裂傷、打撲、心的外傷。
檜佐木がふと顔を上げた時、とうに陽は沈んでしまっていた。使い慣れた編集室の机にかかる影を暫く見つめてため息をひとつ。家に帰りたくないと駄々をこねる子供のような感情を心のうちで転がして、檜佐木は重い腰を椅子から上げようともせずぼうっとしていた。
「………痛ッ」
身じろぐと神経を軋ませる脇腹に顔を顰め、死覇装の合わせからそこを覗く。昼間技術開発局で六車の拳を受けた折に出来た青痣が、濃い紫を孕んだ不気味な色になって肌に巣食っていた。右腕の内側には、爪の食い込んだ歪な裂傷がまだ残っている。ゆるい出血はもう止まっているけれど、鈍い痛みは消えていなかった。
檜佐木の回道技術はそう高くない。あれは普通の鬼道とはまた異なる質の技術を必要とするもので、檜佐木は自分の小さな傷を癒すくらいしか出来なかった。
今回は大分重いものを食らってしまったから、檜佐木の力では治りきらない。それでも檜佐木は四番隊に行こうとしなかった。理由を説明して六車への偏見が高まることも、彼が傷つくことも、必要以上に復帰への遺恨を残すことも檜佐木は良しとしていない。
骨に異常が出るような怪我をしていないのがせめてもの救いだ。六車が抗っているから。檜佐木を――否、誰も傷つけまいと、あの人はずっと戦っている。それなら檜佐木もこれくらいは耐えて見せる。その決意を持って、檜佐木は痛みをひとり内側に抱えていた。
「檜佐木さん?まだ残っていたんですか」
「……吉良。どうしたお前、こんなとこにこんな時間で」
「十二番隊に用がありましてその帰りです。いつもの"調整"ですよ」
いつの間にか入口に立っていた吉良は、酷く静かな気配を更に絞っている。反応が遅れた理由をそこに見て、檜佐木は苦笑した。
吉良の霊圧は昔布団を並べて眠っていた頃と変わらないのに、感覚を少し尖らせてみれば薄く別の何かが混ざっている。一度消えた霊圧。訃報を聞いて、諦めて、けれど大戦が終わった後でまたその霊圧は普通にそこに現れた。
死んだままですよと鼓動の止まった左の胸に手を当てて笑った吉良は、それでも檜佐木にとって吉良イヅルのままだ。
「帰らないんですか」
「ああ、少しな……」
決まり悪く頬を引っ掻いた瞬間、吉良に手を掴まれて瞠目する。ぐっと引かれた腕に走った痛みに思わず呻くと、血が乾いて固まっていた部分がばつりと裂けた。
「……血の匂いがすると思ったら。何ですか、これ」
「…………」
「六車隊長ですね」
「!」
確信を持った声だった。
「聞いてますよ。時々バランスが崩れて呑まれるって。……僕のこの熱と同じようなものなんでしょうね。放熱しないと気が狂いそうになりますし、あの人達が暴れてしまう理由もわかります」
あの人達、と。吉良は酷く硬い声で、距離を置いた言葉で六車と――恐らく鳳橋を称する。
「どうして会いに行くんですか。どうして、危ないと思ったら離れないんですか」
「……独りにしておきたくないんだよ。わかるだろ」
「わかりません!」
血を吐くような声に、檜佐木は一瞬言葉を忘れた。
「そんなふうに貴方が傷ついて何になるって言うんですか!」
「拳西さんを独りにしないで済むだろ!身体の傷は治っても心の傷は治らねえことなんて沢山ある!」
「だからって……!」
傷口に滲んだ赤色が、檜佐木の腕を伝って線を描く。吉良の目は泣き出しそうに歪んでいた。
「……鳳橋隊長も時々苦しんでるって聞いてる。お前は、吉良、あの人が独りで苦しんでいてもいいのか?傍にいなくていいのかよ!」
「あの人は違う!あの人は絶対に、僕を傷つけたりしません!」
「………!」
側頭部を殴られたような衝撃に、檜佐木は息を止めた。ぜ、と吐き出した息が乱れて喉が詰まる。
吉良が口元に手を当てたのが見えた気がしたが、それに反応する余裕は檜佐木には無かった。