血肉の味を
目の前がぐらりと回転する。
自分の技をくらった者はこんな視界になるのだろうか。どこか他人事のように思いを馳せながら、身体が地面に打ち付けられる音を聞いていた。
「……全く。なかなか来ないと思ったらこれなんだから」
「面目ない……」
ドラルクがおかず多めに作ったから取りにおいでよ、と連絡したのが少し前。その後すぐ取りに行こうとした響凱だったが家を出たところで盛大に倒れてしまい、姿を現さないことを疑問に思ったドラルクが駆けつけてその姿を発見したのがここまでの流れであった。
ドラルク一人ではどうやっても運べないためどうにか叩き起こし、部屋で横にならせているのが現在である。
「ロナルド君は今外に出てるから良かったけど、あんな姿見つけたらパニック起こしてただろうよ。気をつけたまえ」
「言い返す言葉もない……」
うぅと呻く響凱を見ていたドラルクは、気になってたんだけどと言葉を続けた。
「君。最近血を飲んでないな?」
どこか張り詰めた無言の間があく。しかしその後に響凱から肯定の言葉が返されると、ドラルクはあぁやっぱりとため息をついた。
「ここに来てすぐVRCで検査してもらってるからとうにわかってるだろう?前が何であれ、今の君は限りなく吸血鬼なんだ。つまり何であれ確実に血が必要な身体になっている。血を飲まないでいれば当然身体に影響は出るようになっているんだ。それは君も理解していると思っているのだが」
「………それは、理解している」
「じゃあ、何で飲まないんだい?」
わからないとドラルクが問うと、響凱は絞り出すように答えを返した。
「……恐ろしい。血の味を、再び口にするのが」
「…………」
「人食いの鬼に、また戻るのではないかと思ってしまう」
自身は悪い鬼だった、と魘されるように口にする。悪い夢のような、確かにあった話だった。
「小生は鬼だった。人を虫けらと思い殺し続け、自らのために貪り食らう。そんな鬼だった。だから、地獄に堕ちたのだ」
「…………」
「許さないと言われた。人を殺したことを。……当然だ。だから地獄に堕ちた後は、……自分なりに、償いはしたつもりだ」
「……地獄とやらから出ている以上、それはできたと考えて良いと思うが」
ドラルクの言葉に、響凱は困ったように笑った。そうして続ける。
「ここに来てからは吸血鬼、というものになってしまったが……結果として血は必要であっても人は食べずとも大丈夫になった。ありがたい、ことだ。だからこそここでは過ちは繰り返さぬよう過ごしていこうとしている、つもりだ」
「うむ。君はここでは締め切りに追われ、編集者に追われ、あらゆることに振り回される吸血鬼生0歳児だ。……少なくとも、君が語るここに来る前の君ではないと私にはわかるな」
響凱は若干茶化して言うドラルクに苦笑しつつ、しかし感謝すると小さく呟いた。
「それでも思い出すことがある。ここであたたかな暮らしを過ごせば過ごすほど、人間に優しくしてもらえばもらうほど、……人を食らっていたことを、その味を確かに思い出す」
「………そうか」
「それを繰り返したある日、血を口にした瞬間鮮明なほどに人を食べた感触を思い出した。………その日、から。血を飲むことが、できなくなった。わかっている。吸血鬼には血が必要だ。今は鬼ではない。戻ることはないとわかっているのに、──いつかまた、小生は人食いの鬼に戻るのではないかと思うのだ」
戻りたかった。あの認められた鬼の座に戻りたいと強く願った時があった。そうして人を殺し貪り食った癖をして、今は鬼に戻りたくないと願っている。
なんて愚かなのだろう。
「……私には君の苦しみや恐怖はわからない。ここに来る前の君のことは、ここでは君にしかもうわからない」
「………」
「それでも、多分。血でその記憶を刺激されるということは……血、らしさを幾分か薄められれば少しはマシにできるんじゃないだろうか?」
くるり、と回転した話題に響凱は目を丸くする。そんな様子にお構いなしにドラルクはふむ、と考え込んでいた。
「そうだ!あれとかどうだろう!血の牛乳割りだ。牛乳は君もこっちに来たばかりの時に飲んだし当然わかるだろう?レモネードに混ぜるのも良いぞ。あれならいくらか味が緩和されるし……」
「あ、いや、その」
「それでも駄目だったらそうだな。何か料理にでも入れてみようか。気がついたら血が摂取できてるように上手く混ぜてやろう!このドラドラちゃんの料理の腕前にかかればできないことはないぞ!」
えへん、と胸を張ったドラルクに響凱は狼狽える。どうして、どうしてそこまでと口にする。
「言っただろう。ここに来る前の君のことはもう君にしかわからない。君の抱える罪の意識もまた君にしか背負えない。だから──結局のところ私たちにとって君は、現代慣れもまだできていないちょっとおかしな隣人でしかないんだ。隣人がぶっ倒れてたら気にしてしまうじゃないか」
「……りん、じん」
「そうとも。君がどう思おうと……ここには君が思うよりも、君を気に入ってる者はいるものだよ。例えばうちの5歳児とか」
まあ既に5歳児もいるんだ、吸血鬼生0歳児くらいわけないさ!とドラルクは笑った。共に執筆する者がいるということは励みになるらしい、まあこの前二人で揚げ物寸前まで行ってたわけだが!あれはすごい有様だったねえ。高らかに紡がれる間の抜けた日常に、次第に響凱もつられるように笑っていた。
重い罪があった。長い贖罪の時間があった。それを経てもなお、記憶がある限り感触は消えることはない。ついてまわる影のように、そばに居続けるだろう。
それでもこの地で人と歩む道をとった彼を認める者がいることも、この地がそう歩む者を拒まないこともまた事実だった。
痛みを抱えながら、あたたかな日々をここで。
「安心したまえ。バブちゃん吸血鬼の君にはこの私がたっぷりこの地での生き方を教えてやろうではないか!」
……こうしてドラルクが嘘のおかしな知識を響凱に吹き込み、それに気づいたロナルドが怒ってドラルクを塵に返すのも。
どこかおかしくて不思議な、ここにある優しい日常の話。