逃げ帰った白兎

逃げ帰った白兎

#黒崎コユキ #ハンドマッサージ #オイルマッサージ #オイル!?エッチなのはダメ!死刑!


 趣味がいいとは言えない配信から丸一日、コユキが保護されたという連絡が届いた。

 その数時間後、コユキが脱走したという連絡が届いた。

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“こんなもの頼んだかな?”

 郵送されてきた身に覚えのない紙袋を受け取ってシャーレに戻る。机に紙袋を置いて仕事に取り掛かろうとした途端ドアが開き、ぐずぐずと鼻を啜る音が聞こえる。何事かと振り返ると、コユキが立っていた。

 息も絶え絶えで、普段の悪戯っ子の面持ちはどこにもなく、怯えた仔ウサギのような面持ちでドア枠に寄りかかっている。ここまで走ってきていたのか、膝もガクガクだ。

“コユ……”

 キと言い終わらないうちに飛びつき、抱きついて、ぐしゃりと表情を崩し、コユキは泣きついてくる。

 強く固く抱きしめられているというのに、細かく震えるのが伝わってきたものだから、何も聞かずに抱き返す。……少しだけ、震えが治まったような気がした。……熱い。子供の体温だ。

「……うぅ、うおぉーーん!!死んじゃうかとっ、おもっ、思いましたぁあーーー!!こわかった!こわかったよぉおーーー!!」

 堰を切ったように大泣きし始める。よかった。

 いや、まったくもってよくはないのだが、大声を出すだけの元気は残っているのは、恐怖に挫けて塞ぎ込んでしまうよりずっといい。涙を流すのもストレスの発散になる。

 背中をさすって、時々、トントンと叩いてやりながら落ち着くまで待つ。涙と鼻水で上着がべちょべちょになったあたりで、コユキは顔を上げてキッとこちらを睨みながら捲し立て始めた。

「聞いてくださいよ先生ぇ!あの人たち、インフォームドなんとかとか言いながら、ぐすっ……目の前で頭の模型ぐちゃぐちゃにしたんですよ!?『これからねぇ!君にはこんな手術をしちゃいます!』って!信じられますか!?ひぐっ……悪趣味にも程がありますよぉ!びぇええええん!!」

 そうか、この子は私たちに見えない所でも……。

「先輩たちも酷いんでず!私、みんなが喜ぶと思ってぇ……!頑張って潜入したのにぃ!ずっと怒ってるんですよぉぉぉおお!!」

 それは、当然だと思う……。身内が黙って出て行って次に目にしたのが公開処刑じみた配信画面からだなんて誰だって驚く筈だ。

「ずびっ……ずっと目隠しとヘッドフォンつけられてて……『外したら帰れなくなるから、ぜってえ外すなよ』って……すんっ、脅されてぇ!視界の自由もなくってぇ……!うわぁぁぁん!!」

 それは……むしろ優しさなのでは?

 だめだ、喋ることはできているけども錯乱している。まずは落ち着いてもらわないと……。

“……?”

 ふと、つい先ほど送りつけられた物の中身を手に取る。紙袋の中には小さな冊子と……これはなんだろうか?疑問に思い、コユキを撫でながら冊子を開く。


『これを読んでいるということは、これを読んでいるということだね先生』


 トートロジーだ。

 読み進めると、どうやら例の配信をしていた2人が、固形のマッサージオイルを私宛てに作った、という内容だった。砂糖は使用しておらず、念のため嗅いでみるといい、と書かれている。

 ……砂糖の検知器は通してあるので、一応、書かれた通りに臭いを嗅いでみる。……無臭だ。

 冊子のページをめくる。


『バカめ!手で仰いで嗅ぐんだよそういうのは!』


 悪ガキが……。


『乾燥する時期だ、ちょうど必要になると思ってね。2人で同時に使うなら二欠片使うといいぞ先生』


 ……なるほど。

“コユキ。ちょっと時間、いいかな?”


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 上着を替えて、ソファーに座った先生に背中を預け、折り重なるようにして私も座る。そうだ、頑張ったんだから、このくらいのご褒美は当然だ。ぐりぐりと頭を押し付け、胸元のあたりに匂いを擦り移して甘えてやる。

「先生、だから先輩がひどいんですよ!私はちょーーっとだけ慰めて欲しいだ、け……うぁ……」

 文句を続けようとすると、手が、程よい強さで揉みしだかれる。肌が触れ合った途端に指先から背中まで甘く痺れて言葉を失う。

 大きな大人の手、ごつごつした男の人の手。細くて小さい子供の手、滑らかでしなやかな女の手。オイルにコーティングされて、ぬるつく手と手、指と指が絡み合う。

 指にはたくさん役目がある。引き金を引いたり、キーボードを叩いたり、トランプを切ったり日常の色んな場面で活躍するから、人体でも特に鋭敏で、感覚が鋭い。

 そんな敏感で大切な部分を、好き勝手に触られている。だというのに……。

「んっ、ふ……」

 くすぐったくて、思わず声が漏れる。

 全体を大まかに揉んでいたのと打って変わり、今度は指を一本ずつ握るようにしてマッサージされる。ぎゅうぎゅうと手の角度を変えて色んな方向から握られ、親指で指圧される。プレッシャーとリリースの単調な繰り返しが心地いい。

 ただ、丁寧に揉んだ後、優しく摘むくらいの力で挟んで、指の根本から先まで撫でるみたいにするのは本当にくすぐったいからやめてほしい。ぬるりとした先生の親指が、私の指の上を滑るたびに辛抱たまらなくて足先までモジモジしてしまう。

「あっ、ん……ふぅっ……」

 くすぐったくて、声が漏れて、強張りが緩んで、緊張が解ける。あんなに大きな声を出したからか、ぼんやりする頭は、ただただ、手のひらに伝わる熱と、オイルの音と、筋肉が揉み解される刺激だけを処理している。

 身体の力が抜けて先生に深く沈み込む。頭の後ろに、先生の拍動を感じる。あんなことがあったのに、体重を預けて、呼吸すら忘れてしまうほどに油断してしまう。

「くあぁぁ……」

 忘れた呼吸を補うみたいに、大きく、あくびをする。……眠い。寝たい。瞼が重い。全身が、溶けてしまうようで……。手と手が、肌と肌が、繋がっている安心感が、意識を、甘ったるく、崩していく。先生は、ずっと黙っている。呼びかけられないから、頭が微温く溶けていく。

 二つの手が絡み合う。武器を持たない、空っぽの手が、お互いを手中に収め合う。

 何回も擦り込まれる。まるで、この手は私に危害を加えないことを、教え込むみたいに。


……ああ、そっか、そうか。もう大丈夫なんだ。なぁんだ。


 そうやって、ひとしきり安堵した私は、なんの躊躇いもなく意識の手綱を手放して、微睡の中に深く沈んでいった。




その後『以前のような情勢ではないのだし、今回は本当に運が良かっただけで死んでしまっていてもおかしくなかった。皆んなコユキのことを本当に心配していたから怒っているんだよ』『それに勝手に出て行ってシャーレに来たこともちゃんと謝ること』とこってり叱られたコユキでした。


なお後日、オイルマッサージにどハマりしたコユキは定期的にぐずっては先生のもとに通い、手とか耳とかをモミモミされていたそうな。


また、コユキがいつまで経ってもやたらに先生に泣きつくので、それを心配したユウカはミレモブのところに乗り込むのでした。

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