蜘蛛の糸
思い返せば耳が熱くなる。
雨明けの風を受けても頬は赤いし、心臓も過重労働で悲鳴をあげている。 それに、何より。
《………ぶぅ…》
隣にいるであろう、明らかに不機嫌な自分のサーヴァントの存在も体の熱さに拍車をかけていた。
「し、信乃?その……怒ってる?」
《別に怒ってないよ、マスター》
ご丁寧にも怒気を含んだ声で返答してもらえた。……霊体化してるため表情こそ伺えないが、感情を推し量るのにその必要はないだろう。
少し目を閉じ、昨日を思い返す。嵐のような、数時間前を。
あの後、少年は俺の申し出を受け入れ、自宅へと案内した。 ライダーとセイバーは透明に…霊体化というらしい…なって付いてきている。二人仲良く雨に濡れながら、住宅街を歩く。
「…ここが、おにーさんの家?イヌイ………シンヤ、カオリ、ナギ………このナギがおにーさんの名前かな?」
「あ、うん」
少年の質問に答えながら思考を止め、その視線の先に顔を向ける。
……ごく普通の一軒家だ。二階建てで、少し古びている以外は特に特徴はない。
「それじゃ、おじゃましまーす」
少年は何の遠慮もなく玄関を潜る。
玄関もまたこじんまりしており、靴箱の上には小さな犬の置物が置かれていた。
「へぇ…可愛いじゃん、このワンちゃん…犬に縁のある家系だったりする?」
「さ、さぁ…?普通の家系だと思うけど…」
少なくとも両親からはそんな話聞いた事がない。
「そっか……あ、この靴おにーさ…ナギさんの?」
玄関の端には一足のスパイクが置いてある。使わない日でも玄関の隅に置く習慣が付けられているのだ。
「あぁ、うん」
「へぇ、スポーツとかやるんだ」
少年は嬉しそうな表情でその靴を見つめ、脱いだ自身の靴を並べて置いた。
そのままリビングへと案内する。少年はリビングに置いてあるテーブルの椅子に座ると、キョロキョロと辺りを見回す。……少し子供っぽい仕草が、年相応に見えて微笑ましい。
「風呂沸かすから入っちゃえば?風邪ひくし」
「え?」
少年が驚いたような表情でこちらを見る。 ……何か、変な事でも言っただろうか?
「……本当に…ナギさんお人好しすぎでしょ。普通自分の命を狙った相手を風呂に入れる?」
「そうかな?だとしても、君だって風邪引いたら大変だろ」 「だとしてもって……まぁ、そうだけどろ……」
少年は立ち上がり、少し迷うような仕草を見せた後、口を開く。
「……じゃあ、お言葉に甘えて入らせてもらおうかな。お風呂はどこにあるの?」
少年は立ち上がり、風呂場の場所を聞く。
「あ、浴室は一階の廊下の突き当たりだから……俺はこの部屋にいるね」
「うん、ありがとうナギさん」
そう言って少年はリビングから立ち去る。
「…すまんな、ライダーのマスターよ」
少年のサーヴァントである老戦士…セイバーが霊体化を解き姿を現わす。
「ッ!……いや、大丈夫だけど……」
突如現れたセイバーの存在に、僅かに体が強ばる。……ライダーを圧倒する程の力を持ったサーヴァントが、すぐ目の前にいる。 俺程度なら如何様にも殺せる存在が………
「そう警戒せんでも良い。小童が世話になっている間は、敵対する理由もない」
…小童とは、多分マスターである少年の事だろう。あの少年について質問しようと口を開いた矢先、 「…ボクはまだ信じてない」
霊体化を解いた信乃が俺とセイバーの間に立ちはだかる。その表情をこちら側から覗うことはできないが、その背中からは警戒の色が滲み出ていた。
「シノ、と言ったな」
セイバーが静かに語りかける。
「仮に今から儂がそこのマスターに危害を加えるとするなら、お前さんはどうするつもりだ?」
「お爺ちゃんが手を出すより疾く、ボクがその首を落としてあげる」
信乃は本気だった。セイバーと信乃の間に張り詰めた空気が漂う。
「ふむ、なるほどな……」
しかし、セイバーはそんな空気など意に介さないかのように笑いを零す。
「何が可笑しいのさ」
そんな態度に苛立ったのか、信乃が語気を強める。
「なに。儂が思っていたよりも、シノはマスターを好いているようだ」「なっ……」
信乃が言葉を詰まらせ、その耳が僅かに紅潮する。 セイバーは笑うのを止めて信乃に向き直り、諭すように語りかける。
「シノよ、ナギから目を離すな」「は?」
「ナギのお人好しは筋金入りだ。命を狙ってきた相手でも家に招き、風呂まで貸そうとする……そんな奴を一人にしてはならん。いつ首を獲られてもおかしくないぞ」
「そんな事言われなくたって、ボクはッ……」
セイバーは信乃の背後にいる俺を一瞥して続ける。
「年寄りの忠告は聞いておけ、シノ。お前さんも、喪う恐怖は知っているだろう?」
それだけ言って、セイバーは霊体化により姿を消した。
「……っ」
信乃は、セイバーの消えた空間をしばらく睨みつけていた。
それからだ、信乃の機嫌が悪くなったのは。だが、ただ怒ったり、不機嫌だったりというのではない。
昨日のセイバーとの会話からずっと、不安のような、焦ったような表情のまま、信乃は俺の隣を歩いている。
それはそうとして、雨上がりの未明から、ライダー達と共に路地裏を歩いてるのには理由がある。
再び目を閉じ、脳内を少年が風呂から出た後へと遡行させる。
「自己紹介がまだだったね…俺はソルヴィ。ソルヴィ・アーリソン……本当は、もっとはやく挨拶するべきだったんだろうけど……」
未だに湿った髪を乾かしつつ、ソルヴィと名乗った少年は申し訳なさそうに頭をかく。
「あぁ……いいよ、そんな礼儀とか。俺が誘って家に上げたんだし…」
「いや、それでもね……ナギさん、命の恩人だしさ」
そんな大袈裟な、と言いかけて言葉を飲み込む。
「だから、さ。さん付けで呼ばしてよ、ナギさん」
真摯な瞳と目が合う。その目には偽りも、敵意もないように見えた。
「……わかったよ」
俺の答に、ソルヴィは嬉しそうな表情を見せる。だが、少しだけその表情を曇らせると、こちらにそっと手を差し出す。
「でさ……これは提案なんだけど、ナギさん」 何を言うのかと、その手を見つめる。
「ボクに協力してくれないかな?」
「協力?」
出された掌とソルヴィの顔を交互に見る。
「聖杯戦争は魔術師達が死にものぐるいで殺し合う儀式……ナギさんみたいな一般人じゃ太刀打ちできるハズもないし、ボクとしても一般人相手に戦うつもりはないんだ」
ソルヴィは俺の心を射抜くように見つめる。その瞳は何処か必死で、提案している側なのに縋るように思えた。
「それは…ありがたいけど、良いのか?魔術師の戦いに俺みたいな普通の奴なんかじゃ…」
「大丈夫だよ、ボクがナギさんを守るからさ。それに、ナギさんにも戦闘以外で手伝ってほしい事もあるし……あ、けど守れない時もあるからその時はライダーに助けてもらってよ?」
ソルヴィの返事は実に頼もしいものだった。それは今までの不安を全て拭い去ってくれる程に。
「……わかった、よろしく頼むよ」
俺が手を握ると、ソルヴィは嬉しそうに笑った。その笑顔に、年相応さを感じて俺も釣られて笑って……
《……ねぇ、マスター》
「んっ!?」
ライダーの声に意識を引き戻される。
《セイバーのマスターの……ソルヴィだっけ?に、協力するって約束した後、なんて言われたか覚えてる?》
ライダーが、少しだけ怒気を含んだ声で言う。……そういえば何か言われてたような気がする。
「えっと……確か……他のマスターかサーヴァントを見つけて、発見したとしても交戦はするな、だっけ」
直接口には出さなかったが、恐らくソルヴィは信乃の戦闘能力を信用してはいないのだろう。信用しているのならそのまま倒せ、とでも言ってくれるはずだ。
「つまり、俺達の目的は他陣営の偵察…って所かな」
サーヴァントは他サーヴァントの存在を感知できるらしい。その能力で、他のサーヴァントを発見次第、交戦せずに撤退して報告する。
『まぁ、もし見つかってもライダーの足なら逃げられるでしょ?あのでっかいワンちゃんに乗っかればさ』
と、ソルヴィからは随分と楽観的な見解を示されている。
《…ねぇ、信用し過ぎじゃない?殺されかけたのに仲間になれって言われて、挙げ句敵の偵察に行けって……》
確かに、信用し過ぎかもしれない。
「でも……あの目がさ」
ソルヴィが時折見せる、その瞳の真摯さを、疑う事はできなかった。
《はぁぁぁぁぁぁぁ…本っ当にキミ、は………》
呆れ声が中断され、俺の周囲を殺気が取り巻く。
「…信乃?」
《…早速のお出ましだよ、マスター。けど……》
困惑が混じったで"ライダー"が告げる。
「敵の、サーヴァント…!」
僅かに身体が震える。
「取り敢えず、マスターは八房殿に抱きついてすぐ逃げれるよう、に……」
霊体化を解いた信乃が刀を構えつつ俺に指示を出す。だが、それを実行するよりも先に、俺の身体は
「────────あれ?」
宙に。
「しまっ───────マスター!」
気を失う寸前の網膜に焼き付いたのは、蜘蛛とも鬼とも言い難い、巨大な怪物の貌だった。