赤と朱
女二人のバルコニーにて紫煙が立ち昇る。
夜半の月の下、到達しきった魔術師たちが意味もなく夜景を眺めていた。眼鏡を掛けた女───蒼崎橙子は煙草をくゆらせ、隣に佇むモノクルを掛けた女───ルーズ・ペリゴールに紙の箱を差し出した。
「吸う?」
「要らん。それクソ不味いだろ」
「あなたのだって似たようなものでしょ?」
「吸いたくて吸ってるわけじゃない」
それだけの会話をしてから沈黙が訪れる。差し出された煙草をあえなく跳ね除けたルーズは何をするわけでもなく遠くを見ており、橙子は紙の箱を懐に仕舞った。暫しの時の流れのあと、ふとルーズが橙子の方を向く。
「本当に終わらせたんだな」
「………そうね」
その言葉の意味を知る者は限られている。当事者たる蒼崎橙子と『馬鹿』という愚直な魔術師、事後処理をしたルーズ・ペリゴールとその一味、そして巻き込まれた略奪公とその内弟子。一連の事件において橙子が肉体を入れ替える事態に陥らなかったことは奇跡に等しく、またその奇跡をいたって物理的な手段で行使する馬鹿の尽力の賜物でもある。
むしろ奇跡は馬鹿が今もなお存在を許されているという点について使うべき言葉なのかもしれない。とルーズは思った。
「気になることは色々あるが今更問い詰める気はない。それはお前と馬鹿だけが共有すべきモノだろう。同胞にも深入りしないように言いつけてある」
正直なところルーズは馬鹿の真名を知れるなら知りたかった。しかし元々の信教故にそれがどれほど畏れるべき行為かを理解し、またそれを橙子にだけ伝えた馬鹿の意向を汲まないほどの無粋は果たすべきではないと理解もしていた。
「感謝するわ。伝承科との折衝も大変だったでしょう?」
「伝手を頼ってなんとかしたよ。自分が政治なんて煩わしいことにかかずらうなんてフリーの頃は考えもしなかったな」
「そういう割に結社の運営は上手く行ってるようね。いっそのこと時計塔から引き抜きとかしないの?」
無論、冗談である。ルーズの「勘弁してくれ」と言いたげな表情を見て橙子はほくそ笑んだ。
「ただでさえあちこちのドロップアウト組に声を掛けたり霊地の確保をして伸ばしてるんだ。下手をやらかしてカリフォルニアのコンペティションと手が切れたら少々不味いことになる」
「どこかの平行世界で見た一族のようにはなりたくないって言ってたわね」
「あそこは狼煙を派手に上げすぎて壊滅したからな。そうまでした理由については否定せんが結果から学ぶことはある」
「他山の石ね。希望こそ人の原動力とはいえよくそこまで頑張れること」
「人類が星から飛び立てばそれで生者としての俺の仕事は終わる。それまで気は抜けないからな」
そこまで話すとおもむろにルーズは片手を振り虚数空間からコップを取り出した。氷水を飲んで一息ついたあとコップを橙子に差し出したが、橙子が「いえ、結構よ」と断ると手を引っ込めてコップを虚数空間に放り込んだ。そしてとりとめのない会話は続く。
「それで、馬鹿の調子は?」
「実家で療養に入ってたはずなのに昨日いつの間にか部屋にいたから窓から放り投げたわ」
「元気そうで何より。お前は? 体を入れ替えたりはしてないよな?」
「おかげさまでその必要はなくなったわ。こういうことに関してあなたの右に出る魔術師はいないもの」
「なら重畳。フランスで死徒に食われかけた人間を治した次くらい気を張った甲斐があったな」
「18世紀の話だったわね。永遠を求めた司祭と恩讐の炎の話」
それから暫く思い出話を重ね夜も更けてきた頃、一期一会について論じていた時突然ルーズが橙子の方を向きいつになく真剣な表情をして問いかけた。
「で? いつ結婚するんだ?」
「あのねえ………」
橙子はいつもの揶揄いかと思い大きく溜息をつきながら振り向くが、本気の問いだと察した橙子は一度目を伏せ少しの沈黙を挟んでから、顔を上げ目を合わせて口を開いた。
「まだそういうことは考えてない。でもいつかその日が来たら招待するわよ」
「そうか。なら夢を果たしてもそれまでは生きていよう」
ルーズは再び視線を夜景に戻し、街明かりから垣間見える人の営みを慈しむように目を細める。
ゆるりと時が過ぎゆくなかで、その会話を聞いていたのは昇る紫煙と月明かりだけだった。