蜘蛛の巣の道化

蜘蛛の巣の道化


困ったことになった、と思う。

任務でアジトを離れるヴェルゴの代わりに、突然穀潰しAから最高幹部に大出世して早数ヶ月。スパイダーマイルズに足を踏み入れた日から1年と少しが経った。

センゴクさんへの連絡は、未だに一度もできていない。

なにせおれが動ける範囲は兄によって厳密に決められていて、常に複数人の目が周囲にあった。唯一人目を避けられるのは与えられた私室だが、まあ確実に盗聴用電伝虫の二、三匹は放し飼いにされていると見ていいだろう。部屋の掃除をするにしても、最高幹部陣などは偉大なる航路にすら位置していない非加盟国の育ちのクセに一丁前に覇気の詳細を知り扱っているような連中だ。アジトにそこそこの見聞色の使い手でも居ればその時点でおれはおしまいである。

本当に、困ったことになってしまった。

本部で調べがついた事前情報と、潜入後、特に最高幹部として書類をさばくようになり判明した事実との間には驚くほどのズレがあった。センゴクさんは、これをどこまで想定していたのだろうか。

結論から言って、兄と最高幹部たちをまとめてしょっぴくというのは全くもって現実的ではない。

出来る、出来ないの話ではない。"やってしまうとマズい"といった性質の話だ。

手を組んだ相手のことごとくを裏切り気まぐれに人間屋を襲い、悪魔の実の売買で財を成す。裏社会にも広くコネクションを持つことが想定される、北の海で最も危険な海賊。それが兄、ドンキホーテ・ドフラミンゴの前評判だった。

だから、どんな祈りも届かないようなバケモノになっていたならば、おれは強い薬で気配を、凪で音を消して兄の寝室に忍び込み、その額に鉛玉を撃ち込んで終わらせてしまおうとすら思っていた。いたのだが。

ところがどっこい。そうは問屋が卸さなかった。

「コラさんコラさん、なんのご本を読んでるの?」

どういうわけだか何度暴力に訴えてまで追い払ってもなお近付いてくる少女に、諦めの境地で読んでいた哲学書の背表紙を見せる。

こういう時は要望に応える方が早く解放されるということを、おれも最近になってようやく学んだ。

「コラさんはむずかしい本が好きなのね…」

困った顔を見せてすぐ、軽やかな足音を立てて離れていった細い足から視線を無理やり引き剥がす。おそろしく危険な海賊であるはずの兄のアジトには今日も子どもたちのよく響く高い声が飛び交っていた。


例えば当初の予定通り、兄や幹部連中をインペルダウンにぶち込んだらどうなるか。

答え、ナワバリの無法者達が秩序を失い、北の海の治安が崩壊する。

この状況を知った時、おれの瞼の裏には部下に見せる不遜な笑顔の兄の姿がありありと浮かんだ。捕まえられるものなら捕まえてみせろ、と。

おれたち海兵に代わり非加盟国の市民を守るコラソンの傭兵部隊に、海軍と繋がりのあるディアマンテの賞金稼ぎ組合、ピーカのカジノやオークションはトレーボルの傘下と並んで物流や経済のバランスを取っていたし、奴隷やクスリの取引に関して言うなら非加盟国の人間相手に何をやらかそうと海軍が口を出せるものでもない。その支配のやり口は、北の利権をやり繰りし合うジェルマと比べてすらお行儀が良すぎると言って差し支えなかった。

しかもだ。兄の束ねる無法者の中には、偉大なる航路帰りのそれなり以上の賞金首がわんさと居た。放置しておくと厄介以外の何物でもないそいつらをまとめ上げて仕分け、己の船に乗せる以外はナワバリの内外で"ある程度の自由"を与えて動かす。実際全く別の旗を掲げ、何の関りもないですという名前と顔で悪魔の実の蒐集を進めている部隊は相当数があった。つまり北の海で現在活動している海賊団は、かなりの割合で事実上兄の傘下ということになるだろう。

ナワバリの外を襲う私掠船。さながら非加盟国での略奪を許可された七武海である。

そして兄の与えた"ある程度の自由"からはみ出た者は、ディアマンテの手により賞金へと変えられるという寸法だ。その後はインペルダウンの看守たちが律儀に後処理をしてくれるのだから楽なものだろう。

今現在、北の海の均衡を保っているのは大変残念なことにおれ達海軍ではなく、ただの無法者であるはずの兄その人であった。

アジトから追い出した子どもたちを保護してくれている同僚は、今頃話を聞いて大層渋い顔をしているだろう。一体どこの託児所の話を聞かされているのかと困惑しきりの様子は想像に容易い。どこの海賊が、というよりどこのお人好しが行き場のない子どもを拾ってきては面倒を見てやるというのか。

壊れた街に残された死体の山と、若様、若様と懐く子どもたちに笑顔を向ける姿。

はたしてどちらが兄のほんとうなのだろう。

血を流させない戦い方を選んだ兄。世界の真実を暴く瞳を持つ兄。

父を殺め首を切り落とした兄。丁寧に丁寧に、街ひとつ分の命を喰らい尽くした兄。

脳を痺れさせる甘い香りの子どもの頭を柔らかく撫ぜるその手は、かつておれにそうしたものと同じだと信じてよいのだろうか。

祈りはなくとも、そのおそろしさが心の全てを食い破ることはないのだと。

この1年で、おれにも気付けたことがある。

兄の怒りを誘うのはおれではなく、おそらくあの、迫害の内にいた過去なのだ。

そして悲しいかな、おれは兄にとって、あの壊れきった街の他に唯一過去そのものの形をした存在ということになる。こればかりは、おれ自身の努力や立ち回りでの改善は絶望的だ。

あの海の子どもが来てからというもの、政府含む他組織のパワーバランスと動向を探るのにすこぶる都合の良かった刺客やネズミの排除すらおれの手から取り上げられてしまった。重要な部分が神経質に抜き取られた書類をさばいて分かるようなことは、既に頭の中に入ってしまった。

それでももう少し、本部に連絡を取れるそれまでは、兄の傍で血に宿る修羅に耳をすませていよう。おれの為すべきことがここに無いのなら、あるいは兄が地獄に繋がれたままではないというのなら、兄の隣にいるのはおれでなくたって構わないけれど。

それでも。

甘い海の匂いが混ざった子どもたちの声を遠くに聞き流しながら、おれは本部勤務時代とそう変わらない、治安維持の為の書類仕事に向かうべく腰を上げる。

”兄を止めたい"というこの想いすら、おれのエゴであるままならいい。

子どもたちの出迎えに言葉を返す柔らかな兄の声から離れる足音は、小さな祈りを含んで冷たい廊下に響いていた。






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