び去っていく。

 ビーマは槍を捨て、地を蹴って遮二無二走り出した。ダメだ、行くな、待ってくれ。どれほど叫び、手を伸ばしても、彼女には届かない。

 大地が砕け、空が割れ、何もかもが暗闇の中へと落ちていく。ただアルジュナだけが全てから隔絶されたように浮かび続けている。落下の最中、もがきながらビーマはあらん限りの声を上げて叫ぶ。


「アルジュナ!!」


 だが、その叫びは誰にも届かない。何もできないまま、ビーマはどこまでも落ちていく。宙に浮かぶ妹の姿は永遠に遠ざかり、やがて視界の全てが闇に覆われる。


 夢は、そこで終わった。




***




 ぎらぎらと照りつける太陽の眩しさに、ビーマは思わず目を細めた。

 視界に映るのは真白の雲が浮かぶ快晴の空と、その下に広がる一面の花畑。絵に描いたような美しい風景だ。クリタ・ユガのこの時期は、どこにいってもこのように穏やかで美しい景色が広がっている。


 顔色が悪いから今日は休みなさい、と兄に告げられたのが数時間ほど前のこと。平気だ問題ないとビーマは抗弁したが、こういうときの兄は梃子でも動かない。双子の弟たちからの援護射撃もあれば尚更だった。

 まあ、直接民を統治する立場にある兄と違って、ビーマの職務は兄の補佐と外敵の排除だ。多少突発的な休みを取ってもさほど問題は起きない。

 とはいえ、降って湧いた休みだ。手持ち無沙汰の感は否めない。最初は大人しく自室で休息を取ろうかとも思ったが、どうにも落ち着かずこうして外に出てきてしまった。これがワーカーホリックというやつか、とぼんやり思いながらビーマは花畑を歩く。

 顔色が悪いとは言われたものの、身体的な不調が無いことはビーマ自身が一番よく分かっている。そもそも心身共に不調であるつもりもないが、周りからはそう見えたということは、十中八九今の自分には精神的に問題があるのだろう。一時的なものにせよ。

 その原因が何であるのかも、分からないことはないのだが────。


「やあ。ここにいたんだね、ビーマ」


 と、そこで。背後から声が響いた。振り向けば、そこに立っていたのは見知った相手だった。


「クリシュナ? 何かあったのか」

「君の様子を見に来たんだよ。ユディシュティラから調子が悪そうだと聞いたものでね」


 ビーマは訝しんだ。いつも付きっきりで『神』の側に控えているクリシュナが、その程度の用事でわざわざビーマを探しに一人でやって来るだろうか。疑念が顔に出ていたのか、クリシュナはくすりと笑う。


「君たちの今の霊基には神性が埋め込まれているだろう? その影響で思わぬ所に負荷がかかっていてもおかしくない。そういった所に気を配るのも私の役目さ。……けど、うん。その心配は無さそうかな」


 クリシュナはまじまじとビーマの全身を見つめ、納得したようにうなずいた。そしてそのまま、天気の話でもするかのような気安い調子で言葉を続けた。


「夢を見たんだろう?」


 自分の心の内を的確に言い当てた一言にビーマは思わず一瞬硬直する。それは何より雄弁な肯定の証だった。はあ、とビーマはため息を吐いた。


「……相変わらず、何もかもお見通しって訳か」

「まあね。今の私たちとアルジュナはサーヴァントとマスターの関係だ。夢によって繋がっても不思議じゃない」


 クリシュナは言いながら、ここではないどこかへと視線を向ける。その視線の先、遥か彼方には、アルジュナの乗る白いヴィマーナがあるのかもしれなかった。


「今もあの娘は夢を見るけれど、もうあの娘には夢は必要ない。私たちに関してもそれは同じだ。私たちがいなくても、あの娘は一人で世界を廻していける。私が喚ばれたのは偶然で、君たちを喚んだのは私がそう提案したからに過ぎない。あの娘は私たちを必要としない。それどころか、私たちを私たちとして────友や兄弟として認識してすらいないかもしれない」


 自分を「ヴァーユの子」と呼んだ妹の姿が浮かぶ。感情の窺えない、冷たいガラス玉のような黒い瞳。超えることのできない断絶。どこまでも遠ざかっていく彼女の背。


「それを知った上で、君はどうするんだい? ビーマ」


 クリシュナは再びビーマを見た。この世の全てを知り尽くしているかのような、裁定者の目だった。


「……どうするも、何も」


 一つ呼吸を置き、ビーマは意を決して口を開く。


「ンなことは最初から分かってたことだ。俺のやることは変わらない。俺はアルジュナが望む世界を作る。そのためなら、汎人類史の敵にでもなってやる」


 その答えを自らの内に深く刻み込むようにビーマは言葉を紡ぐ。


「アイツが俺を必要としていなくても、俺がアイツの傍にいたいんだよ。アルジュナ一人に全てを背負わせるなんてのは、もう御免だ」


 そう言い切って、ビーマは口を閉ざした。言いたいことは全て言った。それをどう判断するかはクリシュナ次第だ。

 クリシュナは数瞬の沈黙の後、満足気に破顔した。


「その言葉が聞けて嬉しいよ。やっぱり、君たちを喚んで正解だった」

「そうかよ」

「それじゃあ、私はそろそろ戻ろうかな。君も今日はゆっくり休むといい。ユディシュティラたちには私から言っておくから」

「クリシュナ」


 背を向けて立ち去ろうとするクリシュナをビーマは呼び止める。クリシュナは首だけを動かして振り向いた。


「お前は何を望んでいる」


 クリシュナは薄く微笑む。その問いを予期していたと言わんばかりに、クリシュナは────クリシュナ・オルタは、あっけらかんと答えた。


「あの娘の幸福。それ以外の全ては、どうでもいい」


 そして今度こそクリシュナは立ち去った。ビーマはその後を追うこともなく黙って見送る。視線を上げると、そこには変わらず澄み切った青い空が広がっていた。ビーマには見えないが、この空のどこかにアルジュナもいるのだろう。

 ビーマは踵を返し、どこへともなく歩いていく。行くべき場所が分かっているかのように、あるいは、当てもなく彷徨っているかのように。


 ────記憶の彼方、遠い過去の残響の中で、幼い妹が自分を見つめているような気がした。


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