過去と諦念
「それじゃあおやすみ、ゴードン。ご飯、美味しかったよ」
「!…そうか、それならば、なによりだ。おやすみウタ」
そうして10年以上過ごしたもう一人の親とも言えるゴードンに挨拶してから彼女は今日の様子見…悪夢を見たら起こす役であるナミと共に、食堂を出た。この後は半自室の様な医務室へ戻り、チョッパーの薬でそのまま眠るだろう。
よく響く廊下から足音もしなくなった頃、その場にいた全員がホッと息を吐いた。
「ブルック…ありがとう」
「ヨホホ、構いません。そもそも彼女が音楽を愛している者だからこそ彼女をこちらに意識が向いたのですし」
彼らが自然と騒ぎ、盛り上がっていた為にウタは偶然耳にした風に感じた様だが、実のところ彼女が幻聴を聞き始めた時点で気付き、なんとか意思を逸らそうとしたのがブルックの演奏だったのだ。
「しかし、思っていたよりもあの子の傷は深そうだ」
「酷い怯え様じゃったのォ…」
誰もが気付く程に、その時のウタの様子は分かりやすかった。
本人は声を抑えても、スプーンを持つ手は震え皿を鳴らし、その眼はそうして僅かに波立つスープではなく暗闇や化物を見て、目を逸らす事が出来ないとでもいう様に怯えていた。
ただ、幻覚が見えていたなら、視点がおかしい。何か幻聴が聞こえていた方が可能性は高いだろうと咄嗟にブルックは演奏を始めたのだ。結果は先程の通りで、ウタはそちらに意識が向いた。それからは特に何もなかったが…強いて言えば、彼女は今なにより好きだったはずの【歌う事】が出来ない状態らしい。
健康面を見たチョッパーからすれば間違いなく心因性…ではその原因は何か。とまで考えて全員がゴードンを見た。ゴードンもまた10年以上見て来た自分がよすがなのは分かっていた。
「…あの子は何も唐突にああなったのではない。最初は、少し夢見が悪いという程度だった…最近では私にさえ酷く怯えていた様だったがな」
「そうみたいですねェ…久しぶりに会ったとはいえ、ルフィさんにもあの怯えようでしたし…現実を蝕む程、彼女が怯えるものに心当たりは?」
「……最近でその様なことは」
「へェ…まるで昔にはある。とでも言いたげだな」
「っ…」
「!!オッサン、やっぱりなんか知ってんのか?!」
図星を突かれた。そんな反応にルフィはゴードンに近寄る。ゴードンは口を開けて何かを言いかけては、閉じるを繰り返す。
「………それは…それは……」
しかし、やがて
「……あの子は、何も悪くないのだっ」
このままでは、世界の宝だったあの子の歌声どころか…命や心さえも、失われてしまう。それはあの日を誓いを破る事以外のなんだというのか…
そう気付いたゴードンは、決して口外しないで欲しい事をルフィ達に最初に伝えてあの悲劇を話し始めた。
────────────────────
歌いたくない。なんて…自分の生涯で思う日が来るなんて思わなかった。自分は歌が大好きで、歌ったり、歌を聞けば元気になれた。幸せになれた。
周りもそれを否定しない。寧ろ肯定してくれた。「お前の歌は最高だ」って…
その賛辞を、私は純粋に受けとって、いつか世界中が幸せになれたら、って……
なんで、どうして?
どこがおかしかったの?
どこで間違えてしまったの?
何が悪かったの?
シャンクス達を信じきれなかったこと?
海賊を嫌いになっちゃったこと?
配信で海賊嫌いを公言したこと?
そもそも配信を始めたこと?
あの楽譜を歌わなければ…
エレジアに来なければ…
いっそ歌が嫌いだったら…
シャンクスに出会わなかったら…
悪魔の実なんか食べなければ…
違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。もっと前…いっそ、
私なんか……生まれてこなければ
「…タ、ウタ!!…きなさ…起きて!!」
「…ッ…ぅ、あ………?…ナ、ミ??」
まるで冷たい水の中に沈んでいた様な意識を引き上げられたウタは、引き上げた本人であるナミを、ぼんやりと見つめていた。
「大丈夫…じゃないわよね」
「ぅ?……!」
そうそっとナミに頬を撫でられた事で、自分の頬が濡れていたことに気付く。泣いていたのか…私は
「怖い夢…とは違ったみたいだけど…魘されてたし起こしちゃった。ごめんね」
そう優しく言われて、ウタは自分の頬を撫でるナミの手をとって、ふるふると首を横に振った。ナミは、悪くない。
あの日、真実を知った日から、全部自分が悪い気がしてならない。否…事実、自分が悪いのだ。自業自得という言葉が、ずっと頭の中にあって、クラクラ、グルグルして気持ち悪くて、重くて苦しい。
そして似た様な理由で、胸も苦しい。いや、こっちは痛い…だろうか?ルフィに零した通りなら。
でもなによりも…息が苦しい。
大好きな歌で、大勢を不幸にした。
その事実を知らずに、その惨劇を起こした島で、また沢山の人達に歌を聞かせていた事実を知った時…まるで自分が、沢山の屍の上で歌い踊っている悪魔に思えて……
いまや世界の何処にも自分の居場所がない様で、息苦しくて、生き苦しい。
歌う事が、出来なくなるほど。
冷たい海に沈んだ様に。
「ウタ?」
「……さむい」
それしか言わず、ウタはナミの手をとったまま目を閉じた。眠っている訳ではない。何も見たくないだけだ。そんな困らせるだけの反応をしたと自覚するウタに対して、ナミは自由な手で頬を少し掻いたあと…
「ほら、ちょっとつめなさい」
「?」
「寒いんでしょ?…手も離さないならこうした方がいいわ」
そうして狭い医務室のベッドに二人で並んだ。彼女と同じヘアオイルを使ったから、二人分。先程よりも強くオレンジの匂いが鼻をくすぐった。
「…ちょっと安心した」
「え?」
「手を離さないことも、出来るみたいで…それが出来るなら、まだ大丈夫。こっちも…アイツも離さないでくれるわよ」
アイツ、が誰の事か、ウタは説明されずとも分かった。でも、そうなんだ。と安心も出来ないでいる。
なにせ自分が世界で一番信じていた存在に手を離されたから。
そこにあった想いがどんなものか知った今でもなお…否、優しさで離す事がある事を知っているからこそ、不安と孤独への恐怖に襲われ続ける。
だから、もしその時が来た時は…せめて、大人しく諦められる様に…迷惑などかけない様に……ちゃんと離れなきゃ…
ほんの少し、ナミの手を握っていた力を抜きながら、ウタはナミの声に、耳を傾かせていた。