補正30の内訳

補正30の内訳


「これは読み終わった、これも縫い終わった、これに至ってはもうすっかり覚えてしまって……あ、画材もないわね。詰みだわ」

マグダレーナ・ウォラギネラは暇を持て余していた。やることがないのである。

”体質”の不安もあり、彼女が最近さらに集められつつある騎士団のメンバーと同じように行動することはほとんどない。日に日に狭まる行動半径には多少苛つかないこともなかったが、下手に接触して予想しうる最悪の事態が起こるよりはマシである。

第一、その一撃一撃がこの場にいる大半の者にとって即死級となるような虚閃の達人なんぞが気楽に外を出歩きなどしたら、恐慌状態に陥る者もいないとは言い切れないだろう。

この件に関しては彼女と兄との利害は完全に一致しているため、無理に逆らうこともない。

「兄様は…今日は忙しくなると言っていたものね…」

割とじっとしていられない性分の彼女のことを慮ってか———否、単に暇にさせておくと何をしでかすかわからないからかもしれないが———兄は頻繁に様子を見に来てくれる。それも望み薄の今日は、本格的に虚無の日和と相なっていた。

「とても……暇!」

結論として口に出してみると、余計に意識してしまうのが人(でもないが)のサガ。

「馬でも借りてどこかその辺に散歩にでも…行くのはこの間やめろと言われたばかりですし…」

これが兄の私物であれば大体は持ち出しても怒られないのだが、一方で「これは国家、軍隊としての共有財産だから勝手に持ち出してはいけない」という方面で攻められると倫理観的に知らぬ存ぜぬで通せないのがマグダレーナという女である。

「これはもう…窓の外の鳥でも数えるしかないのかしら……」

そうして窓を全開にして外に身を乗り出したマグダレーナは、途方に暮れた顔で空を見ている少年を見つけ、本日一番の笑みを浮かべた。



「で?どうしたのよ」

「…今日は、休みを取れって言われたんですけど……その、何もしなくていいと言われたら、何をしたらいいかわからなくなって…」

ふるふると震えながら返事をよこす少年に、「初対面でもあるまいし、いつまでビビってんのよ」とため息を溢すマグダレーナ。

ちなみに、現在少年が怯えているのは相手が突如死角から頭上を通過し鼻先1メートルの位置に着地したからであり、「これもう少し狙いが雑だったら脳天直撃してたよね」という生理的本能的な恐怖からである。もっともそれを指摘したところでお叱りの内容が「私がその程度の狙いを誤るやつに見えてるの?」に変わるだけなので、救いはない。

「普通にゆっくりして好きなもんでも食えよ」

「好きなもの…」

少年が、ゆーーーーっくりと首を傾げる。

「……なんだろう」

「うっそでしょオマエ、何かないわけ」

「ご、ごめんなさい……あの、そもそも、今あんまりお腹空いてない、です」

ふうん、と鼻を鳴らすマグダレーナに、少年が半ば反射のように今一度「ごめんなさい」と声を上げた。

「…兄様の補佐になるやつがこの程度のやり取りにいちいちビビってんじゃねえよ」

「……はい、すみません…」

なお、現在少年がビビっているのは彼女の気迫とかそういうものに対してではなく、単純に彼女の兄から「機嫌次第で何をしでかすかわからない」という評価を聞いているからである。先だってもご機嫌取りに土産話をしに行ったヒューベルトが「同族を堂々と獣畜生呼ばわりして憚らない阿呆をそばに置いておくほうが兄様の恥よ」と逆さ吊りにされるなどしていた。彼女が道義に悖ると考えれば基本的に兄であろうと容赦無くそうなるため、倫理観を磨く以外に対処法はない。

とはいえ、別にお腹が空いていないことはなんの罪でもないのである。

どうしたものかしらね、とマグダレーナは首をひねる。

何も別に暇潰しがしたいからというだけでこの子供を捕まえたわけはないのだ。一応、兄様からも「子供のことはよくわからん、必要そうなら面倒を見てやれ」と頼まれてもいるのである。彼女的には「いや、種族の生態的に考えれば普通私よりも兄様の方が大抵のことには聡いはずではありませんこと」とツッコミを入れたくもなるところだが、まあ兄様だから仕方ない。そもそも人の心とかよくわかってないのよね、あの人。

…割と兄への評価は辛辣な、そんなブラコンであった。


(んー、まあ、人間がして楽しいことなんてざっくり分けたら三、四種類ぐらいしかないわよね!子供に教えて倫理的に大丈夫なやつでも教えておきましょう!)

元来、深く考えるよりは行動を起こす方を選ぶ性質である。

「ちょ、え、あ、何」などと狼狽きった声を上げる少年を軽々抱き上げたかと思えば、「舌噛むから口閉じなさい」と上へ飛び上がる。

「何をするつもりなんですか……!?」

「何って…寝るんだよ」

「寝る!?」




”寝る”との言葉を聞いてしばらく顔と目を赤青白黒忙しなく行き来させていた少年は、マグダレーナが「この辺りじゃ私のベッドが一番ふかふかで質がいいのよね」などと言いながら自分をベッドに転がし腹をポンポンしだしたあたりで己の勘違いに気づいたのか多少落ち着きを取り戻し始めた。

「人間って子供を寝かしつける時には歌を歌うのよね。なんだっけ。ふーんふふー、ふーふーん、みたいな。合ってる?」

「さあ…聞いたことないから…わからない、です」

だいたいもう寝かしつけが必要な歳でもないし、という静かな抗議は「歳なんて一歳も五歳も誤差だろ」という適当極まりない理論により棄却された。

「それとも昔話とかの方がいいのかしら。とはいえ話せるようなことなんてあまり知らないし…むかーしむかし、我らの偉大なる父は悪しき企みにより臓腑を抉られ冷たき石へと封じられ…とか…?」

「逆にそれで眠れる人いるの…?……って、いや、そもそもなんでぼくが寝る前提になってるんですか」

毛布とクッションの山に生き埋めにされながら抗議の声を上げる少年をさらにクッションの合間深くに沈めながら、マグダレーナは「何言ってんだこいつ」といった様子で首を傾げる。

「なんでもしていい時っていうのは何もしない事こそが一番の贅沢じゃない。何悩んでんのか知らないけど、明らかに根詰め過ぎだものね、オマエ」




「とはいえこれはこれで暇ね。寝付くまで何か話しなさい。私が興味ありそうな話限定な?」

横暴極まりない命令に、少年が幾分かとろんとし始めた目で「無茶振りはやめてください」と返す。

いい感じに効いてきたわね。最高級の布団に勝てる生物など存在しないのよ、となぜか自慢げに頷きながら、マグダレーナはさらにたたみかけた。

「…話したいこととか、何もないの?」

正直なところを言えばいい感じに体が温まって気が抜けてきたところでうっかり身の上話でもぶちまけてくれないかしら、兄様に聞いてもあんまり教えてくれないのよねという打算も籠った我儘だったのだが、しかしながら返す言葉は思っていたのとは少々違う方に飛んできた。


「…妹様は…純粋な滅却師ではないんですよね。…虚の一種で…」

「そ。実はちゃんと服の下に孔も開いてんだぜ。見たい?」

「みっ、みみみ見ません…!」

ひらひらとドレスの裾を捲って見せると、少年が俄に慌て出す。その様子を愉快に思ったマグダレーナがけらけらと笑っていると、少年は下がりがちな眉尻をキュッと上げて割合しっかりとした抗議の声をあげた。

「…話、逸らさないでください。怒りますよ」

「ちっ」

バレたか。正直言って種族についてのあれこれは兄様的にも触れられると面倒な話なのだけれど。

「滅却師は虚を滅却するものですよ」

「当たり前じゃない」

「それって…裏切り、じゃないんですか。仲間への」

「そう?私からしたらそこらの虚とかはあくまで元が同質の存在ってだけだし、要素的には兄様の方が身内って感じするけど」

「………そうですか」

少年の瞳がいくらか失望の色を帯びて潤んだ。

望んでいた流れにならなかったみたいね、と、マグダレーナは半ば他人事のように視線を泳がせる。

(よくわからないけど、私を種を裏切るものとして弾劾したい、って風にも見えないのですよね。むしろ、どちらかといえば「そうあって欲しかった」というようにも聞こえるような…)

ぐるぐると思考を巡らせてみるも、あまり有益な結論に辿り着ける気がしない。そういう時は本人に直接聞くか綺麗さっぱり思考を打ちきれ、というのが彼女のロジックである。今回の場合は、明らかに本人が話したがっていないので後者。


「…じゃあ、復讐のためなの」

「んー…」

「……親の仇に………二人で、復讐のために努力して…」

いよいよ眠気が回ってきたのか些か語調がふやけてきている少年を見下ろし、マグダレーナは(どうしようかしら)と暫し思案する。

…まあいいか、教えちゃっても。どうせ兄様にはバレてるだろうし。

なんだか今日はそんな気分だと心に決め、彼女は囁くようにして口を開いた。

「…私、実は復讐とかはそんなに気にしてない」

「え」

「世界の仕組みを変える〜、とかも、あんまり」

「…じゃあ…なんで…」

「お父様のことをなんとかしてあげたい気持ちは、まああるのだけれど。ここにいるのは、兄様と連むのが好きだから、なんとなくそういうのに乗っかってやる気あるってことにしてんの……やっぱダメよね、こういうの」

「だめじゃない」

眠気に負け始めていた声が俄に鋭さを帯び、まるで自分に言って聞かせてでもいるかのように強く溢れた。

「…だめじゃ、ないですよ」

その声がどことなく悲しげに聞こえて、マグダレーナはため息をつく。

子供が一丁前に溜め込んでんじゃないわよ。

「…オマエさ」

「……はい」

「何悩んでんのか言いたくないなら聞かないけど、キツかったらちょっとは逃げな。オマエ、見た目は結構カワイイし、それで兄様に捨てられるようなら私の子分にしてあげる」

「子分かぁ…」なぜか女の髪を見ながら苦笑するようにして、少年がくたりと枕に顔を埋めた。「子分は……もう…いいかなあ…」

「贅沢なやつ」

「……もっと…ちゃんと、えらくなって………」

少年がスヤスヤと寝息を立て始めるのを確認し、マグダレーナはだらりと姿勢を崩して息を吐いた。

「…じゃあせめて兄様のオトナな威厳の半分でも身につけろよな、クソガキ」

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