触れたい。 #早瀬ユウカ
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すっかり日も落ちた、ある冬の日の夜。
その日のシャーレの当番と……「治療」が終わって、いつも看てくれるセリナさんにもお礼を言ってお別れの挨拶をして。
ちょうどシャーレのビルのエントランスを出ようとした時、見送りに来てくれた先生から声を掛けられた。
“いつもわざわざ来てもらってごめんねユウカ。今はミレニアムだって大変なのに”
「いえ。私の方から言い出したことですから。それに、今までずっとセミナーの仕事やシャーレの当番を休んでみんなに迷惑かけちゃってますし。その分挽回しないと」
その言葉は紛れもない私の本心だ。
……あの事件が起こってからしばらくの間は、こうして外出することはおろか、誰かとまともに話すことすらほとんどできない状態が続いていたから。
おかげでセミナーの仕事にずいぶんと穴を開けてしまっていたし、本来私が担当するはずだったシャーレの当番も他の子に替わって貰わざるを得なかった。
ミレニアムの皆には……特にノアには本当に迷惑掛けちゃったなって思う。
“そんなことないよ。誰も迷惑だなんて思ってない。なんだったら、ユウカはもっと休んだって……”
「ありがとうございます、先生。……でも正直、じっとしてるのも逆に落ち着かなくって。それなら逆に、いつも通りにしてた方が気も紛れるかなって」
あえて冗談めかして笑うけれど、それでも先生の表情は晴れない。……気まずいな。また先生に気を遣わせちゃったかな。
なんとかして話題を変えなきゃと、ふと外の景色に視線を向けて。
「あ。やっぱり雨、降ってきちゃってますね」
シャーレで過ごしている間は意識してなかったけれど、いつの間にか外の天気は崩れていたみたい。
ガラス越しに見える夜の街並みは降りしきる雨に包まれていた。土砂降り……というほどではないけどそれなりに大降りで、そればかりか遠くからはゴロゴロと雷の鳴る音まで聞こえてくる。
まあ、朝の天気予報では午後の降水確率はそこそこ高いって言っていたから、念のため傘を持ってきて正解だった。計算通り、かんぺき~☆
“駅まで送ろうか?”
「……いえ。一人で大丈夫です。今日はノアの送り迎えも断っちゃいましたし……少しずつ慣らしていかないと」
先生の好意は嬉しいけれど、こればかりは私の意地の問題。
……いつまでも、みんなに迷惑をかけてばっかりじゃいられないから。
──「あの日」以来。
今まで私がミレニアムの学区外に出る時は、いつも必ず他の誰かに付き添って貰っていた。
大抵はノアやモモイ、アリスちゃんやミドリやユズ……それに時間が空いている時はネル先輩やC&Cのみんなにも。
もちろん私の方から言い出したことじゃない。いつも私は独りでも大丈夫って言ってるんだけど、そのたびに「ユウカちゃんのことが心配なんです」なんて言ってついてきちゃうんだから、みんなつくづく心配性だなって思う。
……なんてね。
本当は、私が一番分かってる。
私が全然「大丈夫」なんかじゃないってことくらい。
一人で外を出歩かせるのが危なっかしいってみんなに思われるくらい、今の私の状態は平常とはかけ離れているってことを。
……男の人が怖い。
良い人とか悪い人とか、知り合いだとか赤の他人だとか、そんなの関係ない。
私の理性が「男性」だと認識した人に近寄るだけで猛烈な寒気がして、体の震えが止まらなくなる。
ただ男の人に近づくだけでその有様なのだ。一人でまともに町中なんて歩けるはずもない。人混みなんてもってのほか。
ましてや知らない男の人と肩でもぶつけようものなら、頭の中にいやなおもいでがかずかぎりなくうかびあがってきて、あたまがまっしろになってなにもかんがえられなくなってうごけなくなって、こわくて、こわくて、こわくて、こわくて──
──想像しただけで背筋が凍る。
今この場にいるのは先生だけなのに、ぶるりと体に怖気が走って、堪らずに自分の体を抱きしめた。
ちょっと表を歩くだけでそんな「発作」を起こしてしまうようなら、到底まともな日常生活なんて望めない。
だから、ノアやみんなが私のことを放っておけないのも当然。私のためだけじゃなくて、周りにだって迷惑をかけちゃうから。
……前に一度、危ない薬でもやってるんじゃないかって誤解されて大変なことになりかけたし。
ただ、あの一件で事情を知ったトリニティのミネさんから色々とアドバイスを貰えるようになったから、結果的には良かったのかなとも思う。
だけど、ずっとみんなの厚意に甘えているわけにもいかない。
せめて毎日の日課になってるシャーレへの往来くらいは、自分一人でもできるようにならなくっちゃ。
そう思って今日は、帰りに迎えに来てくれるって言ってくれたノアの申し出を無理やり突っぱねた。
……私一人でも大丈夫ってところを見せないと、いつまでもみんなを心配させちゃうから。
玄関の自動ドアを潜った途端、外気の冷たさが一気に押し寄せてくる。
精神的なものとは無関係の寒気が全身を襲って、ぶるりと体を震わせる。持ってきていた傘を広げて一歩踏み出し、意を決して雨の中へと躍り出る。
──さあ、ここからが正念場だ。
私一人でも無事にミレニアムに帰れるってことを是が非でも証明しなくちゃ。
クリアするべき条件は多い。
人混みは天敵。満員電車になんてとても乗れたものじゃない。
だからミレニアムに戻る電車だって、あえて遠回りしてでもなるべく混み合わないルートを予め計算してリストアップしている。
候補として選出した72通りのルートを頭の中で思い浮かべ、現在の状況に合わせて取捨選択。……雨が降ってきたことで選択肢は狭まったけど、この程度なら想定の範囲内。
……よし、いける。大丈夫。ルート選択は完璧。サブプランだって準備している。万が一想定外の事態があっても十分リカバリは利く。
破綻する確率は、極めて低い。
大丈夫。
私はきっと、大丈夫。
……大丈夫じゃなきゃ、いけないんだから。
「それじゃあ先生、また明日……」
“うん。また明日……無理だけはしないでね、ユウカ”
「分かってますって。もう」
心配そうな先生の視線から、逃げるように顔を背けて。
そうして私は、私が私の健常を証明するための試練の道行きの、その最初の一歩を踏み出して──
だけど。
いつだって世界は私の頭の中の予測を容易く飛び越えてきて。
計算外のアクシデントなんて、確率論を嘲笑うように襲ってくるもので。
……ぴしゃっ。
「きゃっ!?」
視覚と聴覚を塗り潰す光と音。
近くに雷が落ちたのだと、一拍遅く理性が認識する。
だけど……その時にはもう、私の本能は恐怖から来る緊急回避的な行動を実行に移していて。
不意打ちで齎された恐怖のままに慄き、驚き、意識がホワイトアウトして……
“だ、大丈夫? ユウカ……”
……それから数秒遅れて、自分が先生の胸に抱き竦められていることに気づいた。
起こったことは単純明快。雷に驚いた私が自分から先生の胸に飛び込んで、先生がそれを受け止めた。ただそれだけのことで。
なんてことのない、ほんのちょっとしたアクシデント。むしろ甘酸っぱいときめきすら感じていただろう。
昔の私なら。
感じる。
感じていた。
先生を、先生がそこにいることを、私の五感の全てで。
自分より二回り以上も大きな体と胸板。見た目から受ける印象よりもがっしりとした体つき。気遣わしげな優しい声。少し汗の混じる臭い。暖かな人肌の温もり。感覚を、感触を、存在を、その全てを、ゼロに縮まった距離で感じて。
触れられている。触れている。触れ合っている。私は、今、先生と──
──おとこの、ひと、と。
『──■■■■■■■、■■■■■■■■■■、■■■■!』
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『■■■■■■、■■■■■■■■、■■■■』
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『──■■■■■■。■■■、■■■■■■■■■!? ■■■、■■■■■!!!!』
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『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──』
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「っ……ひ、あっ……」
一瞬で理性が吹き飛んだ。
声が出ない。視界が歪む。体ががたがたと震える。寒気が、恐怖が、止まらない。どうして。ここにいるのは先生なのに。きもちわるい。先生なら大丈夫なのに、そのはずなのに。頭では、理性では分かっているのに。きもちわるい。こわい。きもちわるい……吐きそう。
なんで、なんで、なんで、なんで──
“……っ! ごめんユウカ。離れ……”
「駄目!」
恐怖の壁を突き破って、ほとんど反射的にそう叫んでいた。
私から離れようとする先生の背中へと咄嗟に手を回して、私の方から強く抱きしめる。……離さない。絶対に、離さない。たとえ死んでも、拒絶なんてしたくない。
「はなれ、ないで……ください。せんせい」
“ユウカ!? でも……”
「わ、わたしは、だいじょう、ぶ……先生、なら……だいじょうぶ、です……から……」
そうだ。
大丈夫。
大丈夫なはずなんだ。
だって先生は、私が一番信じられる大人で、男の人で……
いつもだらしなくて、ちょっとエッチなところもあるけど、それでもいつだって私たち生徒の味方をしてくれた。
私の、
だいすきな、ひと、で。
だから拒絶するな。
この人なら大丈夫。絶対、私を傷つけるようなことはしない。
だって、この人は、
わたしの、わたしたちの、先生、なんだから……
だけど、どれだけ頭の中でそう自分に言い聞かせても、私の中の合理と理性じゃ制御できない部分は絶えず悲鳴を上げ続けていて。
視界がぼやける。自分でも目の焦点が合っていないのが分かる。からだががたがたとふるえて、寒い。あったかいのに寒い。どうして。どうしよう。どうして。
いやだ。いやだ。離して。触らないで。離れたい。さわらないで……違う! そうじゃない! この人は大丈夫。だって先生は先生なんだから!
先生は、大丈夫……大丈夫だから。拒絶したくなんてない。したくない。したくないのに。どうして?
もうやだ。はなれたい。はなれたくない。たすけて。たすけてせんせい。こないで。はなさないで。はなして。
あたまのなかの、大事な部分がぷちんと音を立てて切れた。
唐突に……ブレーカーでも落ちたみたいに、がくん、と体に力が入らなくなる。先生を抱き竦めていた手から、全身から、力が抜ける。
そのまま先生の体に凭れ掛かるようにして、ずるずると私の体は地面へと崩れ落ちていく。
「はっ……か、ひゅっ……はっ……」
息ができない。酸素が、脳に供給されていない。頭の中が搔き乱される。ロジックが、計算が、くみたて、られなくて……のこってるのは、ただ、こどもじみた、きもち、だけで……
やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ。
先生を信じたい心。駄々を捏ねるように喚くココロ。心とココロが矛盾して、悪夢が現実を侵食して。
そうして最後には、なにもかんがえられなくなって。
私は呆気なく、現実を手放した。
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あたたかいかんしょく
おおきくてつよいてが わたしのからだをだきすくめる
ふれられている おぶさって はこばれて からだに ちからがはいらない
いやだ さわらないで いやだ やめて いやだ いやだ いやだ
たすけて だれか たすけて たすけて たすけて たすけて
せん せい
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「……っ! はっ、はっ、はっ……!」
目を覚ます。
体を起こす。
周りを見回す。
……さっきまでいたシャーレの休憩スペース。そのソファの上で、私は寝かされていた。
体の上には温かい毛布が掛けられていて……だけど、まだ体中がぞっとするように寒い。
“……ユウカ! 気がついたんだ。よかった……大丈夫?”
「せ、ん、せい……」
そっか。私……あの時、倒れて……
稼働を停止していた脳が少しずつ再起動していく。
まだ震えが止まらない。……頭の中で、こわい音ががんがんと鳴り響いていて。耳を塞いでも、何度頭を振っても……脳髄の奥にこびり付いて、離れない。
“さっきミレニアムに連絡したよ。ノアが迎えに来てくれるって”
「……そう、ですか」
……情けなかった。
無理して、一人でも大丈夫だからって意地を張って……その結果がこのザマだ。全然大丈夫じゃない。
かえって先生やノアを、みんなのことを心配させてしまって……つくづく自分が厭になる。
“ごめんね、ユウカ。私のせいで”
先生がぽつりと呟く。
絞り出すような声。辛そうで、苦しそうで……自らの至らなさを悔いるような、許しを請うような。
……先生のそんな声を聞いたのは初めてで。そんな辛そうな声を上げさせてしまった自分自身が、何より申し訳なくて。
「先生のせいじゃ、ないです」
結局、私にはそう力無く呟くことしかできなくって。
なんて無力で、惨めなんだろう。
「……私の方こそ、ごめんなさい」
“ユウカ?”
また、視界が歪む。
涙がぼろぼろと零れ落ちて止まらない。制御できない感情が雫となって、止め処なく溢れてくる。
好きだった。
大好きだった。
ただ会うだけで胸が高鳴って、触れ合うだけで嬉しかった。
……そのはずなのに。
何の合理性も必然性も無い、理解できないような理不尽が私を塗り潰して。
抵抗すらできずに穢されて、踏み躙られて、呪われて……壊されて。
そのせいで、今はもう……大好きな人と、直接触れ合うことすらできなくなって。
強がって……平気なふりをして、自分を誤魔化して、悲しみから、恐怖から、怒りや悔しさ、屈辱から、言葉にできない感情から……ずっと逃げてただけで。
本当は……私は全然、大丈夫じゃなかったんだ。
「ごめん、なさい……ごめん……っ、わたし、結局、先生やみんなに、迷惑ばっかり、かけて……私の、せいで……」
とっくに理性なんて壊れ果ててた。
悲しみも怒りも、全部吐き出してしまいたくて……ただの幼子のように、先生の前で泣きじゃくり続ける。
“迷惑なんかじゃ、ないよ。……聞いて、ユウカ”
そんな私の耳に響いたのは、いつだって優しい先生の声で。
“もしもユウカが、ほんの少しでも自分が悪いとか、自分に責任があるんだとか考えていたとしたら……それは違うよ。絶対に、違うから”
諭すように。それでいて、私の心を癒すように。
私の目をまっすぐ見て、真剣な眼差しで私に語り掛ける。
“ユウカは悪くないよ。ユウカが謝る必要なんて、どこにもない。だから……ユウカが自分を責めたりなんか、しないでいいんだよ”
……やっぱり、先生は優しい。
いつだって私のことを見てくれて、私のほしい言葉を掛けてくれる。
そんな先生のことが私は大好きで。その気持ちは今も、これっぽっちも変わっていなくって。
触れたい。
先生に触れたい。
先生と触れ合いたい。
素肌の感触を、体温を、温もりを感じて。
あなたがここにいるって、私のすぐそばにいるって、私の全部で確かめたい、
それは本来、幸せなことで……幸せを感じられるべきこと、だったはずなのに。
どうして、こうなっちゃったんだろう。
“……ごめん、ユウカ。私には、ユウカを助けられなかった”
なんて、暗い顔をしていたのがいけなかったのかな。
ああ、また先生を謝らせちゃった。
……何やってるんだろう、私。
“本当は……今のユウカに私がしてあげられることなんて、あまり多くないのかもしれない。ユウカの苦しみを本当の意味で分かってあげることは、私にはできないから”
心の底から悔しそうに、先生はそう口にする。
先生は優しい人だ。
私のことを信じてくれる人。私が心から信じられる人。
どんな生徒にだって──もちろん私にだって、寄り添ってくれるし気に掛けてくれる。
私たちが苦しんでいたら、その苦しみを理解して、共に背負おうとしてくれる。
いつだって生徒の目線で、生徒がやりたいことを考えてくれる。
それでも……どうしたって限界はある。
先天的な性差の壁。先生が男の人で、私が女の子である限りは、絶対に踏み込めない領域だって、きっとあるのだろう。
それはきっと、揺るがせない真実で。
だけど、そうだとしても──
“今、セリナが温かい飲み物を準備してくれているから。その……私が傍にいると、ユウカが落ち着かないなら……”
「まって!」
立ち去ろうとする先生に向かって手を伸ばす。先生の服の袖口を、指先できゅっとつまんで引き留める。
……これが、今の私の精一杯。
“ユウカ……?”
「いかないで、ください、せんせい。なにもしなくて、いいから……わたしの……そばに、いて……ください。おねがい……です」
たどたどしく、まだ上手く回らない口を必死に動かして、なんとか言葉を紡ぐ。
これだけは、この気持ちだけは、絶対に先生に伝えなくちゃ。
「助けられなかっただなんて、そばにいれない、なんて……言わないでください。あの日……私を助けてくれたのは、先生なんです、から」
合理も理性も、今だけはどうでもよかった。
今はただ、この感情を。壊れかけた心が叫ぶ、最後の欲求を。
それだけは絶対に否定されたくなくて。先生も、誰にも……自分自身のココロにだって。だから。
「たとえ触れられなくたって……先生がこうして傍にいてくれるだけで、私は、救われるんです」
大切な人が、大好きな人が、ただそこにいてくれるだけで。
それだけで、安心できるから。幸せな気持ちになれるから。
「だから、せんせい」
先生の袖をつまむ手を、少しだけ引っ張って。
「あと、ほんのちょっとだけ……先生のお時間、私にいただけますか……?」
上目遣いで先生の顔を見上げながら、そう懇願する。
ずるいことをしているって自分でも分かっている。
だって……答えなんて、わざわざ聞くまでも無い。
こんな時、いつも先生は私の一番欲しい言葉をくれる人だって分かってるから。
“──うん。私で良ければ、喜んで”
……ああ。
やっぱり先生は、優しいなあ。
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夜のシャーレのオフィスで、二人寄り添い合う。
決して触れ合うことはなく……だけど、袖口をつまむ指先から伝わる感触に、確かな繋がりを感じて。
まだ、震えは止まらない。
あなたと触れ合うことはできないけれど。
それでも、あなたの心に触れられたことが嬉しくって。
ほんの少しだけ、暖かくなった気がした。
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