鋼の意志。
ゲヘナ、救急医学部拠点。
セナは暇をもて余していた。
異常事態である。
医療従事とはいえ、たまにはそういう日もあるんじゃないか?という問いかけは、『ここ最近の勤務記録簿をお見せしましょうか?』というセナの淡々とした答えに切り返されることだろう。
セナは机にもたれ掛かるようにして、この異常事態に対する考察を行っていた。
(出動要請が一つもなく、備品や書類の整理におよそ半日を当てられた日。なんならば、この後、ゆっくりと休憩をとることすら可能でしょう。)
(しかし、それが今日、唐突に訪れたのはおかしいという他ありません。)
ここ最近のゲヘナは、かなり治安が悪かった。普段の底を更にドリルでゴリゴリと無理に掘削するかのように、暴動、強盗、爆破が増加し、やけに生徒達の血の気が多くなっていた。
何か原因があるのかと、患者を診察しても『なんだか最近妙に怒りっぽくなっちまうんだよなぁ…』と本人達もよくわかっていないようであった。
セナはこの治安の悪化をとくに重く見ていた生徒の一人であった。内科は専門ではない、だが、ゲヘナの健康を案ずるのも職務の一つであり、何より、とある生徒から受けていた相談の内容との符合が、どうも気にかかっていた。
しかし、増え続ける患者を片端から治療しなくてはならない救急医学部に、調査の真似事をしている暇はなく、歯痒い思いをしていたのがこれまでである。
だが、そんな狂騒が、パタリと今日止んだ。
さっきまで響き渡っていたドリルの音がなくなって、ふと、暗い穴の底に一人きりでいることに気づいたような、うすら寒さがただよう嫌な空気がゲヘナを包んでいた。
とりあえず最近の忙しさでおざなりになっていた整理は済ませたものの、爆発音が聞こえれば、すぐにでも乗り付けたいとでもいいたげに、医学部員達には落ち着かない空気が立ち込めている。
風紀委員会というこちらより万倍忙しそうだった部活からの連絡もない。電話をかけてみたが、あちらも何だか面食らっているようだった。
(まるでゲヘナ生が全員で示し合わせたように、静かにしているとでも?…あり得ません。)
悪ノリのドッキリにしては規模が大きすぎる。どこかで必ず統制がとれなくなり、我慢できずに暴れだす生徒がいるだろう。ましてや妙に怒りっぽくなっているのだ、自制など効くはずがない。
(考えられる可能性があるとすれば…暴れる生徒達が全員いなくなった…もしくは無力化された?…ありえませんね。)
セナの口元に小さな笑みが浮かぶ。自分の想像があまりにもありえないもので笑いが押さえきれなかった。
欲しいものは欲しいままに。際限の無い欲望をあるがままに謳歌するのがゲヘナである。それが全ていなくなるだなんて。
(ふむ…ならばこれは何かの奇跡と思うほうがまだ筋が通っているかもしれませんね。)
そう、奇跡。都合のいい『たまにはそういう日』があったのだ。
(唐突に訪れた奇跡…流石に楽観的すぎますね。)
セナはモモトークを一瞬開き、すぐに閉じた。暇があるのならば、あの人に会いにいってみようなどと、甘い考えがよぎったのだ。だが、それを許すほど、セナは自分に甘くなかったし、何より、朝からゲヘナを包む嫌な空気が、昼をすぎてもまだセナの背にこびりついている気がした。
(どちらかといえばそう、これは、奇跡ではなく…嵐の間の一瞬の雲の切れ間なのではないでしょうか。)
楽観的ではなく悲観的に。セナは、こうであって欲しくないという、嫌な予感を現状と合わせて想像する。ゲヘナの生徒たちにでている妙に怒りっぽくなる症状。それが何かしらの影響によって、生徒達に与えられている場合。それが、今日、急にぱたりと止んでいるとしたら。
もう、ゲヘナで暴れる必要がなくなったからなのではないだろうか。
その影響を与える段階は、既に過ぎ去って、何か別の段階に進んだのではないだろうか。
(……やはり。)
セナはもう一度モモトークを開こうと、スマホを持ち直す。生徒の持つ不安を打ち明ける相手として、あの人はキヴォトスの誰より最適だ。相談し、生徒たちと話し合うことで、何か解決の糸口が見つかるかもしれない。
そうして、下を向いて考え込んでいた目線が、持ち上げたスマホと共に上昇し、床しか見えていなかった狭い視界がぐらりと一瞬広がったその瞬間、セナはそれを認識した。
高速で視界を通り過ぎていくそれを認識できたのは、偶然ピントがあってしまったからに過ぎない。セナは戦場において埒外の力を持つような超存在ではない。
もし、理由をつけるとするならば、それはおそらく、走馬灯に近いものであったためだ。
視界を高速で通り過ぎていく、黒の銃弾に、どこかで見覚えがあると認識と思索が結びつきかけたその瞬間、まるで火山の噴火のようにすぐ近くから膨れ上がった爆発的な殺気が、セナに叩きつけられた。
生徒でありながら、明確に『死』の一文字が去来するような、そんな暴威の殺気。走馬灯のように、思考が拡張されるには十分すぎる程の命の危機。銃弾を認識できたセナがぐらりと揺らぐその瞬間、それは明確な形をなして、セナに、救急医学部の拠点全体に襲い掛かった。
鳴り響く銃声は、銃が放っているとは思えないほどの轟音を立てて壁を薄紙のように破壊しつくす。
つい先ほど整頓したばかりだった室内は、一瞬で廃材の入り混じった瓦礫の山へと埋もれていく。
その掃射は、拠点に対して雑に放たれたもので、しかし、逃れることはできない圧倒的な破壊の濁流。
拠点が、部員たちが、次々にそれに呑まれてゆく。抗うことはできない。いざとなれば私たちは銃をとることは戸惑わない。だが、唐突に訪れた想定外の襲撃に突如対処できるような備えのある人員ではない。
その抗えない流れの中に、銃弾を受けて倒れ伏すセナがいる。身体はまともに動かない、意識はもうろうとし、舞い上がる瓦礫の砂煙に目はかすみ、意識は遠のく。
音だけを彼女は消えかけている意識の中で聞いていた。
破壊の音。悲鳴の音。逃げ惑う音。私を呼ぶ音。叫ぶ音。そして、笑う音。
聞いたことのある声で。けれど聞いたことのない声で。
心の底から楽しくって仕方がないといいたげに、高らかに、歌うような笑い声がする。
『アハッ!アハッ!あはははははははははははっ!!ほんっと、楽しい!!!』
耳の奥まで響くような悪魔のような笑い声が、銃声の鳴り響く中心から聞こえたような気がして、セナは意識を失った。
■
「おはよう、セナ。こんばんは、かしら。」
その笑い声の続きが聞こえてきて、セナはうっすらと重い瞼をあげた。寒い。どうやらここは外のようだ。何か固くて冷たい、大きなものにもたれかからされているようだ。ぼんやりと映る景色と光から見るに、とうの昔に夜になり、どうやらどこぞのハイウェイの上に転がされているらしい。
だが、相変わらず身体は動かない。振り向いて周囲を確認するのすら億劫だ。残念ながら、襲撃は夢ではなく事実であったらしい。
「ヒナ…委員長……」
半分しか開かない目で見上げれば、そこには空崎ヒナが立っていた。彼女は見たことがないほどの満面の笑みを浮かべて口角をにっこりと吊り上げている。だが、その目は笑っているというよりは、こちらを見ながらもどこか遠くを見ているような虚ろさを感じるものだった。
「なぜ…ですか……?」
あの時聞いた、悪魔のような笑い声。そうして今、目の前で、私を笑いながら見下すその姿。
状況は明白であった。
空崎ヒナ。ゲヘナ風紀委員委員長。ゲヘナにおける個人最高戦力であり、その力を風紀治安維持に淡々と生真面目に注ぎ込み続ける仕事中毒(ワークホリック)。
その彼女が、救急医学部を、襲撃したのである。
セナのどこかまだ白む頭に浮かぶのは疑問ばかり。
空崎ヒナという女がそんなことをしたという事実そのものが、それまで彼女が果たしてきた行いに、主義に余りにも反している。
状況は明白でも、その事実を受け入れられるほど、セナはまだ冷静になれていなかった。
「ん~…」
そんなセナの問い掛けに心地よさげな笑みを浮かべたまま、ヒナはゆっくりと目を閉じて考え込むようなポーズをとると、明るく答えを出した。
「邪魔だったからよ。」
「……は…?」
セナの心を狼狽が襲う。その答えが空崎ヒナの口から出たという事実が、あり得ないわからない、受け入れられないと、混乱が渦巻いていく。
半分だけ開く目を見開き、口をぼうと開けて、ヒナを見上げる半死半生のセナの顔に浮かんでいる表情は、絶望と困惑である。
それを見たヒナは、どこか憐みを含んだ表情でセナを見下して、機嫌よさげに言葉をつづる。
「セナに夢のような薬があると勧めたことがあったでしょ?」
「一飲みすれば痛みも忘れ、ずっと幸せになれる魔法の薬。苦しいことも辛いことも忘れられる魔法の薬。もしあったら欲しいと思う?って。」
「その時、あなたは言ったわね。」
「『私には不要なものです。私個人の幸福は既に充分と言えますから。苦しむ怪我人がいたとしても、あくまで私たちはした…怪我人でなくし、健康に生きられるようにするのみ。…その先でどう生きるのかは、その死体の決めることです。』って。」
「私、あなたには少しだけ親近感があったの。ここでは互いに理不尽な量の仕事が絶えず、そのなかで実直に、淡々と仕事をこなし続ける姿勢は少し似ているなって。」
「でも、それを聞いて思ったの。あぁ、あなたって本当に強いのねって。」
滔々と一息に、歌うようにヒナは一方的に話していた。セナの反応を気にもかけず、己の語りに酔うように没頭している。その様をぼうと見つめるセナを、台詞の切れ目でがばりと覗きこんできたその瞳は見開かれ、視線があっているように思えるが、きっと、この女は私が見えていないと、セナはどこかで感じていた。
「でもね。だから邪魔なの。」
「アビドスの砂糖を広めるのに、あなたがいてはいけないの。」
「死体を見たいと言いながら、人を決して死なせない。」
「最後の一瞬一秒まであがき続ける。」
「どんな場所でも信念を貫き続ける。」
「だからダメなのよ。」
セナから離れて、ヒナはバサリと大きく己の翼を広げた。夜の電灯で照らされたハイウェイは、大きく彼女の翼の影を道路に落とし、セナの視界から光をうばう。
「あなたみたいなのがいたら、皆希望を持ってしまうでしょう?」
「私の世界に、あなたはいらない。」
「だから、潰すことにしたの。」
笑みを浮かべて歌い上げた内容は、空崎ヒナがこれまで積み上げてきたものを否定する言葉だった。
己の欲のために、他者を破壊しつくすことを実行した。彼女がこれまでしてきたことすべてを無に帰した。それらは、彼女が狂気に堕ちたことをこれほどなく示していた。
「数日はまともに動けないでしょうし…まともな設備も残さず壊したと思うわ。」
「だから、まあ、しばらく大人しくしていてくれないかしら。」
「そうしていたら、ゲヘナが変わった頃には…きっとしあわせになれるから、ね?」
「…邪魔をするつもりなら、容赦はしない。」
「じゃあ、元気で。」
そのまま彼女は踊るようにハイウェイを去っていった。
一人とり残されたセナはようやく周囲をぐるりと見渡すことができた。
遠景には夜のゲヘナが見える。よく見れば、ちらちらと煙が上がっているようで、混沌が学園には戻ってきているらしい。だが、もうあそこに秩序を保つ最強はいない。
何より、その最強こそが、思うがままに暴れまわったのだ。その立ち上る火の大きさは、これまでとは比べ物にならないだろう。
その最強に直々に、私は、救急医学部は物理的に叩き潰された。見渡してわかったのは、倒れていたのは何も私だけではないということだ。自分のもたれかかっている救急医学部の搬送車両の周囲には、自分と同じく襲撃を受けた医学部生たちが死屍累々と投げ出されていた。キヴォトスの生徒だ、死にはしないだろうが、しばらく動くことはできないだろう。どうやら、ヒナは本気でゲヘナから私達を追い出したかったようだ。
そんな狂った最強の存在から、直々に大人しくしていろと釘を刺されてしまったわけだが。
「さて、と。」
氷室セナがその程度のことで、大人しくしているわけがない。
とっつきづらく、独特の感性を持ち、過酷な任務も表情を変えずに取り組む仕事人気質。
そして何より、囚われない意志を持つ女。誇りをもって職務に当たり続ける生徒。
それが氷室セナである。
とはいえ、現状できることは少ない、夜の寒さにあてられ、地面の冷たさと共に身体の体温がどんどん低下しているのを感じる。そのうち誰かに見つかって救助されるかもしれないが、それでは少々身動きがとりづらいだろう。
だから。あまり使いたい手ではないが、頼ることにしてみる。
ひび割れたスマホを胸元から取り出す。あの銃弾を認識した時、咄嗟に庇うように倒れ込んだのが功を奏したらしい。気づけた幸運に感謝するべきだろう。
連絡を送る相手は二人。一人は大人、こういう時に頼れる相手。
もう一人は生徒。とある相談を受けていた生徒。状況の一致から見るに、おそらくあちらも何かしら事件が起きているのではないか、という予測。だから、この状況で、協力しあうメリットが必ずあるはずだ。
「もしもし、氷室セナです。電話にでてくれて嬉しいです。」
コールを鳴らせば、数秒も置かずに彼女は電話に出た。かすれた声で話しかける、それだけで、何か、ただならぬ状況であることを彼女は察してくれたのか、息をのむような声が、電話口からは聞こえてきた。
「……どうしたんですか、セナさん。」
「お久しぶりですね、セリナさん。」
ゲヘナとトリニティは、学園間の仲は険悪の一言である。だが、医療という現場においては、そのようないがみ合いと対立よりも優先するべきことがある。それを両校の医療組織はよく理解している。
少なくとも、救急医学部と救護騎士団は対立関係にはなかった。
故に例えばそう、こうやって、他校の様子を知るために、互いに連絡を取り合うような関係を築けていたりもする。
「場所は、ゲヘナ郊外のハイウェイ、29号線。救急医学部に負傷者多数。」
「え?え?」
「すみません、喋るのも大変でして。」
「大丈夫ですか!?何があったんですか?」
「…救護、願えますか?」
「……っ!……っ……わかりました…団長の許可をとってきます…!」
ブツリと、電話が切れた。セナはぼんやりと空を見上げる。
これは、今後のことを考えた接触だ。私たちが私達らしく職務にあたるために。いや、ひょっとしたら、キヴォトス全体のために、彼女たちとそして、先生と接触する必要がある。
郊外のここならば、トリニティの車両が来たとしてもギリギリ言い訳がたつし、何よりゲヘナは今それどころではないだろう。
とは言っても、彼女たちも例の件があることを思うに、余裕はないかもしれないが。
「…ヒナ委員長。」
思う。突如として狂気に陥った、彼女を思う。彼女は私達に大人しくしていろといった。あなたのような生徒がいたら希望をもってしまうといった。
「少々、過大評価が過ぎますね。」
「私はそのような大した生徒ではありません。」
片方しか開いていなかった目は、疲れと痛みの疲労でかすみながら、しかし確かに見開いて、空を睨んでいた。
「いつでも、どこでも、するべきことをしているだけです。」
「脅しつけられ、死体になろうと、それは変わりませんよ。」
半死半生、満身創痍。しかしそれでもなお、変わらぬ誇りが、彼女の瞳には灯っていた。