途中経過(10/18 7:50)

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――ほんのちいさな気の迷いだったのだ。


夏の空気が爽やかで。

渡る風が心地よくて。


こんな何もない小さな村でも、

夏一杯に咲き誇るひまわり畑だけは、

都会にも負けない名物だ。


――ちょっぴりだけ回り道だけど、

あのひまわり畑を見ながら帰ろうかな、なんて、

放課後のささやかな企み。


だから、ふと見覚えのある横顔が

目に飛び込んできたのも、

ただの偶然だったのだ。


――あれ、東くん?


××か。

珍しいな、こんなところで。


同級生の東くんだった。

私と同じく、ひとりで帰るところだったようだ。


同級生といっても、話したことはほとんどない。

名前を憶えられていたことに、

ほんの少しだけ驚く。


あ……えっと、少しだけ寄り道というか。

東くんこそ珍しいね。

家はこっちの方なの?


口にしてから、しまったな、と思った。


東くんの家は、この先にある神社だ。

村の人ならだれでも知ってる。

口をきいたことがない私でさえも。


そうだけど。


あ……そ、そうなんだ。

私も家向こうの方なんだ。

途中まで一緒に行ってもいい?


そう。好きにすれば。


……つい、帰りのお誘いをしてしまった。

方向が一緒なのは本当だけど、

適当に理由をつけて別れてもよかったのに。


夏のまだ明るい道を、並んで一緒に歩く。

彼の方が少しだけ背が高くて、

少しだけ歩幅が大きい。


――綺麗な子だ。


わずかに自分より上にある横顔を眺めて、

そんなことを思う。


夏のさなかだというのに、

練絹のような肌には汗ひとつ浮かんでいない。


かといって乾いているわけでもない。

人魚が居たらこんなだろうかと思うような、

不思議なくらい瑞々しい肌だ。


(なにか特別なものでも塗ってるのかな……)


何。俺に訊きたいことでもあるの。


あ……東くんは、帰りはいつもひとりなの?

教室でも人と話してるところ、

あんまり見ないよね。


お前、よくそういうこと本人に訊けるな。

図太いって人から言われないか?


う、そうかも、ごめん……。

今のはちょっと、デリカシーなかった……。


別に。本当のことだし。

噂なんか気にして、

変に気を使われるほうが面倒くさい。


……ねえ、東くん。

あの噂ってやっぱり本当なの?


その……告白した子が怪我をしたとか。

夜中に神社の前を通りかかった人が

変な音を聞いたとか。


ふうん、そういう話になってるのか。

人が知らないと思って好き勝手言うもんだな。


……いろいろ言われたりするの、

いやじゃないの?


どうでもいい。


それに、噂があるから腫物扱いなんじゃない。

特別だと思うからいろいろ言いたがるんだ。

俺が「お手付き様」だから。


お手付き様……。


――この村には、変わった風習がある。

男の子は一定の歳になるまで、

夜のあいだ女の子の格好をさせて育てるのだ。


「七つまでは神の子」という言葉がある。

七歳くらいまでの小さい子供はかよわくて、

すぐに神様に連れていかれてしまうのだと。


特に連れていかれやすいのは男の子。

女の子には魔除けの力があって、

悪い神様や魔物は手出しができないのだという。


だから、夜のあいだは女の子の格好をさせて、

暗がりの悪いものから身を守らせるのだ。

そう聞いている。


ただの迷信だ。

子供を健やかに育てるための、一種のおまじない。

幼いうちの、ほんの短い間だけのこと。


――でも、そうでない場合がひとつだけある。

子供が「お手付き様」に選ばれた時だ。


東くんが住んでいる神社は、

「千手様」と呼ばれる村の守り神を祀っている。


普通の人には、神様の声は聞こえない。

姿を見ることも許されていない。


「人間が千手様の声を聞くと、

怒りにふれて、たちどころに罰が当たる」

――と、村では言い伝えられている。


この村の子供ならみんな、

「千手様の祠には決して近寄ってはいけない」と

言い聞かされて育つ。


けれど、ほんの時折、

神様の声を聴いて人に伝えることができる

特別な子供が生まれるのだという。


神様の声を聴くことができた子供は、

神様のもとに嫁入りして、生涯身を捧げる。

それが「お手付き様」。


お手付き様に選ばれた子供は、

花嫁の証として、大きくなってからも

夜のあいだは女の子の格好をする。


そうやって、自分が千手様に仕える身だと、

他の神様や魔物に示すのだそうだ。


でも不思議だよね。

神様のお嫁さんになるのに、

どうして魔除けをしなきゃいけないんだろう。


大事な嫁に悪い虫がついたら困るからな。

他のやつには触らせるなってことだろ。


やらしいよな。


(笑った……)


ごく一瞬だったけれど、

その笑みには何故か妙に艶があって、

いけないものを見たような気になる。


そういえば、今は男の子の格好なんだね。

まだ日が暮れる前だから?


ああ。

だいたい帰る前に学校で着替えるけど、

暑いから面倒になった。


たしかに、毎日じゃ大変だね……。

でも東くんならなんか似合いそう。

ちょっと見てみたいかも。


そうか。じゃああっち向いてろ。


え、なんで?


なんでって、着替えるんだけど。


えっ、い、今!?


まさかこんなところで、と動揺する私を尻目に、

東くんは鞄片手にざくざくと

ひまわり畑の中に入っていってしまった。


(お、男の子だなあ……)


たしかに背の高いひまわり畑の中なら

外からは見えないけれど、

女子には真似できない大胆さだ。


……心なしか、

衣擦れの音が聞こえるような気がして、

落ち着かない。


――できたぞ。


わあ……


――正直、予想以上だった。


服を着替えてかつらを被っただけの

化粧っけのない顔だけれど、

不思議とそれがしっくりくる。


綺麗でびっくりした……

いつも持ち歩いてるの?


ああ。汚れた時用に2着あるぞ。


そうなんだ……すごいね……。


律儀だなあ、と感心する。

口では面倒くさがるけれど、

決まりを破る気はまったくないようだ。


――じゃあ、俺の家ここだから。


――いつのまにか、神社の前まで来ていた。


うん、今日は東くんとお話できて楽しかった。

また学校で。


そうか。暗くなる前に帰れよ。

くれぐれも夜の本殿には近づかないように。


わかった。ありがとう。


――なあ、××。

さっき、ひとつだけ言いそびれた。


噂になってるのは全部本当だよ。

俺に告白した奴が怪我したのも、

夜の本殿から妙な音がするのも。


お手付きは千手様のものだから、

他の奴が近づこうとすると、

怒って罰があたるんだ。


お前も用心しろよ。

神様は嫉妬深いから。


――そう言って。

ひそやかな笑みを残して、

東くんは行ってしまった。


その夜、妙な夢を見た。





――そんなことがあって、しばらく。


相変わらず学校で話すことはないけれど、

あれから何度か、東くんと帰りが一緒になった。


……うそ。本当は、帰る時間を少しずらした。

偶然ってことにしておけば、

神様も見逃してくれるんじゃないかと思って。




きっと私が神様でも、東くんを選ぶだろう。


その……旦那さん、はどんな人なの?


旦那ねえ。


面白がるように口の端が上がる。


俺の旦那は……そうだな、


……神様って犬かなにかなの?


神様というくらいだから、

きっととても綺麗な人なんだろう。

東くんの隣にいても負けないくらい。


……なんだろう、胸が痛い。


いや、顔は見たことない。


え、どうして?




さあ……どうなんだろうな。

ついてるから男だと思うけど。


つ、ついて……


なんだか大変に卑猥なことを聞いた気がするが、

東くんは何事もなかったかのように話を続ける。


言っておくけど、覗こうとか思うなよ。

お手付き以外は姿を見ちゃいけない決まり、

お前も知ってるだろ。


う、うん。





――この村は、

将来的にダムになることが決まっている。


村の外に行こうって思わないの?


思わない。


なんかもったいないね。

東くんならモデルとか俳優とか、

なんにでもなれそうなのに。


興味ない。


俺は千手様のお手付きだから、

ずっとここにいる。

外には行けない。


寂しくないの?





引っ越し先が決まったのは、

ちょうどそんな話をした日の晩だった。


「これであたしたちも都会の子!」と

妹ははしゃいでいたけれど、

なんとなく喜ぶ気になれなかった。


胸の中がもやもやして、

「少し散歩してくる」と言い残して

外へ出た。


――初めから行先がわかっていたかのように、

自然と足が神社の方に向いていた。


――✕✕?


東くんが驚いた顔でこちらを見ていた。


……夜は来るなって言ったのに。


……疲れているのか、

少し気だるげで色っぽい。

声も心なしか掠れて低いようだ。





襖の向こうから、妙な音がした。


“なにか”が這いずる音。

それから――鳴き声だろうか。


“いる”のだ。

「神様」が。この中に。


“人間が千手様の声を聞くと、

怒りにふれて、たちどころに罰が当たる”


――首の後ろの毛がちりちりする。

“開けてはいけない”と本能が言っている。


私はその襖を――



【開ける】


――開けることにした。




――見るなって言ったのに。


《ハミングする宇宙》

千の手を有する旧い神。

その姿は極めて冒涜的であり、

巨大な腐肉と臓物の寄せ集めに近い。

強烈な思念干渉能力を持っており、

「声」を聴いたものをことごとく発狂させる。



【開けない】


――開けないことにした。





――数日後の夕暮れ、

村に空一面が真っ黒になるほどの夕立が降った。


夕立は川が溢れるほどの間降り続け、

始まった時と同じくらい

唐突に止んだ。


氾濫した河水の後始末に追われていた村人たちは、

すべてが大方元通りになって初めて、

神社の本殿が開け放たれているのに気づいた。


本殿の中は空っぽで、

何があったのかを示すような手がかりは

ひとつも残っていなかったという。


時を同じくして、

彼もまた姿を消した。


捜索届が出たという話も聞いたけれど、

おそらく見つかることはないだろうと

心のどこかで確信していた。


夏休みが終わって、秋が来ても、

教室の彼の席はずっと空いたままだった。

ずっと、ずっと。


――こうして、村で過ごす最後の夏は終わった。


予定通り、翌年からダム建設が始まって、

私の故郷は水の底に沈んだ。


あのひまわり畑も、今はもうない。

彼と過ごした時間や場所も、

遠い記憶の中だけにある。


――夏が来るたびに思い出す。

ひまわり畑を渡る青い風。

透き通るような横顔。


――遠い夏の日に置いてきた、

始まる前に終わった初恋の話だ。



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