逃避行④
初作 逃避行 – Telegraph 2024/1/1
その2 逃避行② – Telegraph 2024/1/7
前作 逃避行③ – Telegraph 2024/1/28
※閲覧注意※
作品を通して、グロテスク、病気、流血、軽度のリョナ、
ネームドキャラ及びモブの死ネタを含みます。
視点変更ありません。今回は比較的 不穏 です。
キャラ同士の距離が近いですが、あくまで友情・親愛・ブロマンスです。
恋愛感情はありません。
文章長いです。
今回、少しだけベビー5の過去について触れています。ご注意ください。
以上を許せる方のみお進みください。
【本文】
探していた青年は、暗い部屋の血溜まりに横たわり、か細く息をしていた。
治りかけの右腕の傷が開いて拘束具を濡らし、手足に巻きついた鎖と口枷、首輪に加工された海楼石が、廊下から差し込んだ光に鈍く反射する。
目を開ける気力もないのだろう。ローは一瞬眉間に皺を寄せ瞼を震わせたが、すぐに諦めたように力を抜いた。
顔や身体には無数の打撲痕と切傷と刺傷。散らばっているのは割れたガラスの破片やナイフ。鞭を持って立ち尽くすジョーラと、ピストルに弾をこめるグラディウス。
なぜこんな事をしたか、なんて、野暮なことは聞かない。
ここで起こったことが全てだ。
「なぜ、ですか、わか―――」
伸ばされたその腕を切り落とす。
グラディウスは息を詰めるように悲鳴を押し殺し、切断された部分を押さえつけた。
ジョーラは既に息をしていない。悲鳴と共に弁解だけを求める彼女の声は、酷く耳障りだった。ひゅるりと糸を操って首を切り落とせば、呆気なく死んだ。
「何故だと?“血の掟”を忘れたかグラディウス」
「さき、に…ッファミリーを、裏切ったのはローだ…!」
「……あァ、そういうことか。そうだな、だが最初に言ったよなァ『帰って来たローを再びファミリーに迎え入れる』って」
「ですがッ」
「つまりテメェらの行いはおれへの背信行為だ。裏切り者は“くし刺しの刑”…昔からそう決まってんだよ」
糸が部屋の四方から伸びる。それはグラディウスの全身を貫き、おびただしい程の赤色を滴らせた。
断末魔が響き渡る。その喉に糸を突き刺す。
声帯を切り裂き、その貫いて皮膚を破った。
裏切らなければこうはならなかったんだ。
“家族”に手を出しさえしなければ。
だが…一度は愛した家族だから、おれは許そう。
その命を以て。
あの日の父のように、ロシナンテにしたように、死を賭して全てを許そう。
グラディウスの背後でローが目を薄く開いてこちらを見ていた。
脱力しきった身体を放り出しローの元へ歩み寄る。血が混じった唾液に塗れた口枷を外し、咳き込むローの背中を支える。
酷い怪我だが、すぐに治療すれば命には関わらないだろう。
糸人形に医者のぬいぐるみを連れて来させるか。
背後からカタリと扉を引く音がする。悲鳴に反応した誰かが来たのか。
息を潜めて顔をのぞかせたのは幼い影だった。
「グラディウス!どうしーーーひッ!…ぁ、え…?」
「シュガーか、丁度良い。あのぬいぐるみをローの部屋に連れて来い。清潔なタオルと医療キットもだ」
「ッあ…え、……は、い、若様」
顔を青白くさせ視線を彷徨わせたまま、逃げるように姿を消す。子供特有の軽い足音が遠ざかりローの掠れた呼吸だけが響く。
沸々と、怒りが収まらない。
いつまでも反抗心を手放さないローも、ローを殺そうとした幹部も、死に怯えたシュガーも。
チィッと舌を打ち、ローを抱えて彼に与えた部屋へと向かう。途中で出会ったセニョールに二人の遺体の始末を押し付け、黙々と廊下を進む。
あの国を鳥かごで消し去り、空島へ移転してから既に3ヶ月が経過した。ローの仲間も既にいない。おれのファミリーも、残ったのはシュガーとベビー5とセニョール、そして先程殺した二人だけ。ドレスローザでほとんどが帰らぬ人となった。
苛立ちのままにドアを開け、ローの部屋に踏み込む。およそ8畳の部屋にぽつりぽつりと置かれたベッドとソファとローテーブル。持ち主に開けられたことのないウォークインクロゼット。部屋にあるもう一つのドアは、トイレと簡易的なシャワールーム。
さあ、ぬいぐるみが来るまでどうするか。
首輪はそのままに拘束を外した。出来る限りの処置をしておくべきだろうか。脚や腹部の銃創から血が流れ続けている。ガラス片も摘出する必要がある。
血に塗れた服を緩めていると、思いがけず力強い手のひらに阻まれた。伸びた爪が皮膚を突き刺す。
手を止めてローの様子を窺う。ゆらゆらと焦点の定まらない視線が、流れ出る血をぼんやりと見つめている。
瞳は仄暗く陰り、切れた唇に血が滲んでいた。
「…治さなくていい」
「……あ?」
「このまま殺せよ…もう、おわりに、ッ」
『いたいよォ父上…!もうしにたいよォ!』
「…聞こえねェよ」
あの日の炎が視界の端にちらつく。
幼いロシナンテの必死の懇願が耳を焼く。
ローの顔の下半分を鷲掴みにして持ち上げれば、痛みに眉を顰め口元を引き結んだ。
痛みか、恐怖か、脱力しつつもふるふると小さく震える身体。抵抗はない。
なぜ抵抗しない。
いつもそうだ。父上もロシナンテもヴェルゴもモネも。
誰一人“生きたい”と言わない。“死にたくない”と言わない。
みな笑って命を散らしていく。
『おれは死なねェ…!』
「死にたいか?」
『なにをされても生き延びて…』
「残念だったなァ、ロー」
『おまえらを一人残らず殺しに行くからなァ!!!』
「おまえは殺さない。ハートの席も、コラソンも、不老手術も、もうどうでもいいさ」
糸を手繰る。
一本の細い、透明な糸。
いつか耳にした昔話を思い出す。
地獄に落ちた男が、昔気まぐれに助けた蜘蛛に救いの糸を垂らしてもらう話。
その先は天国に繋がる。
男を先頭に、地獄の住人たちが糸にしがみつき、それを蹴落とした男は仏に糸を切られ地獄に戻ったのだ。
お前に救いは与えない。
おまえがおれを許さないように、おれはおまえを許さない。だから殺さない。
生き地獄とやらを味わって、おれと共に生きようじゃないか。
「おまえは無力なまま生きていればいい」
どんなおまえでも“愛して”やるよ。
糸が右腕に絡む。二の腕の傷にゆるりとまとわりつく。
腕の肩の方を音が鳴るほど締め上げると、意図に気がついたローが抵抗を始めた。
自由な左腕がおれの腕に爪を立て、両脚が胴を狙って蹴り上げられる。
余りにも稚拙なそれが憐れで滑稽で…愛おしい。
手を離せば、右腕から吊り下げられたローが歯を食いしばってこちらを睨んでいた。
心なしか光の戻ったように見える瞳に、不思議と喜びが湧き起こる。
それでこそトラファルガー・ロー。
だが、だからこそ、その熱いハートを砕かせたくなる。
さようなら、おれの“右腕”
ごきげんよう、愛しい“弟”よ。
絶叫は新たな生の産声。
流れ出る血液は命の象徴。
カーペットの白い毛が赤く染まる。くずおれた身体を胎児のように丸くして、張り裂けんばかりの悲鳴を染み込ませている。
かつての仲間を己の血で汚しながら、ローは耳に痛いほどに叫び続けた。
「…は、ふふはッ、フッフッフ…!あァ、いい格好になったじゃねェか」
「ッあ゛ああ…ぐ、ぅう…ッ!」
「あァ痛いか、可哀想になァ。だが仕方ねェさ。それは罰なんだ。おれに楯突くおまえへのな」
宙に残された腕を掴み、そっと手のひらへ口付ける。
“コラソン”はもういらない。都合の良い時にばかりおれを“王”と煽てる奴等も既にいない。仮初の“家族ごっこ”は終わった。
30数年を共にした鳥かごは消えた。
国も、“ファミリー”も、おれを縛るものはなくなったのだ。
ローの腕を糸に変え、小さな毛糸玉のようにしてコロコロと弄ぶ。
覚醒したおれに呼応するように、イトイトはその進化を止める事を知らない。建物だけでなく、人間さえおれの意のままとなる。
もう少し早くこの力に目覚めていれば、ローのクルーをもっと良い方法で諦めさせられたかも知れないのに、惜しい事をした。
悲鳴と呻き声が小さくなって、荒い呼吸へと変わる。
出血と痛みで意識を失ったのだ。
ドレスローザ以降、食事にもろくに手をつけずローは部屋に篭りきりだった。深い隈と刺青を除けば、筋肉がつきつつも細身だった身体は貧弱に薄くなり、背の高い普通の青年のようになっていた。
武器を失い、能力を封じられ、仲間を見殺しにした。
可哀想に。と吐息だけで笑う。
もう戦う必要はない。おれがおまえを守ってやるさ。
死(許し)のない鳥かごの中で、永遠に。
「ロー!」
「…若様、連れてきたよ」
タオルを抱えたベビー5がローを慎重に仰向けに転がし、涙を湛えて口元を押さえた。
シュガーの足元にいたぬいぐるみと人形が駆けて来る。
「うで…若様、ローの腕はどこですか…?」
ベビー5がハッと顔を上げ、震えた声で問いかけてきた。
ぬいぐるみが救急箱を漁り、ピンセットと消毒液、脱脂綿を取り出している。人形はローの服を静かに取り払うと、何かを探して辺りを見回しているようだった。
人形の様子を見て、ベビー5はおれに聞いたのだろう。
ローの“右腕”…これを返す必要はない。
手の中に糸玉を握り込めベビー5を見下ろした。
「ローを死なせるな。おれは出かける」
「ッ若様がやったの!?ローの腕を!どうして!?」
「どうしてだと?……理由なんざねェよ」
ベビー5が怒りと悲しみを乗せた瞳でおれを映す。
口が開いては閉じ、瞳がおれとローを交互に見遣る。そのうち、形のいい唇はきゅっと引き結ばれて俯いた。
これ以上の会話はいらないだろう。ベビー5の横をすり抜けドアへ向かう。
シュガーが廊下に背をもたれてしゃがみ込んでいた。葡萄のはいったカゴを抱え、おれを見上げる。
「わかさま…」
「あのぬいぐるみは逃すな。今までで一番腕がいい。ローの主治医にしろ」
「わかりました。…あの人形も一緒でもいい?2人一緒じゃないと動かないの」
「勝手にしろ」
シュガーを背に一人廊下を進む。人気のない場所まで行き、天井近くにつけられた格子を嵌め込んである窓から外を覗く。
一面の雲海と沈みかけた夕陽。
湖と白樺の森。
向日葵と薔薇の花園。
「……おまえは許さない」
スルリと格子の隙間を通り抜け、外へ飛び出す。
腕を糸へと解き、肩甲骨と背筋を作り変えて翼を作り出す。
雲の地面に脚をつける前に、風を含むように地面に叩きつければふわりと身体が浮いた。そのまま雲の切れ目へ向かう。
目下にある遠くの島では黒煙と炎が揺らめいている。
地上では争いが絶えなかった。
五十億の悪魔の実を求めて。
或いは「SMILE」を求めて。
支配を、金を、自由を、安心を求めて。
力ある者は海賊に。弱き者は陰に生き、弱きを守る海軍はそいつらに殺される。
生きるには荒廃し過ぎた世界。
『3年以内にたくさん殺して…全部ブッ壊したい!』
「叶ってよかったなァ…全部おまえがやったんだぜ、ロー」
背中を押すように煽る風。
分厚い雲を突き抜け、一羽の鳥も飛べない強風を裂くように重力に身を任せる。
「取引」の時間だ。
新しい工場の様子も見に行かなければ。
この世界はまだ壊せる。その余地がある。
誰よりも天に近い場所で、終焉を見届けようじゃないか。
地獄に生きるおれたちの手で。
「よくここまで持ち直せたものだ」
「まァ、優秀な労働力が残っていたからなァ」
おれたちが暮らす空島の、少し離れた場所に工場はあった。
生き残りのトンタッタをかき集めれば、「SMILE」工場の再建など訳ないことだった。
工場の様子をまとめた紙束と、ようやく実り始めた「SMILE」を土産に渡す。
あの国が崩壊してからの一番大きな問題は“四皇”カイドウとの取引のこと。工場がなくなれば「SMILE」は作れない。下手を打てば抵抗虚しく殺されるのは分かっていた。
最強の生物と称される男にかかれば、七武海の一人であろうが首を取るのは簡単だ。
壊滅して間もないドレスローザにジャックが来た時は驚いた。
彼を味方につけるのは骨が折れたし、電伝虫を借りてカイドウに繋げて貰った時は生きた心地がしなかった。
結果的には、こうして今も生きていられるわけだが。
元々「SMILE」は、おれとカイドウとシーザーが手を組んで作り始めたものだ。どこか身内に甘いこの男はおれの生存と勝利を喜び、新たな土地と工場と設備をも補充したのだった。
おれからの報告とジャックの証言。そして世論。
カイドウが知っているのは、ドレスローザという国が、同盟を組んだ“麦わらの一味”と“トラファルガー・ロー”に攻め込まれ、“仕方なく”おれの技で滅ぼされた事。
そして「SMILE」工場を破壊しようとした両船団の全滅。
百獣海賊団にとって不利益をもたらす異分子は、既に“おれによって”排除されているわけだ。
つまり許されたというよりは、差し引きゼロというのが正しいだろうか。
「で、テメェの部下はどうよ?」
「あァ、…ついさっき“裏切られた”ばかりさ。ちゃんとケジメはつけたが、残ったのは“3人”だけだ」
「ウォロロロロ!そうか!なら、そいつらも連れてワノ国に来いよ。テメェなら“真打ち”くらい簡単になれんだろう」
「そいつはありがてェ…けど、おれ達はあの家を気に入ってるから遠慮するぜ。気持ちだけ貰っておくさ」
「そいつァ残念だ。まァいつでも歓迎するぜ」
残念と言いつつ、そんな感情を乗せず、カイドウは静かに言った。
この男は少しおれに似ている。…気がする。
だが、おそらく分かり合えることはない。だからローのことも言わない。
おれ達はワノ国では生きられない。
だがそれでいい。“ファミリー”さえいればいいのだから。
かつて自分によく似ていたローさえいれば。
逃げられないように、丁寧に、その羽の一本ずつを引き抜いてきた。
仲間を殺した時のローは見ものだった。ずっともたれていた胃が、喉の奥を塞いでいた汚泥が消えていくような心地がした。
あの懇願も、悲鳴も嗚咽も、涙も、あれ以上に甘美なものはないだろう。
それらはもうおれだけのものだから。
「やけにご機嫌じゃねェか」
「そうか?…愛しい“家族”を思い出してな」
「ウォロロロロ!恋しくなっちまったか、天夜叉ともあろう者が!?なら取引の時間は終いだ!」
「そうだな。また連絡をくれ。すぐに飛んで来るさ」
客間を後にする。障子を開け、転落防止の欄干に飛び乗る。
来た時と同じように翼を作っていると、カイドウがおれの名前を呼んだ。
身体を向け黙って続きを促すが、なかなか話そうとはしない。
殺気もなく、しかし何か考えている素振りもなく、カイドウはジッとおれを見ている。
「……テメェは今、自由か?」
いったいなにを言い出すかと思えば。何か意図があってのことかと眉を顰めるが、読み取れはしない。
だが、ハッキリ言える。おれは自由だ。
おれを“王”としていた最高幹部はいない。失いたくないものはそばにある。
頬が、唇が吊り上がった。
肩を震わせ、くつくつと笑い声をあげる。
「あァ自由さ、これまでになく…!」
「そうかよ。じゃあまた連絡するぜ。達者でな」
言葉を背に受け、数メートル駆けて地面を蹴り飛ばす。風を巻き起こす。
自由を望めば、もう誰も止められない。
終りを迎えるその時まで。
黒髪をなびかせ、血を滴らせ、愛した少女が走り去る。その手には、シーザーがどこからか手に入れ、押し付けてきた“ヘルメス”が握られていた。
あの方向は喜ばしくない。彼女はローにアレを使うつもりだろう。
足止めさえできればいいと伸ばした糸は、鉛玉と剣に阻まれる。
目の前には信頼を寄せていた男と、地上からどうやってか辿り着いた最悪の世代の一人。赤旗。
思ったよりもやるようだ。
重症を負わせ、後で尋問するために糸で縛る。
駆け付けたシュガーに後を任せ、ベビーを追った。
重厚な扉は鍵が破壊されている。防音仕様の部屋の音は何一つ聞こえない。
だが、ベビーはここにいる。確信がある。
“裏切者”だ。残ったのはシュガーだけか。
心は凪いでいる。指先に糸を纏わせ、扉を開けた。
激しい機関銃の唸りを糸で切り裂く。
光に透けるローは、まるで御伽噺の青年が天に昇る瞬間のようだった。どくり、と心臓が大きく波打つ。
つまり、それは焦りだった。短絡的な攻撃。糸を鋭く、直線に伸ばした。
ローが身を竦める。ベビーがニヤリと口角を上げた。
さも、計算通りと言いたげに。
ローへの願いと愛を叫ぶ。
薄い身体の向こうでローの姿が小さな光の粒となって消え去る。
苛立ちに任せて糸を引き抜けばベビーは力なくよろめき、耳障りな音を立てて倒れ、鳥かごに背を凭れさせて項垂れた。
口紅に交じった血が顎を伝い落ち、荒い呼吸と湿った咳が部屋に響く。
言葉が出てこないおれに、ベビーは笑いかける。
「…にいさま…じゃない、や。わかさま…うらぎ、て、ごめんなさい。…わたし、わかさまのこと、だいすき、だった。でもローは、おとうとで、おにいちゃん、で、ローのことも、たいせつだったの。ね…わかさま。もう、ローをくるしめないで。じぶんを、きずつけるのは、やめて。おねがい、わか、さま」
大きな瞳に涙を浮かべ、ベビーは掠れた声で訴える。
わかさま。そうかつての愛称で己を呼ぶ声に、息が詰まる。
ぐ、と唇を引き結び、ベビーの言葉に耳を傾けた。
「あのね、わかさま…いまなら、おかあさんのきもち、すこしわかるの…。わたしを“いらない子”って、むらをおいだしたの…きっと、いまのわたしと、おなじ……すこしでも、いきられる、かのうせいがたかいほうにって、おもったんだね…」
ぽろ、ぽろ、と小さな滴が筋を描いて頬を濡らす。少しずつ閉じていく瞳が、命のタイムリミットを現していた。
ハの字に下がった眉と、安心したように微笑む顔が、銃口の先で微笑む父に重なる。
『私が父親で、ごめんな』
「ごめんね、わかさま」
最期の微笑みは、やはり父に似ていた。
この苦しみから解放されると、心残りがありながら、生きることを手放した者の顔だ。
鳥が消えたかごだけが残った部屋は、あまりにも静かで肌寒い。
まだ幼さが抜けきらないベビーの頬に手を添え、涙に冷えた頬をそっと拭った。
長い睫毛と、まろい輪郭、ふっくらと形の良い唇。幼いころから愛らしい少女だった。
素直で、人を簡単に信じてしまう危うさも、強かさも、決して悪いものではなかった。
「…… 」
ほんとうのなまえ。行く宛のない初めての音が、暗い部屋に吸い込まれて消える。
手に力を籠めれば、触れた場所から身体が解けていく。
小さな糸玉。片手に収まるそれにそっと口付ける。
まだほんのりと温みを持つそれを、そのまま口に含んだ。
ごくり、と喉が鳴る。
たいせつなものは宝箱の中へ。
失いたくないならずっと一緒にいればいい。
切れた糸を堅結びにして、解けないように。
「ローを苦しめるな、なんて、おかしなことを言う。“裏切者”には正しい罰を…お前もローに会いたいだろう?」
既に失われた命に問いかける。
鳥かごの中で、“ヘルメス”が光を失った。
了
最終修正 2024/2/18
初作 逃避行 – Telegraph 2024/1/1
その2 逃避行② – Telegraph 2024/1/7
前作 逃避行③ – Telegraph 2024/1/28