記憶喪失クロコダイル(仮)肆

記憶喪失クロコダイル(仮)肆


 記事に目を走らせていると、近くでハットリの鳴き声がした。顔を上げた先にはハットリを肩に乗せたルッチが立っている。これまでにない険しい表情で、おれの手にした新聞を睨んでいた。

「迂闊だったな、まだそんなものが残っていたか……」

 記憶が戻ったわけではなかったが、少なくとも記事に書かれていることは実際に起きている出来事のはずだ。記事によれば、おれは行方不明になっているということだった。ここで悠長に結婚問題について話している現実とは、どうにも噛み合わない。

「おれを騙してたのか」

「違う……話せば長くなると言っただろう。お前が行方不明になっているのは事実だが、今は身を隠しておいたほうがいい。今後のことも、おれが手を打っておく」

 ルッチの真剣な様子は最初に会った時から変わらない。今も動揺したり慌てたりはしていない。

「おれは……自分に降りかかる火の粉くらい自分で何とかする。世界平和とやらにも興味がねェ。記憶を失う前にお前と何があったかは知らねェが、今のおれを口説くには十分な条件とは言えねェな」

 辺りに強風が巻き起こり、足が砂に変わって身体が軽く浮き上がった。おれを中心にして渦巻く風の壁を突っ切って、ルッチが突進してくる。

「待て!」

 人のような豹のような異形の姿となって、おれを地に引きずり倒す。簡単に殺せるだけの力があるだろうに、おれを抑えつける腕には必要以上の力は込められていない。風が止み、木々から引きちぎられた葉がひらひらと地に落ちていく。

「行くな」

 豹になった時も思ったが、全く違う姿をしているのにルッチだということは分かる。肘より下を動かして逞しい獣の腕に触れる。触れる内に腕はだんだん細くなり、元の人間の姿に戻っていった。

「結婚ってのは……随分ハードな条件じゃねェか?」

「……誰にも渡したくないからだ」

「猫ってのは我儘な生き物だな……」

 腕を伸ばして髪に触れる。撫でられるまま顔を近づけてきたので額を押し返した。不満そうに顔を歪めたが、おれに逃亡する意志がないと分かったのか、ルッチはおとなしく引き下がった。さっきは偶然上手くいったが、まだ能力を使いこなせてはいない。逃げようとしても追いつかれてしまうだろう。記憶を取り戻さないことには出て行くことも不可能だ。


 買い出しに行ったのは本当で、食材や生活用品の入った袋が玄関先に置かれていた。無駄に高そうな酒もある。葉巻も入っていた。

「それはお前に買ってきた……おれは詳しくねェが、必要なものはそろっているはずだ」

 お前は吸わないのかと聞くと、吸ったことはないという。一緒にどうだと勧めたら、お前の分が少なくなるからやめておくと言って荷物を片付け始めた。……逃げ出そうとしたおれは薄情か? もう少し優しくしてやれば良かったか……。背中に近づき、後ろから抱き寄せる。一瞬ビクリと体が跳ねたが、その後は一ミリも動かない。

「この先記憶が戻っても、お前に断りなく出て行ったりはしねェ……約束する」

 そう言っても石になったように動かない。妙だな? 体を離すと油を差してない歯車のようにぎこちない動きでこちらを向いた。

「どうした……?」

 ルッチはおれの肩を掴み、屈むように促した。導かれるままにゆっくりと顔を近づけ、目を閉じながら唇を重ねる。外は既に陽が落ち、辺りには宵闇が迫っていた。

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