赦すもなにも
性と愛の境目はどこだろう。
まあるい後頭部を見遣りながら、らしくもなく哲学的なことを思った。
「寒いからそっちに行ってもいい?」と無理矢理コートに潜り込んだ小さな体はおれの性も愛も一身に受けている。
泣き喚いても構わず嬲りたいと何に換えても守りたいが混在してしまう体を間近に感じながら、本当にどうしたものかと顎に手を当てる。
黒いコートの下、おれの腕とわき腹にぴったりくっついて暖を取りながら、ローは手に入れたばかりのレポートを読み耽っていた。
医学書もいいが、最先端の技術や薬の情報を手に入れたいならこっちだと、どこかの学会から失敬してきたというレポートを片手にほくほく顔をしていた。手癖の悪いガキだと言えば、今後の医学の発展に貢献するためだとかもっともらしいことを言い返す。べっ、と出した舌の赤さに目を奪われている間にコートに潜り込まれてしまった。
そして今に至るのだ。
寒いなら自分の部屋に帰れとか、べポで暖を取れとか、突っぱねる理由はいくらかあったのにおれは渋々といった顔を装って体温とコートを分け与える。
新しい知識を吸収していく横顔を見ていると、どうしようもなく相反した感情が己の内で渦巻くのだ。傍から見たら呆けているようにしか見えないだろう。しかしこういうときおれはおれの感情で手一杯になる。
そんなだから感情を一個一個見つめるのだ。そもそもローを愛したのはいつからだっけ、と十数年前に思いを馳せる。
幼い頃からふとした瞬間に老成した雰囲気を纏うところが好きだった。ローの持つ聡明さと壮絶な過去が醸し出すのだろうか、何年も生きているのではないかと思わせるこの雰囲気を尊敬すらしていた。
自分の考えを筋道立てて論理的に説明できるところが好きだった。おれは子供がそう得意ではない。子供嫌いと言われていたのも半分は当たっている。脈絡のない思考と突飛な行動についていけなくて、相手をしていると疲れ切ってしまうのだ。ローは子供なのにかなり行動に理屈が伴っているタイプで、二人旅が苦痛でなかったのはこの性格に依るところが大きかったと思っている。
横で動く気配がして思考が現実に戻る。何かに頷いたらしいローの後頭部が揺れていた。膝を抱えてレポートを読み込んでいくときに、たまにむいっと唇が尖って可愛かった。子供の頃にはなかった癖だ。
いつから愛していたかを考えていたのに、遡ると明確な心の分水嶺は見つからない。ローと行動を共にする間にじわじわと育まれていたものだと混ざり合った境目に気付いてそう結論付けた。
集中しているらしく隣のローが瞬きすらせず書面に見つめ合っている。おれの横でそんなに無防備に何かと向き合えるなら、いくらでも貸してやると慈愛に近い思いが芽生えた。
ローのどんなところを好ましく思っていたかをぽろぽろと発見してしまう。昔と同じで、体中がアンテナになったみたいにローの一挙一動を観測してしまうのだ。同時に忌まわしいほどにローを邪な目で見ていることも、向き合わなければいけない事実だった。
かつて許されない感情だと思って封じていた中から好意が溢れ出る。それでもおれはローに何もしてはいけない。
「コラさんってほんとに私が好きよね」
紙束を置いてローがこちらを向いた。慌てて視線を逸らそうにももう遅い。
「ずっと見てたでしょ。ほら、観念なさい」
帽子の先を引っ張られて、下を向かされる。どうせ知られていることだが、面と向かって確認を取られると恥ずかしかった。
「どうせ私が大事だから何もしたくないって考えてるんでしょ?」
図星を指されて唇を噛む。分かってるならそっとしといてくれと、反論の声に力はなかった。
「ねえ、コラさん。最近昔のこと思い出したんだけど聞いてくれる?」
帽子をまだ引っ張りながらこっちを見ろと促される。昔ってどれのことだと「母様がね」と前置きされた。本当に、おれも知らないローの昔の話だと息を呑んだ。
「むかし、母様が言ってたの。好きになるってどういうことか訊いたときに答えてくれた」
普段この手の問答になるとローは最後の最後で加減する。おれに無理強いするのを避けているのだ。だからおれはいつも逃げおおせることができる。だが今日のローに加減する気配はない。
「貴方を大事にしてくれる人を見つけて――――」
頭の中で警鐘が鳴る。逃げられないやつだと分かっていても、目が離せなかった。だってローが真剣におれに話しているから。おれなんかに、言葉を尽くして、誠意を持って話している。
「貴方が大事にしたい人を選びなさい――――」
母親の言葉をそらんじてローが腕を広げた。
「見つけた」
甘く囁いた唇が頬を啄んだ。離れようとしたそれをすかさず追って、自分の唇と重ね合わせてしまったのは、もう反射にも近かった。おれも見つけたと告げた声は、許されたいという願いで濡れていた。大事にするから大事にしてくれと、性も愛もないまぜになった心が訴えた。
細い腕が自分の首に回る。まるでそれは柔らかな檻のようにおれを捕らえた。