過去回想
「君がイクイノックス?」
突然見知らぬ少女に話しかけられた彼…イクイノックスは戸惑っていた。
「私、スターズオンアース!よろしくね。キミのパパと私のパパは同期でライバル同士だったみたい。」
「あ…よろしくお願いします…」
「これからよろしくね!」
「うん…」
イクイノックスは口ごもった。レースの世界はシビアだ。期待されているエリートですら未勝利を抜け出せず終わる、その逆も然り。描いた夢が簡単に叶わない事すらザラにある。そんな世界で「これからよろしく」など…彼女の能天気さというか、純粋に明るいだけの言葉をどう返していいのかわからなかった。
そして月日は流れ…
「今日からトレセンか…」
イクイノックスは美浦トレーニングセンターに入るため訪れていた。水が不味いだの、坂がないだの、西高東低だの何かと言われがちな施設であるが、それでも無敗の三冠バ、シンボリルドルフや名門、メジロやサクラなどのレースで優れた成績を残した名選手らを輩出。名伯楽も幾人と在籍している。今をときめくアーモンドアイやグランアレグリア、期待のホープのエフフォーリアやタイトルホルダー、そして何より、イクイにとって尊敬する兄、ヴァイスメテオールがここに在籍しているのだ。成績はトップ層と比べると世代戦のG3のみとあまり芳しくないが、それでも血縁、背中を追いかけて成長してきた。
「あっイクイノックスくんだ!」
突然聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お久しぶりです…スターズオンアースさんでしたっけ?」
「アースでいいよ。イクイくん!」
「い…イクイくん⁈いきなり通称とか…その…」
「イクイくんも美浦なんだ〜一緒だね!」
「…別に同じだからって毎日のように顔合わせるわけじゃないでしょう。先生は別みたいですし…」
「え〜冷たい〜!友達でいいからなろうよ〜というか私たち友達じゃないの〜?」
「え…まあじゃあ友達ってことで…」
「じゃあこれからよろしくね!」
そこからはまさに光陰矢の如しのように時はたち、いつしかクラシックの春を迎えていた。
「えへへ〜低人気だけど桜花賞勝ったよ!」
「おめでとうございます。これで晴れてG1バの仲間入りですね。」
「イクイくんも皐月でしょ。頑張ってきてね。」
「気の知れたジオがいますし、リラックスして勝負できますよ。まあ何より久しぶりのレースなので気合い入れて行かないと…」
「イクイくんだったら勝てるよ!三冠だっていけるよ!で私もティアラ全部とって、一緒に三冠取ろうよ!」
「そのためにも頑張らないといけませんね。」
一月後…
「ダービー2着か…残念だったねイクイくん…でもまだ菊花賞があるよ!イクイくんのお父さんって菊花賞勝ったんでしょ?」
「…ひょっとしたらなんですが、先生は私を菊花賞に出してくれないのかもしれません…私は父さんと違ってあまり頑丈ではありませんし…3000mを走り切れるかと言ったら否でしょうし…」
「じゃあ秋天狙うの?エフ先輩の真似?」
「おそらくは…」
「そっか。頑張ってね。」
「ありがとうございますアースさん。ところでその足は…」
「あっいい忘れてたけど骨折しちゃった。でも秋華賞までには治すから心配しないで!」
「…もっと重大そうに言って欲しかったのですが、大丈夫そうで安心しました。頑張ってくださいね。」
貴女はそんなところまで父親とそっくりですね、と言いかけた。純粋に褒める解釈もできるがこの場合、皮肉にも罵倒にも捉えられてしまうので、言わなかった。しかし『父親に似ていない』という事が虚弱体質なイクイにとってコンプレックスの一つでもあった。だからある意味、イクイはアースを羨む節があったのかもしれない。それにしても怪我したら引退が示唆されることもあるこの業界では、これほど精神的にタフであるのは凄い事だとイクイは思った。
……
その日、イクイはいつものようにトレセンで自主練をしていた。いつものように同期たちとの食事を摂り、さて練習を再開しようとした矢先、着信があった。
「先生?それともアース?」
そう思って電話に出たが、途端に硬直した。
「どうしたイクイ?また先生がなんかしたのか?」
気の知れた友人であるジオグリフが問いかける。しかしイクイは青ざめたまま動けなかった。
「っておいイクイ!しっかりしろ!何があった!電話代わるぞ!お電話代わりました。って先生か。何があったンスか?」
「おおジオか。実はなイクイの兄…ヴァイスがな…」
……
「どうだった?」
「ダメだ。あれから自室から出てこないわ。期待されてたのにも関わらずダービー2着って結果で落ち込んでいた時にあれじゃあな…」
「ジオグリフさんでしたっけ?イクイくんがどうしたの?」
「アースさんか。怪我は治ったのかい?」
「骨折したんだからまだ治るわけないでしょ?イクイくんは?」
「部屋に篭ってばかりだ。アイツクールぶってる優等生なのに寂しがり屋なところがあるからな…アイツがぼっち飯してたの見たことあるか?そんくらい寂しがり屋だぞ!…まあそんな性格のアイツにこれじゃあな…」
「ジオグリフさん、お願いがあります。」
…
「ここがイクイくんの部屋…」
「アイツの事だから、押し倒したりとかしねえと思うけどよ気を付けろよな。ま、なんかあったら俺がアイツを殴ってでも止めるから安心しろ。」
「殴ってでもって…」
アースは既に決心していた。彼…イクイノックスを助けたいと。
「イクイくん、入るよ?」
「…アース…さん?」
彼がこちらに気づいたようだ。
「すみません…兄さんが…アースさん…貴女は私の前からいなくなったりしませんよね?」
彼…イクイノックスは遠目からはクールな優等生、文字通りの天才少年であるが、彼女…アースの前にいたのはそのイメージと似ても似つかない、弱々しい少年であった。
「私はいなくなったりしない。だから…お兄さんの代わりは無理かもしれないけど…」
「ありがとう…ありがとうアースさん…」
「クス…イクイくんちょっと臭うよ…お風呂行ってきたら?」
(いいねえ…心身が手負いの男女が…イクイとアースさんが良さげな雰囲気になってきたから俺はクールに去るとするか…ん?おいこれ下手な少女漫画より少女漫画してんじゃねえのか⁈おい、誰だこのシナリオ書いたのは!ギャルゲーだと好感度カンストしておこるイベントみたいだぞこれ!甘酸っぺえぞ!砂糖吐きそうになるわ!女子組がこの場に居たらキャーキャー騒ぐくらいのシチュエーションだわ!まあ…イクイのヤツが元気になったのは何より…けっっっっっっして女の子と仲良さげなのが羨ましいとかそんなんじゃねえからな!同期として、親友として幸せになれよこんちくしょう!」
「ジオ?」
「イクイ⁈アースさん⁈…いつからそこに?」
「ジオさんが『幸せになれよ』って言ったあたりから。」
「ジオ…独り言ダダ漏れだったよ…ところで幸せになれよってどういう事?」
「自分の胸に手ェ当てて考えろよ!」