『閉じた可能性』

『閉じた可能性』


 誰もかれも、彼を人間と定義しなかった。

 彼は最初から、人間でしかなかったのに。

 

 ──きっと、あの人の手を最後に振り払ったのは私で、わずかに残っていた他者への期待を粉々に打ち砕いたのも私だった。

 新羅先輩は私のせいではないと言った。それは間違いではないけれど、必ずしも正しくもない。より正確に言うならば、私“だけ”のせいではない、だ。あの人の抱える孤独を、たとえひとかけらであろうとも誰も受け止めようとすらしなかったんだから。

 

 手書きのノート三冊を残して、柊梢は消えてしまった。

 それは、太陽が燦燦と輝くとある冬の日のできごとだ。

 

 そうか、昨日は梢の誕生日だったねえ、という新羅先輩の言葉にひどく驚いた。ひとつは新羅先輩がそれを知っているという事実に。あの人はパーソナルデータを気軽に他者に公開する人ではないからだ。先輩が無理やり聞き出したんだろうなと察することができるぐらい、あの人は自分のことを語らない。ふたつには彼にも誕生日があるという至極当然の事実に。私は柊梢もまた人間であり、生まれたからには誕生日もまた存在するという当たり前のことを今の今まで失念していた。考えてみれば。いや、考えるまでもなく当たり前にそこにある事実をどうして忘れていられたんだろう。驚いた自分に驚いて、すぐにそんな自分を嫌悪した。あの人が名付けることのなかった寂しさがあることを知っていたのに、同じ人間だとは思っていなかった。それはきっと、ただ知らないだけよりも罪深いと思ったのだ。

 

 初めてあの人を見たときのことを、今でもよく覚えている。私を射貫く琥珀の瞳も、灰に近いくすんだ黒髪も、ぞっとするほど血の気のない肌も、余剰な肉を限界まで削り落したかのようないっそ不健康なほどの長身瘦躯も、生すらも余分だとでもいうような兄の死体に似た雰囲気も、すべて。お前は誰だ、と言葉なく語りかけてきた彼のことは今でも容易に思い返せる。私も彼もなにも発していないのに、そうか、とあの人が立ち去ったあと、声をかけられるまで動けなかったことも、恐怖に心がしぼんで縛り付けられてしまったことも。春のおだやかな空気の中にいる姿が、どうも違和感しか生まなかった。消えてしまいそうな儚さなんて小指の爪の先ほどのないけれど、次の瞬間に消えていてもおかしくないような異質さを持っていた。まるで、最初から存在する場所が違うだけみたいに、消えても当然なことのように思えた。名前すら知らなかったけれど、確かにあの人の存在が心の深いところに刻まれた。

 それからしばらく、会うことはなかった。新しい環境に溺れないようにするだけで必死だった私にわざわざ探すほどの余裕はなかったし、そもそも会おうとすら思わなかったからだ。心に相変わらず巣食ってはいたけれど、痛みを訴えることなんてなかった。春と夏、秋と彼を見ることはほとんどなく、次にはっきり会ったと言えるのはかなり涼しくなってきたころの古びた神社だった。表の方が立派なのだけど、こちらの方が成り立ちが古いと知ってからロードワークもかねて私はこちらにも足を運んでいた。そこで、長い階段を登って参拝しに行った先で、鳥のように踊っているあの人を見た。綺麗だ、と思うより先に、見惚れた。ピンと伸びた指先は自在に空を舞う鳥の翼か。躍動感に満ちた動きは生の喜びを表しているのか。『彼』という人間ではない、大きな生き物を見たような気がして、目を離せなくなった。砂利を踏む音すらも鈴の音のように聞こえて、まるで澄み切った川の水をたっぷりと飲まされた気分だった。秋の清流に、私は飲み込まれた。

「参拝しないのか」

 ゆるりと、けれどぴたりと止まった動きを惜しいと思って、かけられた声に我に返った。初めて聞いた素の声は想像よりも低く、突き刺さるようだった。ただ、彼の持つ雰囲気には確かに合っている。厳しい冬にひとりきりの木立を思った。

「あ、すみません」

 じっと視線を感じながら手水舎で手を浄める。古びた神社ではあるけれど、いつ来ても境内は整えられているから管理する人はきっといるのだろう。水を口に含むことに抵抗はなかった。鈴を鳴らして賽銭を投げ入れる。二礼二拍手一礼。願うことはいつも同じだ。誰にも言わないし、口に出すことはないけれど。

 また、琥珀が私を見ている。動きそのものはさほど激しいものではなかったけれど、あれだけの時間動いていたのにも拘らず、滲む汗は見当たらない。彼の中では大したものでもないのだろうか。一度目と違い、恐怖は与えられなかった。ふわふわと浮いた頭が口から言葉を吐き出させる。

「稽古、つけてもらえませんか?」

「……なぜ、俺が」

「うまく演じられないんです。体がこわばって、思うように動かせない。お願いします」

「…………案内しろ」

「……っ。ありがとうございます!」

 本当はもう少し長い問答があった。結局折れてくれたから、彼をつれて稽古場へ向かう。休みだというのにそれなりの人数がそろっていた。私の後ろから現れた彼を見て、上級生ほど目を剥く。新羅先輩は愉快そうに笑っていたけれど。

 

「柊梢」

「神薙咲良です!」

 

 そんな、道中の短い自己紹介。それだけで十分だった。

 

 

 そして、稽古が終わる。最後に一曲リードされて、彼は自分の部屋に戻っていった。礼を言い忘れた、と気づくことなく、私は呆然としていた。頭が追いつかなくてへたりこむ。バニラの香りが、痺れるように残っている。──あんな感覚は、知らない。まるで酩酊したみたいにくらくらしていて暫くは立ち上がれそうになかった。

 導かれるように体が動いた。考えずとも次の動きがわかった。膨大な熱量を直接注ぎこまれて、それを全身で受け止めた。自分の体がまるで自分のものではないかのようで、けれどその状態が心地よかった。知らない動き。魅せ方。叩きこまれたそれらで目の奥に、頭の中にチカチカと火花が散っている。あの人と踊ると、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。「下手なものは見せないでください」と彼が新羅先輩に言った声は、聞こえていなかった。彼が他人に期待することは本当に珍しいと、聞こえていてもそのときの私は知らなかった。

 それから交流を重ねたわけじゃない。私の中に彼という存在は深く根を張っていたし、彼に導かれてから奇妙な感覚は残っていたけれど、私的な交流はほとんどなかった。たまに神社で遭遇するくらいで。

 

「新羅先輩。柊先輩の失踪、半分は多分私のせいです」

「神薙くん?」

「私、知っていました。あの人はいつも一人きりだって。夢を見ないって。誰にも理解されなかったって。寂しい、という名前すら知らないって、私、知っていました」

「昨日、会ったんです。柊先輩に」

 

 あの人が失踪する前、最後に会ったのはきっと私だ。いつものように神社に行こうと山道を登ったとき、川の向こうに彼を見つけた。

「先輩?」

 声を、かけた。小川のこちらとそちらで分かたれていた。先輩が振り返る。初めて出会ったときの再演のように、琥珀が私を射貫いた。

「神薙咲良」

 呼吸が止まった。淡々とした声に、期待が滲んでいると私は知ってしまった。

「俺の手を取れるか」

 不健康な肌の色。目の前に伸ばされたてのひら。誰よりも純粋な人が、ただ私を見つめていた。言葉通りの意味ではないのだと、既にわかっていた。この手を握り返せば、さらなる高みへ連れて行ってくれるんだろうとも。劈くような孤独に寄り添えるなら、それも悪くないとすら思っていた。でも。

「……できないです」

 そうだ、できない。兄が死んでから欠けた私では、オレンジの片割れにはなり得ない。翼を失って地を駆ける私では、彼の比翼を務められない。あまりに澄んだ水では私は泳ぐどころか溺れてしまう。枷になりたくはないし、ただの燃料でもありたくないのだ。彼とともに歩むのなら、私は私としてありたいのだ。彼と私は、やはり違う。重なる部分はあるけれども、「違う」のだ。いっそ致命的なまでに断絶していて、どうしたって対等にはなりえない。……そうして、私は彼から逃げた。

「そうか」

 選択を誤った、と直感した。硝子が砕ける音を聞いた。彼の執着がすうっと消えたと理解した。──私はこの人の期待を裏切ったんだ、と胸に迫った。理解も受容もできなかったから。ほんの少しだけ、錯覚かと思うほど短い時間、彼のくちびるが弧を描いたのは、気のせいだったのか。今でも私には断言ができない。

 

「手を取れませんでした。……逃げたんです。怖くなって。飲み込まれることが、才能が枯れることが。兄を失って以降、変わってしまった私を直視できなくて」

 見ているようで見ていない自分を、完全に目を開いて細部まで見る勇気がなかった。彼の言葉は、本質を捉えすぎる。隠していたもの、隠れていたもの、全てを無自覚に暴いてしまう。だから、私も新羅先輩も離れるしかなかった。過去に負った傷はまだじくじくと苛んでいて、彼がそれを容赦なく曝け出す。他の誰も気づかないとしても、自分自身だけはそれに気づいてしまう。

 だから、直視しないためには逃げるしかない。単なる自衛なのだから、罪悪感を抱える必要などないという意見もあるだろう。実際、新羅先輩はそういって私を慰めた。でも、私が彼を拒絶した事実も消えはしないだろう。それもまた真実だ。

 ままならない。ああするしかなかったけれど。ああしなくては“私”は消えていたけれど。それでも、柊先輩に消えてほしかったわけじゃない。あまりに純粋で、まるでこどものようだった人。恋をしているみたいに、ただただ純粋に高みを目指していた人。17になったばかりの少年なのだと、ついぞ私が気づけなかった人。

 いつか、あの溢れんばかりの熱量を、余す所なく受け入れたい。今はまだ、理解すらおぼつかない。一部を受容することはできても、ありのままでは壊れてしまうから拒絶してしまう。そんな私を変えていきたい。けれど、追いつくことが不可能だとしても、私は進みたい。その差が縮まらないとしても、死ぬまで成長していきたい。

 

 もう一度会えたら、今度こそ恐れずに向き合えるだろうか。

 

 そんな、叶わない夢を見る。

 ひだまりの中で彼が残したノートを見て、各人にあてられた辛辣なアドバイスに驚いて。全員に向けて書いてあることに衝撃を受けて。コピーをしてそれぞれに渡して。

 そして。ずっと後ろに、私だけにあてられたメッセージを知った。……あの人は、どこまで見越していたのだろう。止まらない涙とともに、もういない彼のことを思った。

 


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