記憶は香る

記憶は香る



 綺麗に手入れされた振り袖が出てきたとき、そういえばこんな柄の着物を持っていたなと他人事のように思った。


 それが藍染の私物として出てきたことへの感想だとか、驚くほどに状態が良いとか。他に色々と考えることはあったような気もしたが、あまりにも現実感がなくてそこまで思い至らなかった。

 なにせ藍染の策謀のせいで現世に逃げる前の持ち物である振り袖があの日のまま、たとう紙に包まれてそこにあったのだ。まず最初に疑うのは片付けの最中にうっかり眠り込んだことであって、現実だと理解するのに時間がかかったほどだ。


 そっと撫でてみる。触れた感触も綺麗に手入れされた着物のそれで、時間を超えて突然現れたような気すらしてくる。実際に着たのは百年以上も前のはずだが、手入れでもしていたんだろうか。

 あれはたしか新年の挨拶かなにかで、色々あって晴れ着を着なければならなかった時に一度だけ袖を通して……それからは着る機会もなくそのままだ。

 振り袖なんて年甲斐もないと言ったのに華やかさが欲しいからと相当融通をきかせてもらったので着ないわけにもいかなかった。正規の値段だとそれなりにいい値段がしたものを無下にできなかったというのもある。


 そういえばあの時、あれを見た自分の副官はいったい何を言っていただろうか。適当に世辞を言ったか、迂遠な嫌みを言われたか。どうだっただろう。

 なんにせよ取っておくほど印象に残ったものではないはずだ。自ら裏切って、二度と並び立つことはなくなった相手のものならば特に。


「それなに?着物?」

「たぶん……俺の振り袖やな」

「えっ、なんでオカンの振り袖があんの?」

「なんでやろな?」


 それなのに振り袖は綺麗に手入れがされてそこにあった。取っておく必要のないものを取っておくほど、あの男はものを溜め込む質だっただろうか?

 どちらかといえば持ち物は少なく、必要ないものを手離すことに躊躇しないタイプではなかったか。それは人間関係であっても同じで、やつが手離した人間関係の内の一人がこの振り袖の持ち主で。


「二度と帰って来ぉへんと思ってたやろうに、ほんまなんでやろな?」


 手に取ってみるとふわりと香の香りがした。あの頃はこんな香りの香を焚いていたような気がする。振り袖を着てしばらくした後、尸魂界に戻ってきてからまた使い始めた今の香に変えたのと、現世にいる間は香にもトンとご無沙汰ではあったので本当にそれかはわからない。

 それでもあの時の香を焚き染めて綺麗に手入れされた振り袖は、あの時のまま時間が止まっているようで不思議だった。もう戻らないものは時計の針だけで済まないほど、あまりにも多いというのに。


「これ着るか?成人式とかあるやろ?」

「ええ……なんか情念籠ってそうで怖いねんけど」

「そんなもん籠るかい、精々がお高い着物の処分に困った程度の話やろ」


 確かあの男はこれの値段を知っていたはずなので、一度しか袖を通さずに捨てられるのを惜しく思ったのかもしれない。価値あるものが正しく使われないのが気に入らなかったとか、そんな理由で。

 少なくとも自分が裏切って文字通り切り捨てた上官が帰ってきてこれを着ると思っていたよりも、そちらの方が筋は通る。焚き染める香まで真似しなくともいいとは思うが、他に思いつかなかったのかもしれない。


 どんな顔をしてこれの手入れをしていたんだろうか、面倒なものを置いていってと勝手に憤っていたかもしれない。それともなんとなく惰性で手入れをしていたんだろうか。

 どの姿もあまり想像できなくて、結局藍染がどんな気持ちでこの振り袖をそのまま取っておいたのかはひとつもわからなかった。


「ホンマにアタシがもらってええの?」

「経産婦が振り袖なんて着んわ!いらんかったら売るか捨てるかや」

「それは勿体ないなぁ……でもなんかキショイから綺麗にしたら着るわ」


 体に合わせるために仕立て直したりクリーニングに出したりすれば、少なくともこの香りは失われるだろう。それでいい、娘は自分と違ってこの香りよりも、もう少し甘いものの方が似合う。

 それに父親とも呼べない男の私物として手元に置かれていた振り袖をそのまま着るのに抵抗があるのもわかる。女物の振り袖を綺麗に手入れして保存している様を気持ち悪いと感じる気持ちも、まあよく分かる。

 

 それでも娘がこれを着るのは、きっとあの日の自分が着たよりもずっといい。着物だって着たくもない相手に着られるよりも着たいと思う相手の方がいいだろう。

 しばらくなにやら考えてた娘が何かを思いついたように、いたずらっぽい顔でこちらを見た。余計なことを言うつもりだなという予感はあれどつい最近のお転婆がすぎた姿を思えばこれくらい可愛らしいものだ。鼻でもつまんでやりたい気持ちにもなるが。


「案外もう一回、オカンが着てるの見たかっただけかもしれんよ」

「そんなわけあるか」


 逞しく育った娘が友人たちと迎える成人のおりにこの振り袖を着るのなら、藍染のよくわからない気紛れに多少は感謝をしてやってもいいかもしれない。父親としてのことを何一つしていないのだから、娘の門出の役に立つくらいはしてもバチは当たらないだろう。

 もう成人という歳は優に越えているが、あの頃の自分も振り袖を着るには少しばかり薹が立っていたのだから誤差の範囲だ。


 そういえばそれでも似合うと言う奇特なやつがいたなと、不意に思い出した。それを言ったのが藍染で、本当に珍しいことに本気で褒めたように見えて驚いたことも。忘れてくださいと言われて、簡単に忘れられないとからかったことも。

 それでも忘れてくれと藍染が言った通りに「とても、お似合いですよ」と言ったあいつの声色も表情も、百年以上たった今では少しも思い出すことはできなかった。

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