訣別
――あの子は随分と厄介な子のようだね。
――生死もわからない、たった数年しか共にいなかった"親"を忘れられない。だからこそ要、君の静止も聞かずにあの墨を顔に入れたのだろう?
――良い子だ。私にとっても好ましい。けれど、どうやら今回に限っては邪魔になってしまうようだ。
「だから、要。朽木ルキアを連れてくる前に――」
◆◆◆
足が重い。こうまで霊力を消費した――正しくはさせられたのだが――は本当に久しぶりのことで、不覚を取った己を内心で罵った。首筋を冷や汗が伝う。上がった呼吸をどうにか整えて歩く檜佐木の視界に、ふと見慣れた履物が映りこんだ。
「東仙隊長……」
「……檜佐木」
ひとつ深呼吸をして東仙を見る。たった今その下に行こうとしていただけに、彼自ら檜佐木の前に来たという事実が上手く飲み込めなかった。
「随分と息が乱れているようだが」
「……っ、申し訳ありません。不覚を取りました」
「そうか」
東仙はそれ以上を追求しない。ふと変わった風向きの中に微かな血の匂いが混じって、東仙も無傷でないことはすぐに分かった。
「東仙隊長は――……」
問いかけようとした言葉が途中で止まる。東仙の姿を見て感じた違和感がそうさせた。湧いた唾は粘ついていて、飲み下すこともまともに出来ない。
「東仙隊長」
「……どうした」
「羽織は…隊首羽織は、どうなさったのですか」
ずっと見慣れていた白がその背にない。檜佐木にとっても馴染みの深い「九」の文字を染め抜いた羽織と、東仙の左の手に巻きついた白い布は違うのだろう。長さも幅も違うことは見ただけですぐに分かる。
破れたのなら、血で汚れたのなら、東仙はそれを手にしているはずなのだ。余程のことがない限り隊長の証であり矜恃であるそれを脱ぎ捨てることは無い。
ならば何故東仙は、それを身につけていないのか。
ど、ど、と心の臓がひっきりなしに騒ぐ。背骨に氷の棒を差し込まれたような寒気が全身を満たす。東仙が静かに息を吐いた。
「……羽織か」
「……はい」
「あれはもう、不要だ」
「え……」
訳が解らない。そんな顔をする檜佐木との距離を、東仙は刹那の内に詰めた。肩に東仙の手が触れる。知っている手だ。拠り所を突如失って泣くばかりだった幼い檜佐木を慈しみ、傍らで育ててくれた人の手だ。
(……本当に?)
籠る霊圧も、感触も、何も違わない。けれど今はそれが、全く別人のそれであるように感じられた。
檜佐木。
温度のない声が檜佐木を呼んだ、と感じたその直後。
しゃらん、と鮮やかな抜刀音が檜佐木の聴覚を通り抜けた。
「――……ぇ………」
ひゅ、と乾いた音が喉を震わせる。肉を巻き込み貫いて、背中側へ何かが抜けた感覚。一拍遅れて強烈な痛みが脳を満たした。
見慣れた形と色の鍔と柄。そこから伸びる銀色が深々と突き刺さっているのは鳩尾だ。肋骨も丁度途切れ、刃を妨げるものはなにもない人の急所。じわりと滲んだ赤色が、刀もそれを握る手も等しく濡らして落ちていく。
「………ッ、なん、」
ぬらりとした赤色にどんどん濡れていく褐色の手。それに震えながら伸ばした檜佐木の手は、しかし指すら引っかかることはなかった。それよりも先に、身体に埋め込まれた鋼が捻られる。そのまま筋肉も血液も巻き込み逆流させて刃を抜かれた傷口から、噴き出すように血が零れた。
「東、仙、隊……長……?」
全身から力が抜ける。ぐらりと喉が後ろに反って、支えを失った檜佐木は自らが作った血溜まりの上に膝をついた。目の前が霞む。ぼたぼたと零れる血の赤さだけが目に焼き付いて、顔すら上げられないせいで東仙の顔は窺えない。何が起きているのかも解らなかったが、ぽつぽつと身体に降りかかる雫は雨ではなく東仙の斬魄刀から払われた己の血なのだろうことだけは解った。
「……檜佐木」
完全に地に伏した檜佐木の上に、東仙の静かな声が落ちる。
「赦さなくて良い。君に恨みは無い」
それなら、どうして。
それすら口に出せないまま、檜佐木の意識は薄くなっていく。沈み込むように消えていく感覚の中で去っていく東仙の足音を聞いた気がして、そちらに伸ばそうとした手は――微塵も動かないまま、縁を広げていく血溜まりの中に投げ出されたままだった。