記憶喪失クロコダイル(仮)
目を開けると頭上に青空が広がっていた。しかし、身体は何故かずぶ濡れで、起き上がろうとしても上手く力が入らない。すぐ側には赤肌の岩壁が聳え、反対側は背の高い木が生い茂る森だ。ずぶ濡れになるような原因は見当たらないが、この岩壁の上から落ちたのだろうか。それにしてはどこにも怪我はない。一体何があったのか……思い出そうとして、自分の名前も分からないことに気づく。何も覚えていない……記憶がない……。
不意に近くで足音がした。いつの間にか木の傍らに一人の男が立っている。男も頭から水をかぶったように濡れ鼠だった。お互い同じ目に遭ったと見えるが、油断はできない。身体を起こし、岩壁にもたれかかる。男は木から離れてこちらへ近づいてきた。
「ここにいたのか……」
「ああ……」
話を合わせて様子を見ることにした。敵意は感じないが、何となく隙のない男だ。
「おれが分かるか?」
いきなり答えられない質問か……。ごまかすのは難しそうだ。仕方ない。
「いや……思い出せねェ。記憶をやられちまったらしい。何も覚えてねェ……」
「記憶を……?」
その時、頭上で音がして、男の肩にとまっていた鳩が鋭く鳴いた。すぐ近くで大きな落石が音を立てて砕ける。それを見て男は眉を顰めた。
「早くここから離れたほうがよさそうだ。歩けるか?」
「お前は誰なんだ。おれとはどんな関係だ」
危険が迫っているのかもしれないが、この男が味方とも限らない。罠の可能性もある。
「おれはロブ・ルッチだ。お前はクロコダイルで、おれはお前の……夫、だ」
……夫? 何を言ってやがる。どうにも怪しい男だ。だが、もし敵なら明らかに疑われるようなことを言う必要もないはずだ。ひとまず差し出された手を取って立ち上がり、二人で森の中へ入った。
鬱蒼とした木々が日差しを遮り、森の中は暗くじめじめしている。身体が異様に重い……。ルッチと名乗った男はしっかりした足取りで先に進んでいく。大木が横倒しになって朽ちている所を通りかかると、ルッチはその巨木のうろに入っていく。
「少し休むか。ここなら周りからも身を隠せる。具合はどうだ」
「良くはねェな……ところで、おれたちはどこへ向かってるんだ?」
おれが隣に身を寄せると慌てて飛び退いた。……絶対に怪しい。そんなおれの視線に気づいて、そろりそろりと戻ってくる。猫か。
「この先に作戦の為の根城にしていた小屋がある。詳しいことはそこで話す」
「そこには誰かいるのか?」
「いや……元々はいたんだが、もうわざわざそこへは戻らねェだろうな」
そんなことを言っておいて、その小屋にはこいつの仲間が待ち伏せしている可能性もある。このままついていくのはどうかと思うが、記憶のないおれには他にどうする術もない。ぎこちない休憩を終え、結局その小屋に向かうことにした。