(閲チ)窓も分厚いカーテンも開けて2

(閲チ)窓も分厚いカーテンも開けて2



風邪を患い、寝床でうずくまっている。惰性でつけていた卓上灯の、生気のない光だけが仄暗いワンルームを照らす真夜中。軋んだ体ではまともに生活もこなせず、ベッドの周りは段々と荒れに荒れてって、そんな状態の部屋が、何だか、いつしか訪ねたボタンちゃんの寮部屋みたく見えて、何だか急に、たまらない淋しさがこみ上げてきて、怖くて怖くて仕方がなくって、僕は、咳をすることでその熱病と感情のうねりを何とか抑え込もうとする。窓を開けっぱなしにして寝るのは、もうやめよう。それでも僕の口からはいくらやっても咳しか出てこないので、そうやって呼吸をするだけで、胸に滞っていた苦しい熱が外へと飛び出して楽になるわけがなくって、僕はまたすぐに苦しくなって、咳をする。そんな繰り返しだった。そんな時、不意に自分のお腹が、ぐるぐると低く鳴って、その音を聞いた途端、何だか急に胸が詰まって涙が出てきてしまった。

「うちね」とあのほの暗い部屋で呟いた、ボタンちゃんの声が蘇った。すると、お腹が鳴ったことを恥ずかしいと思う気持ちと共に、ボタンちゃんに会えない淋しさとか、切なさとかが一度に胸に溢れてきてしまった。そうしたら居ても立ってもいられずに、僕は布団を頭までかぶってその中に潜り込んだ。枕に顔を埋めると、まるで、ボタンちゃんの柔らかい身体に顔を埋めているような気持ちになった。そうして、その感覚がひどく心を安らかにしたから、だから、僕はそのままゆっくりと目を閉じて眠りについた。

目覚めると、頭が妙にすっきりとしていた。窓の外は朝の光で白く霞みがかっていて、時計を見ると、まだ五時前であった。でも、お腹が鳴ったので朝ごはんを食べることにした。パジャマのままで台所へ向かって歩きだすと、どこからか視線のようなものを感じた。それはきっと気のせいなのだと思った。でも念のために台所にある窓から外を眺めてみたけれど、そこには誰もいなかった。

とにかく早く何か食べたいと思い、棚をあさってみるがパンきれ一つ見つからない。こんなことになるなら昨日、お昼のおにぎりを食べておかなければよかった。そう後悔しても手遅れだった。だから、仕方なくお茶を飲もうとしてコップに水道水を注いだのだけれど、それが冷たくて冷たくて、口に含んだとたん思わず吐き出してしまった。その拍子にコップの水をこぼしてしまい、ズボンも床も濡れてしまった。

「うちより生活力ないん?」

そんな風に叱られたような気がして、すごくやるせない気持ちになってしまった。やっぱりボタンちゃんに会いたいと切実に思った。冷蔵庫からウインナーを三本とバターを取り出し、フライパンを火にかける。そのあいだにコーヒーメーカーを動かしてコーヒーを淹れた。温めたフライパンにバターを入れ、そこに溶いた卵を流し込む。すでにお腹がすいているから、ちゃんと行儀よくご飯を食べる気にはなれなかったから、適当にスクランブルエッグを作った。あとは昨日の残りのスープが今日の朝食だった。

病人にしてはよく動できたほうだと思ったが、何故か料理と呼ぶには気後れしてしまうような、そんな朝食を流し込み、僕はおもむろにスマホを手にした。ボタンちゃんに通話しようとしたが、繋がらなかった。何度かけてもやはり繋がらなかった。彼女からの連絡もなかった。きっと僕みたいに具合が悪くて寝込んでいるのかもしれないと思って、彼女の部屋を訪ねてみようかと思ったけれど、昨日の今日だし、何より風邪も治っていないし迷惑がられるかも知れないからやめた。ズボンを穿き、上着を着て帽子を被り、僕は、とにかく外へ出た。学校に行けばボタンちゃんがいる。そうしたほうが手っ取り早いはずだ。そう思い、早足で学校へと向かう事にした。

商店街を抜けて角を曲がると、公園のそばに差し掛かる。木の葉を拾う。少し前、ここで、僕はボタンちゃんと落ち葉を拾った。そんな些細な出来事のことを少し思い出した。彼女が僕のためにしてくれることが本当にうれしくて、あの頃の僕は幸せだった。でも、今となってはもうそんな風に感じることもなくなってしまった。

「うちね、少し悲しい事があって……」

いつだったか、彼女がそう言っているのを聞いたことがあった。だから、そんな彼女が落ち込めば僕だって落ち込むのだ。彼女は僕が悲しかったり淋しかったりするとき、いつもそっと側にいてくれる。そんな時、僕の心臓は激しく脈打つのだ。どうしてそんな事が起こるのか自分でもわからずに戸惑っている。僕はこの心臓を彼女に渡したいのだろうか?今、自分の胸の鼓動を意識すると、やはり僕の心臓は激しく脈打っていて、まるで何かを警告するみたいに、強く速く鳴っていた。

もしここのベンチで自分が倒れたら、ボタンちゃんは心配して僕を抱き起してくれるだろうか。冷たい風が吹きすさぶ中で、一人ぼっちで横たわっている僕に声をかけて、介抱してくれる彼女のことを想像すると、何だかたまらない気持ちになった。しかし、僕はどうしてもここで倒れるわけにはいかなかった。手ひどく風邪に冒されているからではない。もうすでに、彼女に会いたいという気持ちはひどい自己嫌悪となって僕に重くのしかかっていたからだ。

早くここから立ち去った方がいいとは思ったけれど、ポケットに手を突っ込んでみたところで、財布を持っていない事に気がついた。仕方がないから、リーグペイで水を買って、それで何とかごまかして、やっぱり今日は学校を休んで、寮へ戻ることにした。途中、ココガラの群れが羽ばたくのを見た。幾筋にも分かれて流れていくその青い翼があまりに見事だったので、僕は立ち止まって空を見上げた。そうしたら不意に寂しさが僕の頬を撫でてきたから、僕はまた歩き出した。歩けば歩くほど足は重くなってゆく。身体中の関節という関節がばらばらになりそうな痛みを帯びていた。一歩ごとに、気を失いそうな痛みが襲ってくるものだから、僕はその度に立ち止まって頭を振っていた。

寮に辿り着く頃には、すっかりへとへとになっていて、ベッドに倒れ込んで眠りたいと思った。だが、その前に薬を飲んでおかなければならないと思い、冷蔵庫から市販の風邪薬を取り出して飲んだ。すると喉がひどく乾いていたので、蛇口に口をつけて水を飲んだ。それでもまだ喉は渇いていた。それからさっき買った冷たい水を一気に飲み干した。空っぽの胃が水で満たされていくと、身体に何か新しい空気が吹き込んでくるような気がして、僕はそれがとてもうれしかった。でもやはりすぐにボタンちゃんに電話をしたくなって、僕はもう一杯水を飲んでからベッドに入った。

相変わらず、彼女は電話に出なかった。仕方がないのでボタンにメッセージを送る。「今何してるの?」と送信したが、その返事はずっと来なかった。彼女が眠っているのか、それとも具合が悪くて返事ができないだけなのかは僕にはわからない。でも僕はとにかく一日中、連絡しようと試み続けた。彼女の声を聞きたくてたまらないのだ。けれども結局、彼女は昼も、夜も、メッセージへの返事をくれなかった。

だから僕は諦めて寝た。「うちね」と言った彼女の声を思い出して眠りにつく寸前まで泣いてはいたがそれでもいつの間にか眠っていた。

そして目が覚めた頃には部屋の中は相変わらず静かで冷え切っていて、いつもと同じ朝だったけれど、ただ一つ違うのは、昨日まであったはずのボタンちゃんの気配のようなものが全く感じられなくなっているという事だった。僕はその事に気づき、かなり動揺した。今までそんなことを感じたことはなかった。ボタンちゃんの気配が消えてしまったのだ。僕は訳もなく慌ててしまい、そのまましばらく部屋の中を歩き回った。重たいカーテンを開く。薄手のレースのカーテンが現れる。僕は窓を開く。しんとした凍てついた空気が部屋の中に忍び込む。それだけだった。僕は、ああ、スカートを穿いていた頃のボタンちゃんはもういないんだとようやく実感した。

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