訳有りレガシー
寝ているときだけ、七海の世界は明るい。
繰り返されるあの日の夢を、見ているときだけ。
彼女の最後の日を、思い出すあいだだけ。
あの日、すぐに返事をしたら、なにか変わっただろうか。
考えてもしかたがないことだとわかっていても、七海はずっとグルグル考えている。
けれども最近は、言葉は思い出せても、声が思い出せなくなってきた。
七海の世界は、どんどん暗くなった。
「ウワ、暗っ!」
社宅のインターホンが鳴ったので、ドアをあけると、外にいた虎杖にそんなことを言われた。そこで、七海は電気をつけてないことを思い出した。
「…すみません。さっきまで寝ていたもので」
「あっ、いや、ぜんぜん。いろいろあったし」
虎杖は首を振った。
七海はなぜか無傷で発見されたが、七海の片目がなかったことや、体の半分が火傷していたことや、真人に改造させられかけていたことを、虎杖は知っている。
「君も、いろいろあったでしょう」
電気をつけて、七海は言った。部屋は、明るくなったはずだ。
「どうぞ。なにもないですが、飲みものくらいは出せますよ」
「けど、寝てたとこ悪いし…」
「ああ、あれはウソです。電気をつけ忘れてたのは本当ですが」
「えー…。ナナミン、疲れてんね」
「これが労働です」
「なるほど。クソ」
「ええ、クソです」
虎杖は、キョロキョロしながら、七海の社宅に入った。
「俺のと、やっぱちがうんだなー。キレーだし」
「虎杖君は寮でしたね」
「うん、こっちのが広い」
「社宅ですからね」
「そーいうもん?」
「そういうもんです」
リビングのソファに座る虎杖に、七海がコーヒーを持ってくる。
素直にお礼を言ってくる虎杖に、
「どういたしまして」
と言ってから、七海もソファに座った。
「それで、どうしたんですか?」
「そーそー。俺、ナナミンに返さなきゃっつーか、渡さなきゃいけないもんがあって…」
言いながら、虎杖はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「コレなんだけどさ」
虎杖から渡されたのは、封筒だった。東京都立呪術高等専門学校と印刷されているので、職員室かどこかで、もらってきたのかもしれない。
封筒をあけて、手のひらに中身を出すと、七海は固まった。
「これは…。虎杖君、これをどこで…」
出てきたのは、こわれた櫛だった。
「ナナミンが倒れてたとこの近く。見つけたときにナナミン探したんだけど、見つかんなくって」
「…そうでしたか」
七海は手の中の櫛を見た。
なくしてしまったと思っていた。起きてすぐ、探しまわった。理由はわからないが、無傷だったので、七海の体はよく動いた。
「ありがとうございます」
「大切なもんなん?」
「私にとっては。…もともとは、私のものではなかったんですが」
それ以上話すつもりは、七海にはなかった。
コーヒーを飲みおわったら、虎杖には寮に帰ってもらおうと思っていた。どんなに虎杖がタフでも、ちゃんと休むべきだと七海は思っていたから。
けれど、
「それって、もしかして、長い髪したやつの?」
と言われて、七海はさっきまで思っていたことを忘れた。
「黒い髪してて、目がオレンジ色の…」
「虎杖君、それは…。それを…どうして…」
七海は、おどろいて虎杖を見た。
そして、あのときの話を七海は聞いた。
「悪ガキめ…」
虎杖が帰ったあと、七海は、額に手を当ててそう言った。今はもう、七海の隣に神門はいないらしい。
「…まったく、逃げ足のはやい…」
フーーッ、とクソデカため息をついて、七海はソファにもたれた。
(アナタはいつも自分勝手すぎる…。勝手に告白して、勝手に死んで、勝手に生き返らせて、勝手に消えて…。コッチはもう、何年もアナタに言ってやりたい文句をためてるのに、)
「生き返らせられたら、言いに行けないじゃないですか…」
死んだら、神門に、たくさん文句を言ってやろうと七海は思っていた。
たくさん文句を言って、最後に、返事を言いたかった。
けれども、七海は生き残った。
(まだ、待っててくれてるといいですが…)
神門には前科がある。待ってると約束したくせに、すぐその約束をやぶった前科が。
目を閉じて、また、あの日を思い出す。
そのうち、七海は本当に眠った。
虎杖から話を聞いたからなのか、七海は夢を見た。でも、場所は屋上じゃない。
白い砂浜のうえを、七海は歩いている。
ときどき、波が裸足に当たる。
まわりには、だれもいない。
青い空と、白い砂浜を貸し切り。
(クアンタン…)
マレーシアのクアンタン。
最近、七海が行きたいと思った場所。そこに、似ている気がする。
どうせなら、ビーチパラソルが欲しかったし、ビーチチェアも欲しかったが、まわりを見渡してみても、なにもない。
(あれは…?)
砂浜しか見てなかった目を、海のほうに向けると、そこに黒いなにかを見つけた。それが、黒いセーラー服だと気づいたとき、七海の足は勝手に走りだしていた。
ズボンが水にぬれて重くなる。水の抵抗を受けて、足がうまく進まない。
そのあいだにも、セーラー服はどんどん遠くなっていく。七海の反対がわへ。海のほうへ。
「神門」
七海が呼ぶ。セーラー服はとまらない。
「神門!」
セーラー服は振り返らない。
「優希!」
七海は、セーラー服の腕をつかんだ。すると、おどろいた顔で神門は、…優希は七海を見た。
「えっ、ウソ、なんで、どうして…」
あせった声も、七海にはなつかしかった。
(そうだ。こんな声だった…)
「どうして、建人がここに…?ダメだよ、はやく出なきゃ…!」
今度は、振り返った優希が、七海の腕をつかむ。
「ちょっと、建人ってば!」
でも、七海は反応しない。だまったまま、優希を見下ろしている。
「もしかして、もう、分解がはじまってる…?建人、建人!しっかりして!ここから出て!はやく!」
優希は七海の腕をつかんで、砂浜のほうへ連れて行こうとする。が、どうあがいても力が足りない。
「なんでよー!私がしたこと全部意味なくなっちゃうじゃんかー!」
「…やっぱり、アナタだったんですね」
「えっ、聞いてたの!?聞いてて、無視したの!?私には、人の話聞けってメチャクチャ怒ってたくせに!?」
優希は目を丸くして、七海を見上げた。
「分解とは、なんのことですか。アナタはどうやって、私を生き返らせたのですか」
「…建人も人の話聞いてないじゃーん!」
「優希」
七海にマジメな顔で名前を呼ばれて、優希は顔が固まった。
「優希、アナタは向こうに行こうとしてましたね。向こうには、なにがあるのですか」
「…なにもないよ」
「では、私も行きましょう。なにもないところに、アナタ1人では心配ですから」
七海がそう言うと、優希は泣きそうな顔になった。
「ダメだよ…」
「なぜですか」
「それだけは、ダメだよ…」
「優希…」
「名前も、呼んじゃダメだよ…」
優希はうつむいた。
「好きな人の名前を、やっと本人の前で言えるのに、それはないでしょう」
優希は顔を上げた。太陽の色の目から、ボロボロ涙がこぼれている。
「好きです。優希。だから、アナタと一緒にいたい。1人で死なせてしまったあの日から、ずっと、私はアナタに会いたかった」
七海の手が、優希の黒い髪に触れた。
「好きです。もう、どうしようもないくらいに」
「私も好きだよ」
「知ってます」
「そうだね」
優希は、泣きながら笑った。
「…この先にはね、なんにもないの。本当に、なんにも。なんにも、なくなっちゃうの。だから、建人は来ちゃダメなの」
「それは、どういう…」
聞く七海の手を、優希がにぎった。
「生まれ変わりとか、輪廻転生とか、そういうの、あるでしょ?私はそれをしませんっていう約束で、建人をアッチから戻したの。私は今から、かえるの」
「かえる…?」
「うん。海に沈んで、分解されて、世界にかえるの。私は私じゃなくなる。でもね、」
「優希…」
「私は、いつでも建人のそばにいるよ。たぶんもう、気づいてるでしょ?」
「…術式のことですか」
「そう、アタリ!」
優希は笑った。もう、泣いてなかった。太陽の目が、七海を見ていた。
「大丈夫。建人は、1人じゃないよ。いつかアッチに行ったら、雄が待ってる。ちょっと前に、前髪パイセンも来たから、さみしくないよ」
「アナタは」
「私も、もうすぐ、さみしくなくなるよ。だから、大丈夫」
優希が七海の手を離した。そして、少しずつ離れていく。七海はあわてて、優希を抱きよせた。
優希の体は小さかった。平均身長はあるもん、と昔はよく言っていたが、180センチ以上ある七海と比べたら小さい。
「…大きくなったね。高専のときから大きかったけど、大人になったんだもんね。でも、これからは、おじいちゃんにならなきゃね」
「そこまで生き残れるでしょうか」
「生き残れるよ」
「アナタの術式があるから?」
「それもあるけど、おまじないもあるから」
「おまじない?」
七海は優希を見た。優希が七海の顔に手を伸ばした。
「目、つぶっててね」
七海は目をつぶらなかった。もっと抱きよせて、七海のほうからキスをした。
キスがおわると、恥ずかしくなって2人で笑った。
「コレが、おまじないですか」
「そうだよ。ありがたがってね」
「しかたがないから、そうしてあげますよ」
「スナオじゃないなぁ」
「アナタもね」
そうして、2人はわかれた。優希は海に、七海は陸に。
七海は、砂浜から優希の背中を見ていた。黒い髪が、海に沈んでしまうときまで。
そして、七海は目が覚めた。
ソファで寝たから、体が固い。
背伸びをして、窓を見る。窓の向こうは、朝になっていた。