酒は飲めども…

 酒は飲めども…


「ああ、もう!こんなになるまで飲んできて!」

「うるせえ…別にいいだろうが…」

「そういうことは自分の足で部屋まで戻ってから言ってください!」


 珍しく酩酊し、玄関で倒れ込んでいた土方の肩を支えて歩かせながら彼女は声を荒らげる。

 これほどまでに飲んでくる土方は珍しいし、飲んだ後に試衛館へ帰ってくるのも珍しい。

 そういう時は大概その日のうちには帰ってこず、朝になると白粉の匂いをさせて戻ってくるのだ。

 そしてそのたび何故かはわからないが、彼女は胸の中が酷くもやもやしてぐるぐる何かが渦巻くのを感じる。

 自分ではわからないがそんな時の彼女は愛弟子である沖田をして「怖い」らしい。

 あまり良くないことなので抑えたいのだが、どうにも自分で自分の気持ちがわからないため抑えようがない。

 ただ今こうして土方を支えているぶんにはその気持ちは出てこず、どうやら酒を飲みすぎた彼に対する憤りではないということだけはわかっていた。


「土方さんの部屋まで運ぶのは大変なので、今晩はここで寝てもらいますからね!」


 道場まで土方を運び、彼の部屋から布団を持ってくると彼女はそう宣言する。

 長身かつ剣術と行商で鍛えられた身体を持つ土方を部屋まで運ぶのは彼女の筋力では厳しく、楽な方を選ぶことにしたのだ。


「はい起きて!お水飲んで!すぐ敷きますからまだ寝ない!風邪ひきますよ!」

「おう…」


 布団が来る前に横になって寝ようとしていた土方の上半身を引き起こし、水を入れた湯呑を渡しゆっくり口へと近づける。

 静かにゆっくりと湯呑を傾け、少しずつ水を飲ませてやる。

 美味そうに喉を鳴らして飲む彼の姿に普段とは違う可愛らしさを覚えつつ、飲ませ終えると布団を敷きにかかる。

 極力素早く敷いたのだが土方はその間にまた横になっており、仕方なく引き摺るようにして布団の上まで彼の身体を持ってくる。


「ああもうこの酔っぱらいは…はい、布団かけてあげますから明日の朝稽古までには起きてくださいね!起きずに踏まれても知りませんよ!」


 簀巻きにしてやろうかとも思ったが横になった彼の姿を見ると何故かそんな気が失せてしまう。

 なので彼女はそっと優しく、足が出ていたり肩が入り切らなかったりしないよう丁重に布団をかけようと────


「…ひゃんっ!?」


 ────土方の傍に屈み込んだところで、彼に抱き締められた。


「ひ、ひじかた、さん!?」


 真摯に稽古へと打ち込み、鍛えられた腕が自分の背中を抱いている。

 女である自分のそれとは真逆の厚く逞しい、男の胸板へと顔を押し付けられる。

 酔っているからか熱く、それでいて不思議と心を落ち着かせてくれる温かさを持った土方の体温を全身で感じさせられる。

 それら全てが心の奥底を無性に刺激し、心臓が破裂しそうなほどに高鳴り脳髄が蕩けるような不思議な気持ちが全身に染み渡る。

 それは高揚であり、紛れもなく幸福でもある。だが何故だかそれ以外のなにかも混じっている事がわかる。

 この気持ちは一体なんなのか────


「…あ」


 ────その答えに行き着く前に、彼女は悟る。


 酒臭い。


 恐らく飲んだだけでなく、溢すか引っかかるかしたのだろう。土方の着物も身体も酒臭い。

 そしてそれは下戸の彼女を酔っ払わせるには充分なだけのもので────


「……ぅーん…」


 くらくらと来てしまった彼女は抵抗する間もなく、あっという間に眠りへと引き込まれてしまった。



 ─────


 何が起きている?

 朝目覚めた土方の脳裏に浮かんだのは、そんな当たり前の。しかし切実な疑問だった。

 昨日は江戸にいる親戚の慶事があり、自分はそれに出席した。これはいい。

 そこで上等な酒が振る舞われ、ついつい飲みすぎた。これもいい。

 親戚の幼子が酌をしてくれようとしたはいいが転び、自分に酒をかけた。これもいい。

 自分は酔ってはいたがちゃんと子供のやることだと許した。これは間違いない。

 そして酔って試衛館へと戻ってきた。ここまでは覚えている。

 だがその後は覚えていない。覚えていないのだ。


「ん…んぅ…」


 だから同門であり、試衛館の家事一切を取り仕切っており、長らく交流のある女が。

 色々と思うところのある相手が、ピッタリと己に寄り添って同じ布団で寝ている理由が土方には分からない。

 自分が彼女の頭を腕に乗せ、肩を抱くようにしている理由が土方にはさっぱり思い出せない。


 ────落ち着け、落ち着きやがれ。


 少々はだけているが、自分は服をしっかり着ている。

 彼女の方も少しばかり乱れているが、ちゃんと着ているのはわかる。

 つまり何らかの行為に及んだ可能性は限りなく低い。

 そして昨日自分が酔って帰ってきたこと。

 彼女が内弟子や食客の面倒全般を見ていること。

 今自分達が寝ている場所が道場であること。

 これらを統合すると、自ずと答えは見えてくる。


「…俺をここに寝かせようとした」


 これはほぼ間違いないはずだ。

 自分は背丈もあるし体格もいい。彼女も仁王だなんだと言われるほどに体格はいいが、自分より一回りは小さい。

 運ぶのが大変なので道場へ布団を持ってきて寝かせようとするのは道理だ。

 なら何故彼女も同じ布団で寝ているのか。

 その理由を考えようとした時、土方は自分の着物や髪、身体が酒臭いのを感じた。

 と同時に、幸せそうな寝息を立てるこの女が酷い下戸であること。酔うとすぐに寝ることを思い出す。


「…これか」


 驚きではあるが、自分に布団をかけようとした時匂いを嗅いでそれだけで酔ってしまったのだろう。

 そしてそのまま寝てしまい、自分の傍へと横になった。

 寝ている間の寝相やらなにやらが加わり、この姿勢になった。

 細かいところはともかく、大筋ではこんなところだろう。土方は脳内でそう整理をつける。

 なら何も焦ることはない。酒の勢いでなにかあったわけではないのだ。

 自分はこのまま起きて、彼女はそのまま寝かせてやればいい。

 そして後で迷惑をかけた、と頭を下げればいい。それで終わることだ。

 内心ほっと胸を撫で下ろす。そう、それで済む話だ。誰にも見られなければそれでいいのだ。

 誰にも見られなければ────


 ────おい、今俺がいるのは…


 土方は知っている。道場で朝稽古があることを。

 土方は知っている。その朝稽古に出てくる門弟は殆どおらず、道場主の近藤や内弟子ぐらいのものであることを。


 土方は知っている。

 この道場にはその朝稽古を心から楽しみにしている師弟がいることを。

 それを思い出すのを待っていたかのように、ドタドタと廊下を走る足音が聞こえてくる。

 起きなければ。離れなければ。

 そう土方が思うより早く、足音があっという間に────地を縮めるかのごとき速さで、道場へとやってくる。


「師匠!おはようございます!今日もよろしくおねがいしま…す…」


 ─────元気のいい挨拶が途中で途切れていく。

 そして静寂が訪れる。土方がこれを好機と口を開いた瞬間────


 沖田の絶叫が試衛館に響き渡り、土方歳三の生涯で最も長い一日が始まった。

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