誕生日は母と写真を撮る日

誕生日は母と写真を撮る日


【花寺雅海】


──拓海ぃ……


 少し甘えたような高い声で、彼女はその名前を呟いた。

 それは俺の父の名前。俺にとっては一度きりしか逢ったことのない、素顔も知らない「香辛料売りさん」の本当の名前。

 そして、彼女……品田ゆいさんの、夫の名前。

 俺は父の素顔をアルバムでしか見たことがない。そしてアルバムにある父は、いつも彼女……ゆいさんと共に居た。

 二人が幼い頃から、そしてお互いに大人になって結ばれても、ずっと……



 とある日の昼下がり。自宅の縁側に横になってうたた寝をしているゆいさんを見つけた。

 穏やかな春の日差しに照らされた彼女の姿は煌めいて見えて、でも、ここに居ない誰かを求めて縋るようなその寝顔が悩ましくて、俺は目を離せなかった。

 始めは起こそうかとも思った。でも連日の店の仕事で疲れが溜まっているのは知ってたから、そっとしておきたくて、隣の部屋から持ってきた毛布をその体にかけた。

 すぅ、すぅ、と静かに寝息を立てるその顔は、幼い頃に初めて出会ったあの頃と全然変わらないくらい若々しくて、綺麗で、そして……無防備だった。


──キスをしても、起きないんじゃないか?


 ふと、そんな魔が差した。寝込みを襲うような酷い真似だと自覚していたけれど、一度心に掬ってしまった欲望に、俺は逆らえなかった。


(ゆいさん、あなたが悪いんですよ。あまりにも無防備過ぎるから……)


 言い訳のように胸中で呟いて、ゆっくりと顔を近づけていく。唇が触れ合うまであと数センチというところまで近づいた時だった。


「ん……ぁ……」


 ぴくり、とその体が動いた。慌てて離れようとするけど、間に合わない。

 彼女の瞼が開かれていき、朦朧とした焦点のあってないその瞳と俺の目が合う。一瞬の間の後、彼女の頬が緩んだ。


「拓海ぃ……」


 嬉しそうで、安堵した子供みたいなあどけない微笑みと共に、彼女の両腕が俺の首にまわされ、引き寄せられた。

 そのまま、彼女の方から口付けてきた。

 唇に触れる優しく柔らかい感触。甘い吐息。鼻腔を満たす彼女の香り。

 上唇を啄むようにしてゆいさんの顔が離れる。

 するり、と首に回された腕が解け、彼女はまた眠りに落ちた。


「…………」


 安心し切ったような安らいだ寝顔。

 俺は音を立てないように彼女の体にかけた毛布を整え直し、その場から離れた。


 心が痛かった。大声で泣きたい気分だった。


 目頭が熱くなり、溢れそうになった涙を誤魔化そうと洗面所に駆け込んだ。

 両手で救った水道水で何度も顔を洗う。タオルで涙ごと水分を拭いながら顔を上げたとき、すぐ前にある姿見が目に入った。


 鏡の中で、品田拓海が、まるで責めるかのように険しい目で俺を睨んでいた──


〜〜〜

【花寺のどか】


 あれは今から一年くらい前のこと。


《誕生日は母と写真を撮る日》


 行きつけのスーパーに隣接するカメラ屋さんがそんなキャンペーンを打っていたから、私はつい、


「だったら、誕生日プレゼントはこれがいいかな?」


 なんて、買い物に付き合ってくれていた息子:雅海にそう言ってみた。

 そしたら雅海は怪訝そうな顔で、こう言った。


「プレゼントって、母さん、カメラが欲しいの?」

「ふぁ……」


 違う違う、そっちじゃない。

 あなたと一緒に写真を撮りたいって言ってるのに、どうしてそんなトボけたことを言うのかな、この子ってば。


 もしかしてワザと気づかないフリしてる?


 そりゃもう君も十八歳だし、お母さんと一緒に記念写真だなんて恥ずかしいのも分かるよ?

 でも、母としてのささやかなお願いぐらい聞いてくれてもいいでしょ?

 とか思って心の中で少し拗ねてたら、雅海も気づいたみたい。


「ああ、記念撮影か。……でも母さん、そんなのでいいのか?」

「うん。いいよ。っていうか、それがいいの」

「アクセサリーとか、化粧品とか、服とかでも良いんだけど? バイト代も結構溜まってるからさ」

「そういうのは、恋人にプレゼントしてあげなさい」

「まだいないよ」


 雅海はそう言って笑った。彼そっくりな顔で。


(まだいないよ……か……)


 いつかは恋人と呼べる子が、彼にもできるんだろうな、ってそう思うとちょっと寂しい。

 私は彼の恋人にはなれなかった。

 息子の恋人って意味じゃない。でも、成長するにつれてあんまりにも似ていく息子を見ていると、どうしても思い出して、その面影を重ねずにはいられない。


 品田拓海──雅海の父親のことを。


 ふとした時に見せる表情、何気ない仕草、その声、その眼差し……

 まるで生き写しのように、雅海は拓海くんによく似ていた。


(君も、拓海くんと同じく私のそばから離れて行くんだね?)


 ついついそんなことを考えてしまうから、息子と一緒に記念撮影をしたいだなんて思いついたのかもしれない。

 雅海の顔を見上げながらぼんやりしていたら、


「母さん、俺の顔に何かついてるの?」

「ふわぁ!? な、なんでもないよ!」


 慌てて誤魔化すと、雅海は微笑みながら私の腕を掴んだ。


「じゃ、今から写真撮りに行こうか」

「ふわぁあ!? い、今から撮るの? ちょっと待って化粧してないし普段着だよ!?」

「衣装は借りればいいさ。ていうか、化粧しなくても母さんまだ若くて綺麗だよ」

「ふわぁあ!?」


 またこの子は赤面するようなことをサラッと言う。いつも思うけど母親に向かって言うセリフじゃないよそれ。

 君、それ他の子にも言ってたりしない? 周りの女の子たちを無駄に勘違いさせてない?

 そういうところまで父親に似なくても良いんだからね?


〜〜〜

【品田ゆい】


 また夫の夢をみた。昔、拓海と一緒にデートした時の思い出だった。

 家で一緒におむすびを握って食べさせあったり、大きなハンバーガーを一緒に食べに出かけたり、そんな何気ない日常の延長のようなデートばかりだったけど、とても温かくて、愛しい思い出。


 愛おしすぎて、泣きながら目が覚めた。


 時刻はまだ深夜過ぎだった。

 夫婦の寝室のダブルベッドは、女独りで眠るには大きすぎて、いつも寂しくなる。娘が幼い頃は一緒に眠っていたけれど、大きくなって自室を与えられるとそんなこともなくなった。

 夢で拓海の思い出に浸ってしまったせいで、広いベッドが寒々しく感じられてしまい、もう眠ろうにも眠れなくなった。


(お酒……飲んじゃおうかな)


 普段は飲まないけれど、こんな眠れない夜はたまにあって、そんな時は親友から貰った高級でちょっと強めのお酒で心を慰めた。

 明日は店の定休日だ。だったら今夜もそうしようと思って、寝室を抜け出した。

 台所の戸棚から小さめのボトルとグラスを持ち出して、続き間になっている居間に移動した時、そこにあるちゃぶ台の上に見覚えのあるスマホが残されているのに気がついた。

 きっと、のどかちゃんのだ。

 彼女とは紆余曲折あったけれど、今はあたしの実家「和み亭」で一緒に働く仲だった。

 閉店作業も終わって、のどかちゃんと居間で少し話した後に帰って行ったけど、その時に忘れてしまったのだろう。

 届けに行った方がいいかな、と思いながらあたしは縁側から庭続きの隣家に目を向けた。


 のどかちゃんは今、隣の【ゲストハウス品田庵】に住んでいた。彼女の息子、雅海くんにとっては父親の実家ということにもなるから、門平さんも、あんさんも喜んで二人を受け入れてくれた。


 とっくに寝静まった様子の品田家に、スマホを届けるのは朝になってからにしようと思い、ちゃぶ台に置いたグラスにボトルから琥珀色の液体を注ぎ込む。

 シングルモルトの国産ウィスキー。世界的にも人気で今じゃ滅多に手に入らない高級品だそうで、この前ここねちゃんが手に入れて差し入れてくれた。


 拓海が好んでたお酒だから、墓前に供えてくれって。


 でも、ここねちゃんには申し訳ないけれど、これは拓海の好みって訳じゃない。あたしたちの結婚祝いに、ウチにお酒を卸してくれてる酒屋さんが奮発してくれたのを婚姻届を出した初日に二人で試し飲みして、慣れない味と強いアルコールに揃って悪酔いしちゃって初夜どころじゃなかったっていう、そんな笑い話の思い出。

 それを話した時のことをここねちゃんはずっと覚えてくれてたみたい。きっとすごく印象に残っちゃったのか、彼女は今でも機会があれば高級なウィスキーや、それと黒胡椒──こっちは拓海が本当に好きだったモノだ──を送ってくれる。

 常夜灯しかつけてない薄暗い居間だけど、広い縁側の窓からは青白い月明かりが差し込んであたしの手元のグラスと、そして置き去りにされたのどかちゃんのスマホを照し出していた。

 あたしはグラスに口をつけながらそのスマホに手を伸ばした。

 時刻表示を見るだけ、そう思って画面に触れた指が、止まった。


 灯りが灯された表示の中、深夜一時を示す時刻の向こうに、若い頃の拓海が居た。


 凛々しい青年時代の彼の横には、寄り添うようにのどかちゃんが立っていた。

 恥ずかしいけれど嬉しさが隠しきれないはにかんだ表情で椅子に腰掛けたのどかちゃんと、その肩に手を置いて立つ拓海の写真。


(あたしの知らない拓海の写真……!?)


 ゴクリ、と口の中に含んだ一口分のウィスキーが喉を焼き、胸の内が熱くなる。

 でも、困惑したのはほんの一瞬だけ。スマホに写るのどかちゃんは昔の少女じゃない。それで隣の青年が雅海くんなんだって気がついた。


(普段からいつも見慣れてるのに……)


 花寺親子とはほとんど同居しているも同然の関係だ。朝ごはんだって、店の仕込みで忙しいあたしやのどかちゃんに代わって、雅海くんが和実家の台所で作ってくれている。隣家の品田家とあたしの実家の和実家は、あたしが拓海と籍を入れたのを機に、敷地を隔てて居た垣根を取り払って、庭伝いに自由に行き来できるようになっていた。

 彼とはそんな家族同然……ううん、れっきとした家族なのに、それでも偶に彼を拓海と見間違えてしまう。


 その度に、夫への慕情の切なさと、雅海くんへの申し訳なさに胸が締め付けられた。


 お互いの存在さえ知らずにいた父と息子が辿った悲劇的な再会と死別。拓海の死因になってしまった雅海くんの胸中は察するに余りある……

 ……ううん、違う。きっと想像さえできない。拓海を失ったあたしの心をきっと誰も理解できないのと同じように。


(拓海……)


 スマホに映る二人の姿がもしかしたら有り得たかもしれない拓海とのどかちゃんの未来の姿に思えてしまって、あたしは画面を消した。

 そのままグラスとボトルを持って縁側に移動する。

 いつも二人で並んで過ごした縁側。思い出せば辛いだけなのに、求めずにはいられない。窓を開け放して、拓海の気配を隣に思い描きながら庭先に足を出して腰掛ける。

 月明かりの下で、二杯、三杯とゆっくり飲み干す。焦げた木のような香りと言葉にしがたい不思議な余韻が口から喉、胸へと広がり、心にぼんやりと霞がかかっていく。そうやって酔っていくうちに眠気が襲ってきて、あたしは瞼を閉じた。


………


……



「ゆいさん?」


 懐かしい声に意識がふわりと浮き上がった。

 拓海、と声に出しかけて慌てて口をつぐむ。

 違う。そこにいたのは、雅海くん。

 深夜の庭先に、彼が立ってあたしを眺めていた。


「雅海くん、こんな夜中にどうしたの?」

「母さんがスマホを居間に忘れていったらしいので」

「ああ」


 ウチの縁側の窓は両家の行き来のために鍵はかけてない。それが許されるくらい治安が良いってのもあるけど、昔からの習慣というのが一番の理由だった。

 拓海はいつも縁側から逢いに来た。結婚後は娘が産まれるまで、あたしが品田家から庭伝いに和実家に通ってた。

 だから深夜に彼が勝手に立ち入るのも不自然じゃないし、もう何度もあったことだった。

 でも、あたしが飲んでる姿を見られたのは初めてだった。

 少し驚いている様子の彼に、あたしは苦笑を浮かべながらグラスを脇に置いた。


「のどかちゃんのスマホ、ちゃぶ台にあるよ」

「そうでしたか」


 雅海くんはあたしの横から縁側に上がり、のどかちゃんのスマホを手に取った。

 念の為確かめたのだろうか、振り返り横目で眺めるあたしの視界で、雅海くんはのどかちゃんのスマホ画面に光を灯した。


「……のどかちゃんと記念撮影したんだ?」


 あたしの問いに、彼は画面に目を落としたまま「はい」と静かに答えた。


「去年の母さんの誕生日に。プレゼントはそれが良いと言うので」

「親孝行だね」

「………」


 答えは返ってこない。再び庭先に視線を戻したあたしの横に、彼が腰を下ろした。


「また、眠れなかったんですか」

「……知ってたんだ?」

「俺の部屋から偶に見えてました。……すいません」


 品田家にある彼の部屋は、庭に面していた。言われてみれば、気づかれないはずが無い。


「謝ることないよ。あたしがいつも勝手に、ここで飲んでただけだから。………ねぇ、雅海くんも、飲む?」


 見られてしまったことの気まずさと、彼に知られていた気恥ずかしさを誤魔化したくて、酔いが回った勢いでついグラスを差し出してしまった。

 未成年相手になんて真似をしているんだろう、と後悔がすぐに募ってきたけれど、雅海くんは意外にもあっさりとグラスを受け取った。


「いただきます」

「えっ?  あ、うん……」


 彼は手酌でウィスキーを注ぎ、ストレートでぐっと煽った。

 上向いた彼の顎の下で、喉仏が上下する様に、思わず見惚れた。拓海はこんな大胆な飲み方はしなかった。だからこそ、夫の意外な面にときめいた。


 ………何を考えてんだろう、あたし。ここに居るのは雅海くん。拓海じゃないのに。


「似てますか、そんなに」


 隣でポツリと呟かれた言葉に、ハッとなる。

 ぼんやりしてる内に、彼がこっちに目を向けて、見つめ合う形になっていた。

 雅海くんの瞳に映ったあたしの顔は、情けないことに涙ぐんでいて、頬は熱く火照っていた。


(ダメだなぁ……)


 自分じゃよく分からないけど、今のあたしはきっとすごく酷い顔をしているに違いない。


「ごめんなさい……!」


 慌てて目尻の涙を拭いながら顔を背けた。

 重ねちゃいけない。そんなことしたら、それは雅海くんの人格を否定するも同じだから。

 でも………


「……俺は、構いませんよ」

「………」


 どうしてそんなことを言っちゃうの?

 どうしてそんな自分を捨てるような真似をするの?

 雅海くん。あなたは、拓海じゃないんだよ?

 拓海になろうとしなくて良いんだよ……それなのに……それなのに……ッ!


「ゆい……」


 やめて。その声であたしの名を呼ばないで。

 その顔で、

 その表情で、

 その仕草で、

 あたしを抱き寄せないで……!

 拓海の亡霊に囚われたままのあたしを惑わせないで……


「拓海ぃ……」


 抱き寄せられた肩に手を回し、あたしは彼の胸に額を押しつけた。

 拓海とは違う匂いに混じるアルコールの香り。そして、彼の体温と心臓の音。

 拓海と違うのに、拓海そのものみたいに感じるそれに、あたしは嗚咽を漏らしながら、溺れるように酔っていった……


〜〜〜

【花寺のどか】


ビーッ! ビーッ! ビーッ!


「ふわぁ!?」


 枕元に置いたスマホがけたたましくアラームを鳴らして、私は慌てて飛び起きた。


「うわわ、びっくりした……って、あれ?」


 ベッドの上でスマホを手に取りアラームを止めながら首を捻った。

 私、目覚ましにこんなアラームなんて設定してたっけ?

 今日は和み亭の定休日だから目覚ましなしで好きなだけ寝坊しようと思ってたのに。

 とそこまで思って、そういえば昨晩スマホをゆいちゃんちに置き忘れてたことを思い出した。休みの朝ということもあって後で取りに行けばいいかなって思ってたんだけど……


「もしかして雅海、わざわざ取りに行った?」


 昨晩、帰宅するなり「ふわっ、スマホ忘れちゃった!? ……ま、いっか」って彼の前で口走ったから、間違いなくそうだ。

 おまけにアラームまで設定してくれちゃって、こういうの小さな親切、大きなお世話って言うんだよ。


「ふわぁ〜あ」


 大きな欠伸をして二度寝しようと思ったけど、


 ビーッ! ビーッ! ビーッ!


「ふわわわ!?」


 スヌーズ設定にされてたスマホに、私はまた起こされてしまった。


 あの子ってば、もぉー!


 仕方なく起きて、着替えて、庭を伝って和実家の居間へ移動する。

 続き間の台所で朝ごはんを作っていた息子が振り向いた。


「おはよう、母さん」

「おはよう。あ、スマホありがとう。でもアラームはやりすぎだよぉ」

「久しぶりに母さんと一緒に朝ごはん食べたかったんだよ。母さんたち、いつも朝の仕込みで忙しいからさ」


 爽やかな笑顔でそんなこと言われたら文句なんて出ないよぉ。


「もうちょっとでできるから待ってて」

「うん。……ねぇ、ゆみちゃんとゆいちゃんは?」

「ゆみならさっき起こしてきたよ。もうすぐ来ると思う」

「ゆいちゃんは?」

「………少し、体調悪いみたい」

「え?」

「最近忙しかったからさ、疲れが溜まってたんじゃないかな。大丈夫だって言ってたけど……」

「そうなんだ。じゃあ、後でお見舞いに行かないと」

「ぐっすり寝てるから、しばらくそっとしておこうよ」


 雅海は台所に立ち私に背を向けたままそう言った。


(あれ……?)


 どことなくいつもと雰囲気が違う気がする。明確な理由はわからないけれど、そんな気がした。

 私が違和感に内心で首を捻っているところに、廊下からバタバタとした足音が響いてきた。


「あ、のどかママだ。おっはよ〜♪」


 居間に入るなり、中学校の制服に着替えたゆみちゃん──ゆいちゃんの娘──が明るい声と共に笑顔を綻ばせた。


「のどかママと朝ごはんも久しぶりだよね。やった、なんか嬉しい。えへへ♪」


 だなんて、可愛いことを言ってくれるよね、ゆみちゃん。

 そんな彼女は、私から目を離すと、すぐに台所に飛び込んで行った。


「お兄ちゃ〜ん、おはよ💕」


 雅海の背中に抱きついて顔を埋めたゆみちゃんに、息子は「はいはい、おはよう」と冷静に返しながら調理を続けた。


「ゆみ、今から火を使うから離れなさい」

「お兄ちゃん成分補給中だから無理」


 すーはーすーはー、と兄の匂いを嗅ぐゆみちゃんの姿は、間違いなく兄妹の距離感を間違えていると思う。

 ねえ雅海、君、もしかしてゆみちゃんまで無自覚に狂わせてない? お母さんすっごく心配だよぉ。

 兄妹の睦まじい様子を見せつけられて顔を引き攣らせかけた私の前で、ゆみちゃんがふと顔を上げた。


 そのあどけない顔に怪訝な表情を浮かべながら、ゆみちゃんがこう呟いたのを私は聴いてしまった。




「どうして……お兄ちゃんからママの匂いがするの……?」





 感じていた違和感が、はっきりとした形を作ったのを私は自覚した──

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