(通り魔だって退けられる。そう、女王様ならね)

(通り魔だって退けられる。そう、女王様ならね)


 夕闇の降り掛かった、けぶるように色彩の曖昧な光景。

 トーンの境目がぼけて、橙と紫と青の混じり合った黄昏時の空の下。

 路地裏の物陰の黒に染み出すようにして、その背骨の曲がった男は立っていた。

 乱れた髪。汚い靴。古びた服。手には鉈。のっそりとした、小動物を踏みつけるような足取りで街路に出てくる。

 ねちゃりとコールタールじみた黒目が、そこにかかった前髪の奥から覗き、粘質の涙が目脂としてまつ毛を固めていた。


「きひ、ひ。にいちゃん、綺麗なツラしてんなぁ。イイ服着てんなぁ。人生苦労なんてしたこと、ねぇんだろうなぁ」


 こつ、と靴がアスファルトを進む。

 どろ、と口元から黄ばんだ涎が顎に溢れる。


 目まぐるしく人々の行き交う観光地の一角に、異常な男が1人いる。

 たったそれだけのことで、グラシア通りの日常風景に楔が打ち込まれ、この場の秩序は破壊された。

 一瞬、動きを停止させた後。老いも若きも堰を切ったように逃げ出し、走り去り、その素振りを見せないのは冴だけだ。

 UVカットのサングラス越しに男と冴の視線がかち合う。男は凄惨とも言える醜悪さを表情に浮かべ、冴は焦りもなくサングラスを顔から外して外套のポケットに引っ掛けた。

 薄い暗黒に覆われていた双眸が姿を現した瞬間、女王様たる者の眼差しを浴びた薬物中毒と思われる異常者が刃を取り落とす。


「あ、あぁ……」


 ふらりと体が傾ぎ、倒れ込むようにして歩みを進める男。壊れた操り人形のように歪な足の動かし方で、何かを求めるように両手に前を出している。

 蒼翠の瞳を剣呑に細め、冴は視線のみならず声にも威圧を乗せた。


「女王様(おれ)の御前だ。止まれ。そして跪け」


 プレッシャーと色香を綯い交ぜにした劇薬を鼓膜と脳髄に浴びた男は、気付けば両膝と手の平を地面につけていた。

 おかしい。ドラッグの使用と、そんな暮らしによる貧困で長年の栄養不足に陥っている男の頭の中に疑問が掠める。

 自分は昔から何一つ上手くいかない人生で、こんなになるまで転げ落ちて。だから今日、遂に目についた幸せ者たちの中で最も恵まれていそうな奴を殺してやろうと決めて来たのに。

 なのに何故、そんな相手の冷えた一瞥に胸が鳴り、命令されるがまま体が言うことを聞いている──?

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